東京吉本

東京吉本(とうきょうよしもと)とは、一般的には興行会社・吉本興業の東京のセクションを指す。大阪吉本とはまた独自の展開で、戦前の柳家金語楼柳家三亀松あきれたぼういずから、戦後の江利チエミ、近年のロンドンブーツ1号2号品川庄司オリエンタルラジオに至るまで、多くの人気タレントを輩出してきた芸能界の老舗である。また映画会社・東映の前身の一つ、太泉映画を設立したことでも知られている。組織上は、時期別に次の3つに大別され、それぞれ性格も異なる。

  1. 吉本興業東京支社(戦前期)
  2. 吉本株式会社(1946年 - ) - 1が戦後、大阪の吉本興業から分離独立したもの
  3. 吉本興業東京本社(1980年 - ) - 2が会社更生法の適用を受けた後、新たに大阪の吉本興業が東京に進出し、設置される。当初は東京連絡事務所、その後東京支社と格上げされ、現在は東京本社

以下で、それぞれについて詳細を述べる。

吉本興業東京支社(戦前期)[編集]

大阪から東京へ[編集]

明治末に大阪に創業した吉本は、大正末に東京・横浜へ進出した。既存の寄席や劇場の買収により東京地区の興行基盤を築いた。まず、経営不振に陥っていた神田神保町の寄席「川竹亭」を買収し、1922年(大正11年)元旦に「神田花月」として開場した。続いて、同年5月には、横浜伊勢佐木町の寄席「新富亭」を収めて、翌1923年「横浜花月」と改称した。昭和に入り、娯楽のメッカ・浅草公園六区の興行街へ進出。1927年(昭和2年)に浅草の「遊楽館」を借用して色物の演芸場として開館。続いて「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と傘下に収めた。1935年(昭和10年)にはその総仕上げとして、東京吉本の本拠地として「浅草花月劇場」を新築開業。

事業組織としては、1932年(昭和7年)3月に吉本興業合名会社の東京支社として正式に発足させ、林弘高が支社長に就任した。以後、大阪吉本を兄の林正之助が、東京吉本を弟の林弘高が率い、2人の姉である吉本せいが吉本興業の社長として両者を束ねる体制を確立させた。

モダン・ハイカラ路線[編集]

東京吉本の特長は、伝統的な演芸路線を採る大阪吉本とは一線を画したモダン・ハイカラ路線であった。

東京吉本を代表する浅草花月劇場は、レビューの「吉本ショウ」を中心に、軽演劇の実演、映画の上映、流行歌手の歌、そして漫才などの演芸でバラエティに富んだプログラムを組んでいた。客は木戸銭を払って入場すれば、幕間や休憩時間を含め6時間ものプログラムの中で、映画も見られれば、歌も聞ける、お芝居も見られて、演芸も楽しめ、半日ゆったりと遊べる一種の娯楽センターであった。その興行形態は日本的な寄席・演芸場というよりもむしろ、アメリカのボードビル・ショウに近かった。

こうしたアメリカナイズされたステージ・ショウを繰り広げる浅草花月劇場は、オープンと共に浅草公園六区の観客を熱狂させ、たちまち人気を集めた。

演芸評論家の小島貞二によれば、「定員700人の浅草花月劇場はいつ行っても立ち見で超満員、劇場の前ではそれでも入場を求める人の流れが渦を巻いていた」という[1]高見順永井荷風など文人にもファンが多く、当時の東京吉本のモダン・ハイカラ路線は、戦前の昭和モダニズムの一翼を担っていたと言えよう。

タレント専属制[編集]

東京吉本は大阪吉本とは独自に「タレント専属制」を採っていた。当時東京吉本の専属だったのは、人気落語家で喜劇俳優の柳家金語楼、三味線漫談の柳家三亀松を筆頭に、ボーイズ物の元祖・あきれたぼういず川田義雄坊屋三郎益田喜頓芝利英)、「のんき節」の石田一松、司会者の松井翠声、東京漫才の元祖・林家染団治・小川雅子(染団治は帝都漫才組合会長)、元祖外国人タレント・ミス・バージニア、コメディアンの木下華声(元江戸家猫八)、永田キング伴淳三郎などである。またアメリカ流のバラエティショウを目指す東京吉本は、アメリカ帰りの中川三郎、中川と名コンビを組んだ姫宮接子、子役タップダンサーのマーガレット・ユキミミー宮島など多くのタップダンサーも抱えていた。さらに「吉本ショウ」は専属のダンサー・チームと楽団を持っていたが、後者には江利チエミの父である久保益雄や、戦後コメディアンとして大成する「ブーちゃん」こと市村俊幸がピアニストとして在籍していたことも特筆される。

こうした東京吉本のモダン・ハイカラ路線を支えたのが、優秀なスタッフの存在であった。モダン・ハイカラ路線を打ち出したのは東京吉本を率いる林弘高自身であり、その背景には大阪吉本を率いる兄の林正之助への対抗心もあったと思われる。しかし東京吉本の文芸部には当時サトウ・ハチロー阿木翁助など多彩な作家が在籍し、弘高のブレーンとして東京吉本のモダン・ハイカラ路線を支えたことは見逃せない。

事業の推移[編集]

1939年(昭和14年)、当時の三大興行資本である松竹東宝・吉本の内、東宝と吉本の急接近に反発した松竹により、吉本の人気芸人への引き抜き騒動が勃発し、大騒動になる。引き抜きの手は東京吉本にも及び、川田義雄を除く「あきれたぼういず」、東京漫才の若手・香島ラッキー・御園セブンなどが、東京吉本から松竹傍系の新興キネマ演芸部に移籍した。吉本に残った川田は、新たに音楽ショウ「川田義雄とミルク・ブラザース」を結成し、人気の巻き返しを図る。一方吉本は、木下華声にも新たに音楽ショウ「ザツオン・ブラザース」を結成させ、両者に人気を競わせた。

1942年(昭和17年)には、榎本健一古川ロッパ、柳家金語楼の三大喜劇王と並ぶ存在だった「シミキン」こと清水金一が、堺駿二堺正章の父)らと共に東京吉本の傘下に入り、「新生喜劇座」を浅草花月劇場で結成、多くの観客を集めた。しかしその後の戦争の激化は、東京吉本の展開にも影を落としていく。多くの観客を熱狂させたモダン・ハイカラ路線は影を潜め、舞台にも軍国色が強くなっていた。さらには1944年(昭和19年)には「新宿花月劇場」(元新宿帝国館)など直営劇場数館が疎開という形で閉鎖に追い込まれてしまう。そして1945年(昭和20年)の東京大空襲では神田花月と江東花月が焼失、東京・横浜にきら星の如く点在した東京吉本の他の劇場群も相次ぐ空襲で壊滅状態となり、終戦時に残ったのは浅草花月劇場浅草大都劇場銀座全線座の3館のみとなるのである。

主な劇場・映画館[編集]

1936年(昭和11年)1月当時の直営劇場・寄席は、東京には浅草公園六区の「浅草花月劇場」、「昭和座」、「公園劇場」、神田の「神田花月」、新宿の「新宿帝国館」の5つ、横浜には伊勢佐木町の「横浜花月劇場」、「朝日座」、「寿館」の3つの計8つである。この内、東京吉本の本拠地に位置づけられていたのが「浅草花月劇場」であり、その姉妹館に位置づけられていたのが山の手の新宿にある「帝国館」であった。両者共、レビューの「吉本ショウ」を上演するなど、モダン・ハイカラ路線が売りの劇場である。一方「神田花月」は、一流の本格的な寄席であった[注釈 1]古今亭志ん生が、1941年(昭和16年)よりここで毎月独演会を開催し、以後の飛躍の契機を作った場所としても知られている。

その後1938年(昭和13年)には東京の江東地区にも進出して、「江東花月劇場」をオープン。さらに1941年(昭和16年)の日米開戦後は、フィルム不足や統制で転廃業に追い込まれる映画館も多く出る中、吉本の傘下に入り、演芸場に転向する映画館が続出した。1943年(昭和18年)に開館した「川崎花月劇場」と「横須賀花月劇場」、1944年(昭和19年)に開館した「神奈川花月劇場」と「尾久花月劇場」などである。これらは吉本直営ではなく、提携演芸場である(いわばフランチャイズ店のようなもの)。

吉本株式会社(1946年 - )[編集]

沿革[編集]

終戦後東京吉本は、焼け残った浅草花月劇場や浅草大都劇場に応急措置を施して復旧し、再開した。一方、既に戦前から大阪吉本と一線を画す動きを強めていた東京吉本だが、1946年(昭和21年)には、「吉本株式会社」を名乗り、大阪の吉本興業から正式に分離独立した。その背景には、東京吉本を率いる林弘高と大阪吉本を率いる兄の林正之助の間の確執もあったと推測される。

東京吉本こと「吉本株式会社」は、東京・銀座の一等地に本社とスタジオを構え、民放のラジオ番組制作にも係わるなど、戦前と同様かなりの隆盛を誇った。1946年(昭和21年)11月には、東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、「太泉映画」を設立し、映画製作を開始。太泉映画はその後他社と合併して、現在の東映に発展している。

戦後の東京吉本の活動で特筆すべきは、歌手・江利チエミの売り出しに尽力したことであろう。吉本興業は終戦に前後して、タレントの専属を解いていたために、この時期の東京吉本の専属タレントは、江利チエミただ1人であった[注釈 2]。チエミが東京吉本に所属するようになった経緯は、父親が戦前の「吉本ショウ」のピアニスト・久保益雄、母親が喜劇女優・谷崎歳子であり、両親共に東京吉本の所属だったという特別の事情であろう。そしてチエミのデビューを手がけた東京吉本は、彼女をスターにすることに見事成功している。

一方、演芸事業から一時撤退し、映画館経営に専念していた大阪吉本と異なり、この時期東京吉本は、一部の劇場を映画館に転身させながらも、浅草花月劇場を中心に、演芸にも積極的に取り組んだ。しかし演目は、戦前のモダン・ハイカラ路線は影を潜め、浅草公園六区の他の劇場と同様、ストリップや女剣劇を中心とし、その合間にコントを入れるといったものになっていった。この当時浅草花月に出演していたのは、清水金一トニー谷由利徹海野かつをショパン猪狩(後の東京コミックショウ)などである。

しかしその後テレビ時代を迎え、娯楽が多様化したことで、浅草公園六区の興行街が急速に地盤沈下したことは、当地を本拠地とし、浅草花月劇場など多くの劇場・映画館を当地に持っていた東京吉本を直撃した。東京吉本こと「吉本株式会社」は、経営が悪化し、最後は(昭和40年代?)会社更生法の適用を受けるに至った。

主な劇場・映画館[編集]

戦災で残った「浅草花月劇場」(一時「浅草グランド劇場」と改称するが、再び元の名に戻る)の他、江東地区に「江東吉本映画劇場」(昭和26年開館)、「江東花月映画劇場」(昭和27年開館)、横浜に「横浜グランド劇場」(昭和21年開館)などを経営。会社更生法適用後は、「浅草花月」のみ大阪の吉本興業に引き継がれ、映画館として80年代まで営業を継続。しかし80年代初頭に、「もはや浅草公園六区の興行街に将来性は感じられない」とする当時の吉本首脳部の判断で売却される。しかし近年、吉本は浅草を再評価し始め、「よしもと浅草花月」と称する定期イベントを開催。将来は再び浅草に定席の演芸場を持つ意向と伝えられている。

吉本興業東京本社(1980年 - )[編集]

沿革[編集]

吉本が再び東京に拠点を持つ契機となったのが、1980年(昭和55年)頃に勃発した漫才ブームである。このブーム最中の昭和55年、東京連絡事務所を設置したのがその始まりである[2]。これが現在の東京本社の起源となる。当時の東京吉本は、上京してくる大阪の吉本のタレントのマネジメントが主であった。唯一東京吉本出身のタレントと言えるのが、野沢直子であったが、彼女の場合は叔父である声優の野沢那智の紹介で吉本に入ったという特別な経緯によるものである。

東京事務所の所長を務めたのが、のちに吉本興業の常務となる木村政雄であり、のちの社長である、部下の大﨑洋とともに、吉本タレントのマネジメントを通して当時の漫才ブームの盛り上がりに一役買う。以後、ダウンタウンをはじめ、『大阪で実力をつけたタレントが上京して東京で活動し、全国区の人気を得る』という道筋を確立させる。

大阪吉本からの橋渡し業務のいっぽうで、80年代末以降、東京吉本は再び自前で芸人を育成することになり、「吉本バッタモンクラブ」と称するオーディションを定期的に開催。このオーディションを経て、東京吉本からデビューした芸人に、極楽とんぼココリコなどがいる。

その後自前の劇場も再び東京に持つことになり、1994年(平成6年)に「銀座7丁目劇場」、翌年に「渋谷公園通り劇場」をオープン。当時マスコミに「吉本が東京に初進出」と騒がれたが、前述のように戦前・戦後を通じて、吉本が東京・横浜に多くの劇場を持っていたことを思えば、「再進出」とするのが正しい。ちなみに銀座7丁目劇場からは、極楽とんぼロンドンブーツ1号2号ペナルティDonDokoDon山口智充平畠啓史)、品川庄司などが、渋谷公園通り劇場からはガレッジセールなどが育っている。

その後様々な事情により、両劇場は1999年(平成11年)までに閉館。代わって2001年(平成13年)、新宿に「ルミネtheよしもと」を、2007年(平成19年)には神田神保町に「神保町花月」をオープンした。ルミネtheよしもとロバートインパルス森三中オリエンタルラジオなどを輩出し、今や戦前の浅草花月劇場に匹敵する東京吉本の一大拠点になっている。

さらに1995年(平成7年)には、ダウンタウン・今田耕司ナインティナインなど数々の人気芸人を輩出した「吉本総合芸能学院」(NSC)の東京校を開校。その1期生が品川庄司である。また組織的に見れば、吉本興業の東京連絡事務所として開設された東京吉本は、その後吉本興業東京支社、同東京本社と格上げされた。近年まで東京吉本は、神田神保町に本社ビルを構えていたが、業務拡張に伴い、2008年(平成20年)3月24日新宿の旧小学校跡地に移転した(後述)。

主な劇場[編集]

1994年(平成6年)に「銀座7丁目劇場」、翌年に「渋谷公園通り劇場」をオープンするが、1999年(平成11年)までに閉館。代わって、2001年(平成13年)に「ルミネtheよしもと」、2007年(平成19年)に「神保町花月」をオープン(2020年に「神保町よしもと漫才劇場」にリニューアル)。「ルミネtheよしもと」は東京吉本に所属する中堅・若手芸人中心の演芸を見せ、「神保町花月」は若手芸人による本格的な芝居が売りであった。また2006年(平成18年)には渋谷に「ヨシモト∞ホール」を開設した。若手芸人のライブも行っているものの、本質的にはテレビ番組収録用のホールである。[要出典]一方東京吉本は、将来は新宿に大阪の「なんばグランド花月」(NGK)に匹敵する大劇場を建設する意向である。[要出典]

2008年春移転・養成所併設へ[編集]

2008年3月24日、東京本社は業務拡張に伴い、それまでの東京都千代田区から新宿区の旧新宿区立四谷第五小学校花園神社の近く、2003年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定[3])に移転した。当面の予定は10年間といわれているが、2022年時点でも利用されている。

いわゆる廃校の再利用で、建物には耐震補強が施され、教室などはオフィスとして利用できるように、一部改築されているものの、階段外観内観などは小学校当時のものをそのまま利用している。

併せて、吉本興業のスタッフ養成所である「よしもとクリエイティブカレッジ」を4月に同所に開校した。

2022年3月に開局したBSよしもとのスタジオも設置されている。

主な所属タレント[編集]

吉本興業東京支社(戦前期)[編集]

吉本株式会社(1946年 - )[編集]

吉本興業東京本社(1980年 - )[編集]

主なスタッフ[編集]

吉本興業東京支社(戦前期)[編集]

吉本株式会社(1946年 - )[編集]

吉本興業東京本社(1980年 - )[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 戦後、新宿末廣亭席亭を長年務めた北村銀太郎によれば、戦前の東京で一流の寄席と見なされていたのが、四谷の喜よし、神楽坂の演芸場、芝の恵智十、神田の白梅と神田花月だったという。冨田均 『聞書き・寄席末広亭』 平凡社ライブラリー、2001年、190頁。
  2. ^ 矢野誠一は評伝『女興行師 吉本せい』において、金語楼も戦前に引き続き戦後も、東京吉本に所属していたと記述しているが、詳細は不明(矢野誠一 『女興行師 吉本せい-浪花演藝史譚』 中央公論社、1987年、88頁)。
  3. ^ 幼少時にアメリカから来日。後にチャキチャキの東京弁を使いこなす金髪美女として芸能界の人気者となる。その後東京吉本に入り、日本髪着物姿で、日本舞踊を踊る様が、戦前の浅草花月の名物となった。1941年(昭和16年)の日米開戦前後にアメリカに帰国。戦時中は、長年の日本滞在経験を生かして、米軍の情報活動にも協力したという(旗一兵 『喜劇人回り舞台-笑うスター五十年史』 学風書院、1958年、180-181頁)。
  4. ^ 戦前に活躍した日系二世でハーフの少女歌手兼タップダンサー。1928年(昭和3年)12月イギリスロンドン生まれ。1933年(昭和8年)来日。1935年(昭和10年)11月、6歳にして浅草花月劇場こけら落とし公演にタップダンサーとして出演。金髪を振り乱して踊る可憐な姿は「日本のシャーリー・テンプル」「舞踏界のお人形」と言われ、人気を博した。日英仏語に堪能だったという。
  5. ^ 戦前の少女歌手兼タップダンサー。1930年(昭和5年)横浜市の電気商の娘として生まれる。6歳頃から浅草花月の「吉本ショウ」に少女役として出演。喜劇とタップを演じた。当時の浅草花月のプログラムには、「吉本ショウ出演のミミー宮島は、通学のため、平日朝の一回だけ休演させて頂きます」と記されており、小学校に通学しながら連日夜までの興行を務めていた。1940年(昭和15年)に、「大きな古時計」を日本で初めてレコーディングしたことでも知られる。戦後は渡辺弘とスター・ダスターズなどで歌った(瀬川昌久大谷能生 『日本ジャズの誕生』 青土社、2009年、109頁)。
  6. ^ 生没年不明。1931年立教大学を卒業し、毎日新聞に入社。社会部、学芸部記者を経て、1938年東京吉本に入社。45年、キネマ旬報に移り、50年には新芸術プロダクションの製作部長に招かれる。57年新芸プロをやめ、フリーの芸能評論家に(砂古口早苗 『ブギの女王・笠置シヅ子-心ズキズキワクワクああしんど-』 現代書館、2010年、99-100頁)。
  7. ^ 1932年2月東京品川生まれ。1953年実践女子大学国文科中退。東京吉本のラジオ部に入り、製作の仕事に携わる。54年、ニッポン放送文芸部に移り、57年退社。フリーの演劇プロデューサーを経て、吉田事務所を設立。石坂浩二加賀まりこ池部良緒形拳などのマネジメントを手掛けた。74年6月急逝(矢野誠一 『舞台人走馬燈』 早川書房、2009年、186-188頁)。

出典[編集]

  1. ^ 小島貞二 「東京吉本ラプソディ」『ザ・よしもと大解剖』 読売新聞社、1988年、59-60頁。
  2. ^ 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
  3. ^ DOCOMOMO. “四谷第五小学校(吉本興行東京本部)”. docomomo. 2022年6月7日閲覧。
  4. ^ 音楽の奇才発掘! 「レイモンド・スコット・ソングブック」 依田彰-Book.asahi.com” (2013年3月13日). 2013年8月22日閲覧。
  5. ^ 阿木翁助 『青春は築地小劇場からはじまった-自伝的日本演劇前史』 現代教養文庫、1994年、210頁。

参考文献[編集]

  • 池内紀 『地球の上に朝が来る 川田晴久読本』 中央公論社、2003年 - 戦前の東京吉本の大看板・川田晴久(川田義雄)についての研究書。同じ東京吉本所属の永田キングや「吉本ショウ」についての論考も含む。
  • 小島貞二 「東京吉本ラプソディ」『ザ・よしもと大解剖』 読売新聞社、1988年、59-61頁 - 戦前の東京吉本の歴史をコンパクトにまとめている。
  • 瀬川昌久 『ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』(増補決定版) 清流出版、2005年(初版は1983年) - 戦前の東京吉本における「吉本ショウ」のレビューに1章をあてている。筆者は著名なジャズ評論家。
  • 高見順 『如何なる星の下に』 講談社文芸文庫、2011年(初版は1939年) - 主人公・小柳雅子のモデルは、戦前の「吉本ショウ」の踊り子、立木雅子と小柳咲子。戦前の東京吉本の雰囲気がよく分かる一品。
  • 乗越たかお 『ダンシング・オールライフ 中川三郎物語』 集英社、1996年 - 戦前の「吉本ショウ」のレビューに詳しい。当時のレビュー評も掲載。
  • 旗一兵 『喜劇人回り舞台 笑うスター五十年史』 学風書院、1958年 - 戦前の東京吉本に詳しい。筆者は戦前の東京吉本の企画制作部社員。
  • 原健太郎 『東京喜劇 アチャラカの歴史』 NTT出版、1994年 - 東京お笑い史の中に戦前の東京吉本を位置付けた佳作。
  • 向井爽也 『にっぽん民衆演劇史』 日本放送出版協会、1977年 - 「吉本ショウ」だけでなく、「ピッコロ座」「永田キング一党」「オオタケ・フォーリーズ」「新喜劇座」など、戦前の東京吉本が抱えていた一座に詳しい。

関連項目[編集]