吉備由利

吉備 由利(きび の ゆり、? - 宝亀5年1月2日774年2月17日))は、奈良時代後期の女官吉備真備の娘。従三位尚蔵吉備命婦とも記される。

経歴[編集]

藤原仲麻呂の乱後の天平宝字8年(764年)9月に、稲蜂間仲村女とともに従五位下から正五位上に昇叙されたとあるのが、初めての記録である[1]。同年、10月17日付の御執経所奉請経文に「吉備命婦」と見えている[2]

仲麻呂の乱後、父の吉備真備とともに称徳天皇に信頼され、側近として典蔵を務めた。天平神護2年(766年)には、天皇のために一切経を書写している[3][4]神護景雲2年(768年)10月、従三位に昇進した[5]。神護景雲4年(770年)、称徳天皇が病臥すると、同年8月に天皇が没するまでただ一人寝所に出入りを許され、群臣との取り次ぎを務めたという[6][注釈 1]。この間、勅旨によって藤原永手と真備に軍事権が委ねられている。後に尚蔵となり、宝亀5年薨去した。

天平神護2年10月8日の奥書を持つ「吉備由利願経」が西大寺などに現存している。詳しく述べると、『西大寺資財帳』に「一部吉備命婦由利在四天王堂進納」とあり、以下に経巻名と巻数が記されており、その記述から、西大寺に一切経1部を施入したことが分かっている[7]天長5年(828年)2月、西大寺四天王堂にあったその一切経は法隆寺に移されている[8]

官歴[編集]

注記のないものは『続日本紀』による

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、全てのことを由利一人が行うことは困難であり、光仁天皇の即位後に叙位を受けている尚侍大野仲仟典侍飯高諸高が彼女を補佐をしていたと考えられている(中川久仁子「飯高諸高」加藤謙吉 編『日本古代の王権と地方』(大和書房、2015年) ISBN 978-4-479-84081-7)。

出典[編集]

  1. ^ 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年9月23日条
  2. ^ 『大日本古文書』巻十六 - 455頁
  3. ^ 『寧楽遺文』下巻637頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 352頁
  5. ^ 続日本紀』巻二十九、称徳天皇 神護景雲2年10月13日条
  6. ^ 『続日本紀』巻二十九、称徳天皇 神護景雲4年8月17日条
  7. ^ 『寧楽遺文』上巻406頁
  8. ^ 『日本後紀』巻第三十六、淳和天皇 天長5年2月13日条
  9. ^ 『続日本紀』巻第二十八、称徳天皇 神護景雲元年10月壬戌条。ただし、干支に合っておらず、壬寅(26日)のあやまりではないか、とされる。あるいは11月壬戌(16日)の錯簡とも取れる。

関連作品[編集]

参考文献[編集]