吉住小三郎

吉住 小三郎(よしずみ こさぶろう)は、近世中期以来の長唄唄方の名跡。7代を数える。

初代[編集]

初代 吉住 小三郎元禄12年(1699年)- 宝暦3年(1753年旧7月16日

幼名を仙次郎といった。摂津国住吉の生まれ。住吉神社神官あるいは伶人の家の出で、住吉を逆にした吉住を芸名として名乗ったと伝わる。はじめ六代目杵屋喜三郎あるいは四代目中山小三郎の弟子となり、仙次郎の初名で舞台に上がった。唄浄瑠璃を得意とし、大当たりを取った「娘道成寺」の初演で好評を得た。のちに坂田兵四郎初代松島庄五郎と共に活躍し「名人上手」と並び称された。

二代目[編集]

二代目 吉住 小三郎寛政11年(1799年)- 嘉永7年(1854年旧2月11日

四ツ谷の芋屋の生まれ。幼名を五郎三郎といい、芋五郎とあだ名された。三代目芳村伊三郎の弟子となり、芳村五郎治を名乗って初舞台。そののち吉住小八を経て天保6年(1835年)頃に三代目芳村伊十郎を襲名、さらに花垣五郎三郎をへて、弘化3年(1846年)に二代目吉住小三郎を襲名した。俗に「芋屋の小三郎」。初代同様に唄浄瑠璃を得意とした。のちに三代目岡安喜三郎二代目冨士田音蔵と共に「天保の三名人」と並び称された。

三代目[編集]

三代目 吉住 小三郎(天保3年(1832年)- 明治22年(1889年12月25日

江戸の生まれ。二代目の弟子となる。前名は吉住小太郎。万延元年(1860年)に三代目吉住小三郎を襲名。

四代目[編集]

四代目 吉住 小三郎明治9年(1876年12月15日 - 昭和47年(1972年2月27日

明治22年(1889年)12月に四代目吉住小三郎を襲名。昭和38年(1963年)6月に五代目に譲り、吉住慈恭を名乗る。

五代目[編集]

五代目 吉住 小三郎明治41年(1908年1月28日 - 昭和58年(1983年1月16日

東京の生まれ。四代目の長男。本名は吉住秀雄。大正13年(1924年)9月の長唄研精会で二代目吉住小太郎を襲名して初舞台。戦後は東京音楽学校で後進の指導と長唄の普及に力を注いだ。昭和38年(1963年)6月に五代目吉住小三郎を襲名。息子に6世小三郎、花垣嘉秀(三味線方)、吉住小貴三郎(唄方)。

六代目[編集]

六代目 吉住 小三郎(昭和6年(1931年11月6日 - 平成18年(2006年6月18日

東京の生まれ。五代目の長男。本名は吉住隆雄。昭和29年(1954年)東京芸術大学邦楽科を卒業の後、昭和31年(1956年)に同大学で研究科を修了。この間、昭和30年(1955年)祖父・吉住慈恭に学び、吉住小三治郎を名乗って同年9月の長唄研精会で初舞台。昭和52年(1977年)に長唄十人会を結成。昭和58年(1983年)1月父の死去を受けて六代目吉住小三郎を襲名。翌年、長唄協会常任理事に就任。平成18年(2006年)がん性胸膜炎で死去。

作曲に「平賀源内」などがある。

七代目[編集]

七代目 吉住 小三郎(昭和39年(1964年) - )

東京の生まれ。六代目の長男。平成20年(2008年)に七代目吉住小三郎を襲名し家元を継承。

出典・参考文献[編集]

脚注[編集]