反ユダヤ主義

ユダヤ人バッジとは、歴史を通じて特定の社会(主にナチスドイツとその管理地域) でユダヤ人に対する差別・排斥的な目的で使用されてきた装置である
70年のユダヤ戦争エルサレム攻囲戦エルサレム神殿が崩壊し、熱心党エッセネ派が消滅し、パリサイ派だけが残った[1]。絵画『エルサレムの包囲と破壊』、David Roberts, 1850年
ユダヤ教の祭具、ジュダイカ。ユダヤ教徒にとって安息日(ヘブライ語: שבת シャバット)は聖なる全き休みの日であり、この日に働いた者は殺されるだろうと出エジプト記ではいわれる[2]ヘブライ語聖書タナハ、楽器ショファルシトロン箱。
イスカリオテのユダ(右側) 『最後の晩餐』、カール・ハインリッヒ・ブロッホ作、19世紀。ユダヤ人は、イエス・キリスト磔刑に責任があると広く信じられている
マドリードマヨール広場で行われた異端判決宣告式
1614年8月22日フランクフルトフェットミルヒの略奪(Fettmilch-Aufstand, ゴットフリート『年代記』[3])。
ドレフュス事件の時のパリモンマルトルでの反ユダヤ暴動(Le Petit Parisien, 1898年)
アウシュヴィッツ第二強制収容所ポーランドブジェジンカ(ドイツ語ビルケナウ)
2014年ガザ侵攻イスラエル軍パレスチナ自治区ガザ地区を攻撃。反イスラエルのデモが各地で発生した。
2015年パリ20区で発生したユダヤ食品店人質事件

反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと[4]。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと[5]

19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム: antisemitism)と呼び[4][6]、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪(: judeophobia,: Judenhass[7]とは区別して人種論的反セム主義ともいう[8]。セムとはセム語を話すセム族を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀にエルネスト・ルナンやヴィルヘルム・マルなどによってセム族とアーリア族が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した[注 1]

本来、ユダヤ人に対する差別的な攻撃を指し、イスラエルの政策に対する批判は該当しない。しかし、近年ではパレスチナ問題などイスラエルの政策への批判を建前にした反ユダヤ主義があるとして[11]、イスラエルでは国内の人権団体がテロ組織指定されたり[12]、欧米では親パレスチナのデモが規制されたりしている[13][14]

歴史的概観[編集]

反ユダヤ主義の歴史的発展については、ジェローム・チェーンズによる次のような整理がある[15]

  1. キリスト教以前の古代ギリシャ古代ローマにおける反ユダヤ教英語版。これは民族意識的な性格であった。
  2. 古代中世におけるキリスト教的なもの。これは宗教的・神学的な性格を持ち、近代まで拡大していった。
  3. イスラームにおけるもの。ただし、イスラム教ではユダヤ教徒はキリスト教文化圏よりも厚遇された。
  4. 啓蒙時代の政治的経済的なもの。これは後の人種的なもの(反セム主義)の基盤をなした。
  5. 19世紀以降の人種的反セム主義英語版。これはナチズムにおいて最高潮に達した。
  6. 現代のもの(新しい反セム主義英語版ともいう)。

チェーンズは、さらに反ユダヤ主義を大きく以下の3つのカテゴリに分けることができるとする[15]

  1. 民族的な性格の強かった古代のもの
  2. 宗教的な理由によるキリスト教的なもの
  3. 19世紀以降の人種的なもの

実際には、古代ローマ以前で民族間の一般的な虐待や酷使と後世の意味での反ユダヤ主義を識別することは難しい。ヨーロッパ諸国家がキリスト教を受け入れてからは、明確に反ユダヤ主義と呼ぶべき事態が生じていった。イスラム教世界ではユダヤ人はアウトサイダーと見なされてきた。科学革命産業革命以後の近代社会では人種に基づく反ユダヤ主義(反セム主義)が唱えられ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺をもたらした。1948年のイスラエル建国以後は中東においても反ユダヤ主義がはびこるようになった。

以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会におけるユダヤ人の取り扱いのほか、ユダヤ側の反応などの歴史を述べる。

古代[編集]

紀元前586年新バビロニア王国ネブカドネザル2世ユダ王国を征服した。エルサレム神殿は破壊され、ゼデキヤ王を含めたユダヤ人は捕虜となり、バビロニアに強制移住させられた(バビロン捕囚)。紀元前538年にペルシャ王キュロス2世が新バビロニアを征服し、ユダヤ人に神殿の再建を許可し、解放した。この時、一部のユダヤ商人はパレスチナへ帰還せず、バビロンや各地に留まり、こうしてペルシャ支配の時代(紀元前537年 - 紀元前332年)にユダヤ人は離散(ディアスポラ)した[16]

紀元前4世紀ギリシアの哲学者アブダラのヘカタイオス[注 2]モーセは人間らしさと歓待の精神に反する生活様式を打ち立てたと記した[17]

紀元前2世紀セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世エジプトプトレマイオス朝を打倒して当地のユダヤ人を支配した。紀元前167年にユダヤ人の反乱マカバイ戦争が起きると、アンティオコス4世は弾圧政策を開始したが、そこにはユダヤ種は他の民と友好関係を結ぼうとせずにすべてを敵とみなしているため、完全に絶やす意図があったと記録されている[注 3]

ローマ帝国と初期キリスト教において[編集]

石打ちに処されるステファノ』(Marx Reichlich作、1506年)。
『パウロの回心』(ピエトロ・ダ・コルトーナ作、1631年)。
絵画『エルサレム神殿の破壊』フランチェスコ・アイエツ、1867年

1世紀ユダヤ教の堕落に対して洗礼運動を開始したユダヤ人の洗礼者ヨハネ[18]、生粋のユダヤ人ではないイドマヤ系のガリラヤ領主ヘロデ・アンティパス[19]異母兄弟の妻ヘロデヤと結婚したことを姦淫として非難し、処刑された[20]。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたユダヤ人のナザレのイエスイエス・キリスト)は[21]ユダヤ教を改革し、これを民族宗教から普遍宗教へ変化させた[22]

35年(36年)頃、ユダヤ人キリスト教徒ステファノはユダヤ教を批判したためファリサイ派石打ちで処刑され、キリスト教で初の殉教者となった[23]ファリサイ派のユダヤ人サウロは当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教徒となりパウロに改名し、後に聖人となった。ユダヤ教を批判したパウロは「ユダヤ人の敵」で反ユダヤ主義の源泉ともいわれる[24]

哲学者セネカは、ユダヤ・キリスト両教徒について「極悪な民族の習慣はますます強固となって、全世界に根を下ろすようになった。被征服者が征服者に法律を定めた」と述べた[25]

66年ローマ帝国ユダヤ属州総督の迫害に対してユダヤ教過激派が反乱を起こしてユダヤ戦争が始まった[26]70年エルサレム攻囲戦に際し、ローマ軍司令官(後皇帝ティトゥスはユダヤ・キリスト両教徒を絶やすためにエルサレム神殿を破壊し、反乱を鎮圧した[26][27]ヨセフスもローマ軍に投降し、熱心党サドカイ派エッセネ派のクムラン教団はこの戦争で消滅し、パリサイ派だけが残った[1][28]

ユダヤ戦争後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした[28]。10万近いユダヤ人捕虜は、全ローマ帝国に銀貨一枚で奴隷として売られた[16]。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒は反乱に加わらなかったため、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視するようになった[26]

70年代パレスチナ小アジアで成立したキリスト教の福音書[注 4]では、エルサレム攻囲戦で生き残った唯一のユダヤ教集団のパリサイ派が偽善者として批判された[1][30]ヨハネ福音書ではユダヤ人は「悪魔から出てきた者」であって「彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない」[31]と、ユダヤ人をキリスト殺し、悪魔の子と非難し、キリスト教の反ユダヤ主義に神学的表現を与えた[24]。福音書で記されたイスカリオテのユダについて、ポリアコフはユダの名前は偶然というよりも意図が働いていたのではないかと疑っている[32]

当時の記録では、フラウィウス・ヨセフスリュシマコスを引用して「モーセはユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと書き[注 5]、またタキトゥスはユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書いた[17][33]

132年-135年ユダヤ属州バル・コクバの乱が発生した。ハドリアヌス皇帝は鎮圧後、ユダヤ教徒による割礼を禁止した[17]。この乱以後、ユダヤ人のエルサレム居住は禁止され、ユダヤ教祭儀の実践は死刑となった[16]138年アントニヌス・ピウス皇帝が割礼を許可したが、ユダヤ教の宗教活動を制限するために非ユダヤ人の割礼を禁止した[17]

ニュッサのグレゴリオス335年頃 - 394年以降)

3世紀のローマ帝国ではユダヤ教よりも新興宗教のキリスト教が迫害された[17]。当時キリスト教は制度化が未熟で、キリスト教聖典学者はラビに教えを請うていた[17]。しかし、キリスト教神学者からの反ユダヤ主義もみられ、オリゲネスは『ケルソス駁論』でユダヤ人は救い主に対して陰謀を企て、その罪のためにエルサレムは滅亡し、ユダヤ民は破滅し、神による至福の招きはキリスト教徒に移行したと論じた[32]

313年、ローマ帝国皇帝リキニウスコンスタンティヌス1世は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」とのミラノ勅令を出した[34]

この頃、ユダヤ人はライン川流域に奴隷、ローマ軍兵士、商人、職工、農民としてやってきており、321年の勅令ではケルンのユダヤ人住民が記されている[16]

330年、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノープル遷都し、やがて西ローマ帝国東ローマ帝国に分かれていった。

380年ローマ帝国がキリスト教を国教とすると、392年にはキリスト教以外の宗教、ローマ伝統の多神教が禁止された[35]。ユダヤ教は多神教でなく一神教なのでこの時に迫害は受けていない。

4世紀から5世紀になると、ゲルマン諸民族がヨーロッパに勢力を拡大し、西ゴート族アラリック1世がローマ帝国への侵入を繰り返し、457年には東西ローマ帝国が分離し、オレステスオドアケルクーデターによって476年西ローマ帝国が滅亡した。以後、東ローマ帝国ローマ帝国は継承された。

カッパドキア教父ニュッサのグレゴリオスはユダヤ教徒を悪魔の一味、呪われた者と罵倒した[32]

ヨアンネス・クリュソストモス

コンスタンティノープル総主教ヨアンネス・クリュソストモスは、ユダヤ人は盗賊、野獣で「自分の腹のためだけに生きている」と罵倒し[32]「もしユダヤ教の祭式が神聖で尊いものであるならば、われわれの救いの道が間違っているに違いない。だが、われわれの救いの道が正しいとすれば、ーもちろんわれわれは正しいのだがー、彼らの救いの道が間違っている」とし、ユダヤ教徒による不信心は狂気であり[36]「神の御子を十字架に懸け、聖霊の助けを撥ねつけたのなら、シナゴーグは悪魔の住まい」だと述べた[24]

以来、ビザンティン帝国で反ユダヤ主義の伝統が形成され、千年後のモスクワ大公国でのユダヤ人恐怖をもたらした[32]。ゴールドハーゲンはヨアンネスの事例は西洋近代へもつながり、キリスト教徒にとってのユダヤ教徒は有害で害虫であり、キリスト教徒であることそれ自体がユダヤ人への敵意を生み出し、ユダヤ人を悪の権化、悪魔とみなしていったとする[36]。ヨアンネスの『ユダヤ人に対する説教(Adversus Judaeos)』はナチス・ドイツにおいて頻繁に引用された[37]

東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世(在位408-50)はユダヤ人を公職追放し、この布告はヨーロッパで受け継がれ18世紀まで効力を持った[24]

5世紀初頭にアウグスティヌスはユダヤ人はキリスト教信仰を受け入れるだろうとし[38]、ユダヤ人はイエス殺害により死に値するが、カイン同様地上を彷徨わせるべきで、再臨の時にユダヤ人は過ちを認めてキリスト教に帰依する、さもなければ悪魔の国に落ちるとし、ユダヤ人を悲惨な状態のままで生き永らえさせよと主張した[24][39]

キリスト教徒にとってのユダヤ人は、イエスの啓示を否定するとともにイエスを殺害した特別な民族であり、ユダヤ人は神の冒涜者で世界の道徳秩序の破壊者であり、これはキリスト教文化の原理となった[36]。4世紀にキリスト教教会が勝利を収めてから中世を通じて反ユダヤ主義は断絶しなかった[36][40]

ゲルマン諸王国[編集]

ヨーロッパのゲルマン諸王国ではカトリックへの改宗が進んだ。496年にはメロヴィング朝フランク王国クローヴィス1世が、またイタリアのランゴバルド王国587年にはイスパニア西ゴート王国がカトリックへ改宗し、キリスト教国家となった。

西ゴート王国
西ゴート王国(415年 - 711年)
589年の第3回トレド公会議西ゴート王国アリウス派からカトリックに改宗したほか、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷や妻を持つことが禁止された[41]612年、シセブート王がユダヤ人にキリスト教の洗礼を強制したうえ、第4回トレド公会議では改宗したユダヤ人に訴訟を禁止した[41]。第6回トレド公会議(639年)でユダヤ教儀礼を禁止する誓約書を提出されるキンティラ王の政策を追認し[41]、第8回会議(653年)で西ゴート法典でユダヤ教の宗教儀礼を禁止した[41]680年の第12回トレド公会議でエルウィック王の反ユダヤ法が承認されてユダヤ人の強制改宗が法的に定められ、違反者は追放、奴隷や財産の没収が課せられた[41]
693年、エギカ王が前王の勢力の陰謀に対して第16回トレド公会議で陰謀に加担した大司教や貴族の財産没収を命じるとともに、キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収を命じ、西ゴート法典にも記された[41]。第17回トレド公会議(694年)でエギカ王はユダヤ人による王国転覆計画が発覚したと告発し、司教たちは「ヒスパニアのユダヤ人を全員奴隷とする」と議決した[41]
フランク王国
フランク王国の時代別の領土
フランク王国では6世紀に、王の御用商人ユダヤ教徒プリスクスなどのユダヤ商人が地中海交易で活躍した[42][43]
636年東ローマ皇帝ヘラクレイオスがイスラム勢力のアラブ人に敗北すると、占星術で「キリスト教王国は割礼をほどこされた民(イスラム教徒アラブ人、ユダヤ教徒)に滅ぼされる」との予言が出された。ヘラクレイオスから予言を伝えられたメロヴィング朝フランク王ダゴベルト1世は、王国内のユダヤ教徒に即時改宗か国外退去を命じた[43][44]
カロリング朝でもユダヤ人大商人が活躍し[44]、カロリング時代には「ユダヤ人」と「商人」は同義語だった[16]。王室の庇護を受けたユダヤ人はキリスト教共同体に対して改宗活動を展開したが、これにキリスト教聖職者は反発した[44]
8世紀初め、ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼしてフランク王国を征服しようとした時、ユダヤ教徒がイスラムに手を貸したとキリスト教側の記録に記されている[43]
732年にメロヴィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルによってウマイヤ朝の進撃が食い止められた後、ポワチエでの定住がユダヤ人に許可され、東方交易に従事した[43]
759年サラセン人に占領されていた南フランスのナルボンヌを奪回したピピン3世は、武器を援助したユダヤ人にナルボンヌの3分の1に当たる領地へ居住することや、ユダヤ共同体の代表が「ユダヤの王」を名乗ることを許可した[16][43]
サリカ法典』の8世紀写本の序文では、ゲルマン系のフランク族について「神自らつくりたもうた高名な人種、軍事に強く、結束にゆるぎなく、思慮深く、たぐいまれな美しさと白さを持ち、高貴で健康的な身体をもち、勇敢で俊敏な、恐るべき人種」と書かれた[45]
カール大帝(在位:768年 - 814年)はキリスト教への改宗を国民に強制したが、ユダヤ人は「聖書の民」であるために信仰が許可された[16]。また、ユダヤ人は自由通商貿易を許可され、ユダヤ共同体内での裁判権も許可された[16]。カール大帝は797年にアッバース朝へユダヤ人イツハクを派遣した[注 6]。カールはイタリアからユダヤ人商人を招いてライン川モーゼル川流域に住まわせ、シュバイヤー、ヴォルムスマインツに三大ユダヤ共同体が成立し、ボンケルンにもユダヤ植民地が築かれた[43]。また、カールはバビロニアのマヒールをナルボンヌに招き「ユダヤの王」称号を名乗ることやイェシーバーを開設することを許可した[43]
イスラム教とキリスト教の境界が確定して以降、キリスト教世界にとって東方との交易が難しくなったため、ユダヤ人商人が東方交易に乗り出し、ペルシャ、インド、中国まで進出した[16]
9世紀前半のリヨンではユダヤ人が宮殿に出入りしたり、徴税官になったり、奴隷を所有することもあった[43]皇帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世)はユダヤ教徒に改宗運動を許可し、839年に宮廷助祭ボード (Bodo) がユダヤ教に改宗した。リヨン大司教アゴバール(778-840年)はルイ1世にユダヤ人による改宗運動の禁止を訴えたが、王はユダヤ行政官エヴラ−ルを派遣してユダヤ人の特権維持を宣言し、追放されたアゴバールはユダヤ人の勢力拡大を嘆いた[44]
ユダヤ人がフランク王国の宮廷や貿易で活躍する一方、反ユダヤ主義も展開していった。843年ヴェルダン条約で王国が三分割された後、848年ヴァイキングデーン人西フランク王国ボルドーを襲撃した時には、ユダヤ人が裏切ったとされた[43]。860年頃、リヨン大司教アモロンはユダヤ教の「感染」からキリスト教教徒を守るため、ユダヤ人の食べ物や飲み物を口にすることを禁じ[44]876年にはサンスのユダヤ教徒が修道女と関係を持ったとして追放された[43]
古代・中世ヨーロッパのキリスト教国家以外では、コーカサス黒海地域に成立したトルコ系ハザール王国8世紀に国王と高官がユダヤ教に改宗した。960年にはコルドバのラビ・ハスダイ・イブン・シャープルートがユダヤ教復興に期待し、ハザール王国に書簡を送った。

イスラーム[編集]

マディーナムハンマドはユダヤ教徒による神の教えの曲解を正すために神がアラビア語でムハンマドに啓示したと宣言した[46]。また、メッカとの戦争中、ムハンマドはユダヤ教徒のカイヌカーウ族(カイヌカー族)やナディール族を追放し、メッカ側についたユダヤ教徒のクライザ族の男は全て殺害され、女子は奴隷として売却された(クライザ族虐殺事件[46][47]

628年にハイバルのナディール族が降伏すると、他のオアシスのユダヤ教徒も降伏した[46]。以降、ユダヤ教徒はジンマの民(ズィンミー)とされ、反イスラム的行動をとらず、ジズヤ税(人頭税)を支払い、イスラムの公権力に従うことや戦費負担を条件に信仰や財産は認められた[47][48][49]

クルアーンではユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」と呼び、多神教徒や異教徒たちから区別して認めたが[49]、多くの箇所でユダヤ教徒が啓示を改ざんしたと批判される[49][50]。また「禁じられている利息をとり、人々の財産をむなしいことに濫費した」ユダヤ教徒は不信心者であり「われらは痛烈な懲罰を用意しておいた」と非難される[51]。一方で、イスラム教では宗教の強制的放棄や改宗は強要できないともされる[49][52]

833年にはサイダシドン・シナゴーグが建立された。

イスラム王朝ファーティマ朝では、第6代カリフアル・ハーキム(在位996年 - 1021年)がキリスト教とユダヤ教を弾圧し[44]1009年には聖墳墓教会を破壊した[53]

1066年、イスラム支配下のアンダルスでベルベル・ユダヤ人が殺害される グラナダ虐殺が起こった。

北アフリカのイスラム王朝ムワッヒド朝(1130年 - 1269年)でもキリスト教徒とユダヤ教徒が迫害された。

中世[編集]

イスラムに破壊された後、再建された聖墳墓教会

カペー朝フランス王国では、992年リモージュ乃至ル・マンで、キリスト教に改宗したセホクがユダヤ共同体から追放された腹癒せに、蝋人形をシナゴーグの聖櫃に隠してユダヤ人はキリスト教徒への呪いの儀式を行っていると告発した[43]。996年、ユーグ・カペーが死んだ場所が「ジュイ」であったため、ユダヤ人が死の原因とされた[43]。1007年頃、ロベール2世敬虔王がユダヤ教徒へ改宗を強制し、従わない者は処刑すると命じた。ユダヤ教徒イェクティエルの直訴を受けた教皇は、フランス王に撤回させた[43]

フランスをはじめ西ヨーロッパ諸国で、1009年ファーティマ朝による聖墳墓教会破壊について、ユダヤ人が教会の破壊をそそのかしたという噂が流布し、局地的に強制改宗や追放がなされた[44][53]。修道士ラウル・グラベールは「全てのキリスト教徒が、自分たちの土地と町から全ユダヤ教徒を追放するという点で意見の一致を見た」と記している[43]

これ以降、イスラム教徒とユダヤ教徒がキリスト教世界の覆滅を共謀しているという見方が一般的なものとなり、復活祭にはユダヤ共同体の長が平手打ちを受けるという慣習がはじまった[53]。トゥールーズでは聖金曜日に大聖堂の前でユダヤ教徒への平手打ちがはじまり、12世紀まで続いた[43]ベジエでは枝の主日にユダヤ居住区への襲撃が司教によって赦された(1161年に禁止)[43]

1010年にルーアン、オルレアン、リモージュで、1012年にはマインツやライン川流域の都市、そしてローマなどでユダヤ人が強制改宗や虐殺、追放の対象となった[44]

1066年には - フランスのオルレアンで異端審問が行われ、イスラム支配下のアンダルスでグラナダ虐殺が起こった。この年、ノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランド征服(ノルマン征服)によって、ルーアンのユダヤ人が経済金融政策を担当した[24]。当時すでにユダヤ人は高利貸付や信用貸付に長けており、ドゥームズデイ・ブックにはユダヤ人による土地買収が記録されている[24]

1084年、ドイツのシュパイアー司教リューディガーは、ユダヤ人にキリスト教徒の下僕や農奴、畑や武器を持つことを許可しており、この時は反ユダヤ主義はまだ激しくはなかった[44]

十字軍[編集]

民衆十字軍
隠者ピエール率いる民衆十字軍

1096年中世ヨーロッパで聖地エルサレムイスラム教諸国から奪還するための十字軍の派遣が始まると、キリスト教の敵としてイスラム教とユダヤ教が看做され、反ユダヤ主義が強まり、各地でユダヤ人への襲撃が発生していった[53]

民衆十字軍を組織したと伝えられる隠者ピエールは、無駄な暴力を慎み、ユダヤ人には物資と資金を調達させたにとどめた[54]。民衆十字軍からの攻撃に対してユダヤ教徒は買収によってまぬがれた場合もあった[53]ルーアンの十字軍参加者は東にいる神の敵を打ち負かしに行きたいが、身近にも神の敵であるユダヤ人がいるがこれは本末転倒であると述べ、実際、ルーアンをはじめフランス全土およびヨーロッパ各地でユダヤ人が放逐された[24][54]

ラインラント地方では、ライニンゲンのエーミヒョ伯爵の軍団が、ライン峡谷を下りながら、ユダヤ人集落に対して「洗礼か死か」と二者択一を迫って、襲撃した[54]1096年5月3日、エーミヒョ侯軍はシュパイアーではユダヤ人11人を殺害し、5月18日から25日にかけてヴォルムスでユダヤ人800人を殺害または集団自決に追い込み[55]、5月27日(28日[16])にはマインツで同じくユダヤ人700人から1014人[56]を殺害または自決に追い込んだ[54]

このほか、7月8日ケルン7月14日にノイス、ほかにトリーアバイエルンレーゲンスブルクバンベルクメッツプラハなどで襲撃が起こった[16][54]。各地の領主や司教は時には自らの命をかけてユダヤ人を守ろうとしたが、最下層民は十字軍兵士による虐殺に合流した[54]。ザクセンの年代記作家はこうした十字軍兵士に対して「人類の敵」「偽の兄弟」と叱責している[57]。エックスのアルベールは民衆十字軍ルーム・セルジューク朝に大敗北したのは、神の懲罰であり、ユダヤ人虐殺に対する正当な報いとした[57]

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、改宗を強制されたユダヤ人にもとの信仰に戻ることを許可した[54]。これが神聖ローマ皇帝とその臣民ユダヤ人という特殊な関係が生まれたきっかけとなった[54]。他方、教皇クレメンス3世は強制改宗の取り消しに強く憤った[54]

1146年、エデッサ伯領の喪失を受けてローマ教皇エウゲニウス3世が第2回十字軍を呼びかけた。クリュニー修道院長ピエールは「マホメット教徒の千倍も罪深い」ユダヤ人が身近にいるのに、なぜ遠征するのかと唱え、ドイツの修道僧ルドルフも「今ここ、われわれに交じって暮らしている敵を討つ」べきであると説いた[54]。この時、ケルン、シュパイヤー、マインツ、ヴュルツブルク、フランスのカランタン、ラムリュプト、シュリーでユダヤ人が襲撃された[54]ヴォルムスでも襲撃があった[55]

儀式殺人(血の中傷)[編集]

ユダヤ人に儀式殺人で殺害されたといわれたノリッジのウィリアムの磔刑。ノーフォークロッドンホーリー・トリニティ教会
キリスト教教会の典礼で使われる「聖餅(ホスチア)」。小麦粉を薄く焼いたもの。

十字軍の時代には、ドイツとイギリス、フランスをはじめ、ヨーロッパ各地でユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された[54]。これは血の中傷といわれる。

  • 1144年、イングランドのノリッジで、ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを拷問した後で体から血を抜き、その血を過越祭のパンに混ぜたという儀式殺人が告発されたが、これが最初の告発であった[24][57]。告発者のケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった[57]。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった[57]。イギリスでは、1168年にグロースター、1181年にはベリー=セイントエドモンズで儀式殺人告発がなされ、ユダヤ人が犠牲となった[24]
  • 1147年、ドイツのヴュルツブルクでユダヤ人数名が儀式殺人で告発され、何名かが殺害された[57]
  • 1150年、ケルンで、改宗ユダヤ人の男の子が教会で聖餅(ホスチア)を拝領すると、大急ぎで家に帰って、聖餅を土に埋めた[57]。僧侶が穴を掘り返すと、子供の遺体があり、光が下り、子供は天に上ったという話があった[57]
  • 1171年ブロワでユダヤ人50人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された[57][58][注 7]

儀式殺人を行ったとしてユダヤ人を告発する事件はこれ以降も中世ヨーロッパの各地で多発し、18世紀以降も東欧やロシアなどで発生が続いた[注 8]

ユダヤ金融業とユダヤ人の法的規制[編集]

高利貸し(Usury)。風刺文学『阿呆船』(1494年)挿絵。アルブレヒト・デューラー作と伝えられる。

ユダヤ人が金貸し業をはじめる前は、キリスト教修道院教会管区(シュティフト)が営んでおり、はじめは困った人々の支援から始まった金貸しは、やがて修道院金融業としてが大々的に発展していった[60]フランシスコ修道院では年利4〜10%を受けるほどであった[61]。これに対して、13世紀の修道院改革で、キリスト教徒間の利息をともなう金の貸し借りが厳格に禁止された[60]

12世紀に、教会はユダヤ人の土地取得にともなう十分の一税の補填を要求したため、ユダヤ人は土地を手放すようになり、また都市同業組織はキリスト教兄弟団の性格もあり、手工業はユダヤ共同体内部にとどまった[53]

こうしたことを背景に、ユダヤ人は金融に特化していった[53]。利子つきの金融をカトリックでは禁止しており、またユダヤ教でも「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。」(出エジプト記22-25)や戒律で禁止されていたが、ユダヤ教の場合は異教徒への金融は許されていた[53]

ユダヤ金融の利子は3から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失った[53]。こうしてユダヤ人金融業への敵意が増大していった[53]。第2回十字軍を勧進して回ったクレルヴォーのベルナルドゥスは、金貸し業はユダヤ人の本業(ユダイツァーレ)であるとした[60]

フランス王フィリップ2世(在位:1180年 - 1223年)は1180年にフランス王国内のユダヤ人を逮捕し、身代金と引き換えに釈放し、さらにキリスト教徒の借金を帳消しにし、負債額の2割を国庫に収めさせた[58]。翌1181年にはユダヤ人の債権の5分の1を王のものとし、残りを破棄させ[62]1182年税を支払えないユダヤ人を王領から追放し、ヨーロッパで行われた最初の組織的なユダヤ人追放となった[58]。しかし、1196年にはユダヤ人を王領へ呼び戻した[53][62][注 9]

ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)は証文作成や賃借記録提示を義務化などユダヤ金融業を規制し、1254年に十字軍から帰還するとユダヤ人を金融業から追放する勅令を出した[58]。1235年、ノルマンディーでユダヤ人金融業が禁止され、ヨーロッパ初の行政権によるユダヤ人金融業禁止令となった[58]フィリップ4世(在位:1285年 - 1314年)もユダヤ金融を規制した[53]12世紀末から13世紀初めには、フランス領主が、ユダヤ人を相互に返還する取り決めをしていた[53]

ヘンリー2世(在位:1154年 - 1189年)のイングランドには、1096年の十字軍によるヨーロッパでの放逐から逃れてきたユダヤ人移民が多く住み着き、高利貸、医者、金細工師、兵士、商人などの職業に就いた[24]。ユダヤ人商人は、財務代理人、国王代理人としてイングランド王にたえず貸付を行ったが、ユダヤ人商人の死後、その財産はイギリス王室帰属となった[24]。このようにイギリスではユダヤ人商人は「王の動産」であり、またユダヤ人は自治上の特権と引き換えに特別税を上納した[24]。ユダヤ人の貸付利子は年44.33%という高率であったため、債務者からは怨嗟の的となった[24]

12世紀末のイングランド財務裁判所にユダヤ財務局(Exchequer of the Jews)が作られ、ユダヤ人金融業が法規制の下におかれ、取引書類は王室官吏立会で行われるようになった[62]。イングランドのユダヤ人は金融業を営み、王侯の付き人として特殊な封臣となっていた[62]

しかし1210年、ジョン欠地王在位:1199年 - 1216年)はユダヤ人に法外な納税額を請求し、支払えなかったブリストルのユダヤ商人を幽閉し、歯を抜いて処刑した[62]。ジョン欠地王はユダヤ人を庇護したが財政が悪化すると、ユダヤ人に1万マークの罰金を課し、完済するまで抜歯されたり、目をえぐられたりした[24]マグナ・カルタの10・11条ではユダヤ人に債務を負う者の死後の弁済に配慮され、ユダヤ人高利貸しには不利なものであった[24]

中世ドイツのユダヤ金貸し業の金利[60]
場所 年利
1244年 ウィーン 174%
1255年 ライン都市同盟 最高金利年33.3%、週単位の短期貸付の最高年利43.3%
1270年 ミンデン 86.7%
1273年 ケルン 78.3%
1276年 アウグスブルク 86.7%
1338年 フランクフルト 32.5〜43.3%
1342年 シュヴェービシュハール 43.3%
1346年 トリエル 43.3%
1350年 ブレスラウ 25%
1391年 ニュルンベルク 10-13.5%〜21.7%
1392年 レーゲンスブルク 43.3%〜86.7%

このように高い利息によってユダヤ人金貸し業は営まれていたが、やがて世間ではユダヤ人の家には暴利をむさぼる搾取によって不正な財産があり、それは取り返してもよいとするユダヤ人財産略奪の思想が形成されていった[60]1247年には、ユダヤ人から、諸侯や聖職者が財産や金品を不当に奪い取るという訴えがあった[60]。中世から19世紀までのドイツでのユダヤ地区への略奪は、このような高利貸し業像を源としている[60]

異端審問の時代[編集]

1209年カルカソンヌから追放されるカタリ派。『フランス大年代記』(1415)

12世紀後半以降、ヨーロッパの教会において異端審問が広がった[63]1179年、ローマで開かれた第3ラテラン公会議で南フランスのカタリ派異端の宣告を受けて破門された。1184年のヴェローナ宗教会議で教皇ルキウス3世は、リヨンヴァルド派アルノルド派に破門を宣告した。

  • 1188年第3回十字軍に際してイングランドのロンドン、ヨーク、ノリッジ、リンでユダヤ人大虐殺が発生した[54]1189年リチャード1世(在位:1189年 - 1199年)が十字軍出陣式場にユダヤ人の入場を禁止したことをユダヤ人迫害の勅許とみなした群衆が、ユダヤ人の家に放火したり、30人のユダヤ人が殺害される暴動が起こった[24]。三人が処刑されたが、ユダヤ人と誤ってキリスト教徒の家に放火したり強奪した廉によるものだった[24]。ダンスタブルではユダヤ人全員がキリスト教に強制改宗させられた[24]1190年、ヨークでは、ユダヤ人高利貸しへの負債を帳消しにするためにバロン(貴族)たちが、ユダヤ人に搾取された財産を取り戻すとして、ユダヤ人を襲撃した[24]。城の塔に閉じ込められたユダヤ人は集団自決した[24]。何人かいた生存者も改宗を誓ったが殺害され、債務証書は焼却処分された。ユダヤ人犠牲者は150人となり、住民側は罰金を課せられただけにとどまった[24]
  • 1191年、ブレ=シュール=セーヌで儀式殺人で告発されたユダヤ人約100人が焚刑に処された[57]
  • 1196年ヴォルムスでユダヤ人襲撃があった[55]

1201年、教皇インノケンティウス3世は、暴力や拷問によってキリスト教の教えに導かれたものでも、キリスト教の刻印を受けたことには変わりはなく、西ゴート王シセブートの治下でのように、神の秘跡とのつながりが確立してしまった以上、強制によって受け入れた信仰にその後も忠実であるよう求められてしかるべきであると教書で述べて、一度改宗したユダヤ人は棄教できないとした[54]

1208年、アルルのローヌ河畔で教皇特使ピエール・ド・カステルノーが、カタリ派のレイモン6世の家臣によって暗殺されると、ローマ教皇インノケンティウス3世は北フランス諸侯に十字軍を要請して、1209年、第5代レスター伯シモン4世モンフォールに率いられたアルビジョア十字軍が南フランス諸都市の異端カタリ派勢力圏の攻略に向かった[64][注 10]。このアルビジョア十字軍で南フランスは荒廃したが、そのなかでユダヤ人も迫害された[54]

ユダヤ人の識別・規制強化[編集]

それまでカトリック教会はユダヤ人への暴力による改宗を禁じていたが、1215年第4ラテラノ会議でユダヤ人がキリスト教徒と性的関係を持てないように衣服に識別徽章をつけさせ、また法外な利息の取り立てなどユダヤ金融業を規制した[53][66]。第4ラテラノ会議ではキリスト教徒に高利貸し業を禁止し、ユダヤ人を公職から追放し[67]、ユダヤ人はギルドからも締め出された[60]

ユダヤ人をバッジ(徽章)によって識別する政策はフランスではじまり、ユダヤ章は黄色とされた[66]。以降、違反者には罰金が課せられ、フィリップ4世はユダヤ章を有料として、財源とした[66]。ユダヤ人の服装は1179年第3ラテラン公会議でも規定されていたが守られていなかったため、ローマ教皇の使節は、ドイツ各地の教会に対して、キリスト教徒はユダヤ人との同席飲食の禁止、ユダヤ人の結婚式や祭儀への参加の禁止、ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止、ユダヤ人商店で肉や食料を買うことを禁止すると厳しく命じた[60]

ナチスドイツのイエローバッジ

イギリスではヘンリー3世(在位:1216年 - 1272年)治世下においてユダヤ人とキリスト教徒の商取引と交際が禁止され、ユダヤ人はイエローバッジの着用を命じられた[24]。20世紀のナチスドイツもイエローバッジを強制したが、これらはその先駆けであった[24]。また、イングランドでは二枚の布を胸に縫い付けることが義務化された[66]

税を滞納して完済しないユダヤ人の財産は王室に没収され、ユダヤ嫌いだった修道僧やカオール人高利貸しさえもユダヤ人の過酷な扱いを憐れんだ[68]。ヘンリー3世は、1232年にドムス・コンウェルソーム(改宗者の家)を建設し、ユダヤ人に改宗を促した[69]

ドイツでは、識別は頭巾や円錐形の黄色や赤色の帽子でなされ、ポーランドでも緑の帽子で識別された[66]1225年の『ザクセン法鑑』ではユダヤ人はまだ自由人であり、武器の携帯も許可されていたが、1275年の『シュヴァーベン法鑑』ではユダヤ人は厳しく制限された[62]

スペインとイタリアではユダヤ人に円形の章(ルエル)が義務づけられた[66]

フランスの獅子王ルイ8世1223年、ユダヤ人は王に帰属するとの勅令を王領地以外のフランス全土に拡大した[62]。ルイ8世は1226年アルビジョア十字軍を引き継ぎ、1229年トゥールーズ伯レーモン7世を破り、パリ条約によりレーモン領東部が王領化された[64][注 11]。南フランスには異端審問裁判所が設置された[注 12]。第6・7回アルビジョア十字軍はフランス西部で推定2500人のユダヤ人を殺害した[58]

続く聖王ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)はユダヤ人の改宗政策を行った[53]1230年のムランの勅令ではユダヤ人の借用証書は法的価値を有しないとされ、ユダヤ人の金貸し業者は農民や職人などの庶民に限られるようになった[62]。大口の取引はロンバルディア人カオール人が行うようになった[62][71]

1232年、教皇グレゴリウス9世はフランス王にユダヤ人虐殺の首謀者の処刑と略奪した財産の返還を求めた[58]。一方、勅書で教皇直属の異端審問法廷を設置して、地方の司教や世俗権力はドミニコ会とフランチェスコ会士の審問官に協力することが命じられた[63]。自白、または2名の証言のみで有罪判決が可能で、拷問が公認され、密告が奨励された[63]。この勅書と、アルビジョア十字軍でルイ8世が南フランスを制圧した1229年のトゥールーズ教会会議によって、異端審問制度が確立した[63]

その後フランスでは1361年にはジャン2世がユダヤ章を赤と白の2色に変更し、また旅行中はバッジを着用しなくてもよいと若干緩和された[66]

ユダヤ書籍の焚書と「皇帝奴隷」[編集]

1234年、フランスのモンペリエとパリで、マイモニデスを異端とするユダヤ教ラビのシュロモ・ベン・アブラハムの要請によってマイモニデスの著作が焚書された[66]

1236年第6回十字軍でフランス、イギリス、スペインでユダヤ人虐殺が起こった[54]。この年、ドイツで儀式殺人事件が数件発生した[57]。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年 - 1250年)は、改宗ユダヤ人による諮問委員会に儀式殺人の究明を命じると、ユダヤ教で人間の血を儀式で使用する根拠はどこにもなく、それどころか、ユダヤ教では人間の血をなにかに使用することは禁止されているとの報告がなされた[57]

1236年7月、フリードリヒ2世は金印勅書でユダヤ人を「皇帝奴隷」として血の中傷から守った[57][62]。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ドイツのユダヤ人が皇帝の国庫(カイザリッへ・カンマー)に属すると宣言した最初の皇帝となった[16]

1240年、フランス全土でタルムードが押収され焚書された[53][66]。改宗ユダヤ人のニコラ・ドナンがタルムードを背徳的であると告発し、教皇の要請でフランスの聖ルイ王(ルイ9世)がタルムードについての公開論争が繰り広げらた結果であった[66]

1246年、ベジエ公会議でユダヤ人医師にかかることが禁止された[注 13]。一説では、シャルル禿頭王、ユーグ・カペー、シャルルマーニュ皇帝もユダヤ人医師によって殺害されたといわれた[72]。一方で、ユダヤ人医師は人気を博しており、教皇のアレクサンドル3世や16世紀の教皇パウルス3世まで、伝統的にキリスト教指導者の主治医でもあった[72]。また、ポワティエ伯アルフォンスもベジエ公会議を支持する一方で、ユダヤ人医師にかかった[72]

1247年、教皇インノケンティウス4世がユダヤ人に過越祭で子供の心臓を分け合っているという誤った告発がなされているという教書を公布し[57]1252年に教皇は取り調べに拷問を取り入れた。

1248年、ドミニコ会士アルベルトゥス・マグヌスはタルムード異端裁判での判決は正当とし、翌年ケルンの説教で普遍博士マグヌスはタルムードを弾劾した[66]

1255年、イングランドのリンカンにて儀式殺人。北フランスで異端審問。

1261年、神学者トマス・アクィナスは、ユダヤ人はイエス・キリストがメシアであることを拒否するために災難にあうのであるとし、ユダヤ人を永遠なる隷属に置くことは法に照らして正しいとした[73][74]。。また、国王はユダヤ人を所有物(財産)として保有でき、また諸侯はユダヤ人の財産を国家に帰属するものとみなすことができる、ただしユダヤ人の生活に必要な物資を奪ってはならない、また、ユダヤの習慣になかったような奉仕を強要してはならないと論じた[62]

1267年、教皇クレメンス4世は勅書で、キリスト教へ改宗した者をユダヤ教徒へ回帰させようとするユダヤ人、タルムード所持者にも異端審問官の手が及ぶようになった。それまでは異端審問所の対象はキリスト教徒に限定されていた[58]。同年、ウィーン公会議やブレスラウ公会議で、ユダヤ人が密かに毒を盛リかねないという恐れから、ユダヤ人の店で食料を買うことがキリスト教徒に禁止された[75]

1268年、ヴュルツブルクの吟遊詩人コンラート(コンラート=フォン=ビュルツブルク)は「卑怯にして、聞く耳を持たないユダヤ人に災いあれ。彼らは邪な人々」で、タルムードによって愚かになったと歌い、またジークフリート・ヘルプリングはタルムードは「偽りにしておぞましき書」で焚書にできれば申し分ないと歌った[66]

イングランドのローマ法学者ヘンリー・デ・ブラクトンは『イングランドの法と慣習法』で「ユダヤ人はみずから何も所有することはできない。ユダヤ人が手に入れるものすべてが王の所有物となる」とした[76][77]

1273年にローマ教皇は儀式殺人による告発を戒める教書を公布した[57]

1274年-1276年のシュヴァーベン法書では、キリスト教徒とユダヤ人との性交は火あぶりの刑によって処罰するとされ[60]、ユダヤ人は「永遠なる隷属」にあると書かれた[62][注 14]

ヨーロッパ各地でのユダヤ人追放[編集]

反ユダヤカリカチュア『悪魔の子アーロン(Aaron, Son of the Devil)』(1277年、エセックス)

エドワード1世(在位1272年 - 1307年)の時代のイギリスでは、イギリス化(ノルマンとサクソンの融合)が進むとユダヤ人はさらに孤立し、ユダヤ人の子供も課税され、教会はユダヤ人への食品販売を禁止したため餓死者もでた[68]。ユダヤ人医師による医療行為も禁止され、ユダヤ人による高利貸し独占を妨害するために教皇はカオール人など南フランス人、北イタリアの金融業者をロンドンへ進出させた。

また1275年、ユダヤ法(Statute of the Jewry)によって高利貸付は禁止された[68]。ユダヤ人が生活苦によって貨幣変造をしたことが発覚すると、ユダヤ人全員が投獄され、そのうち263人が絞首刑のうえ四つ裂きの刑に処せされた。また、改宗施設に行くことを拒否したユダヤ人は財産没収の上、国外へ追放された[68]1290年、イングランドでロンバルディア商人が勢力を伸ばすと、ユダヤ人の特権は失われ、ユダヤ人商人は放逐された[62]

フィリップ4世端麗王(在位:1285年 - 1314年)の時代のフランスでは、1288年トロワでの異端審問裁判で13名のユダヤ人が儀式殺人で火刑に処せられた。トロワで犠牲になったイツハク・シャトランを称えた詩では「復讐の神よ、妬み深き神よ、これら不実の輩に復讐せよ」と書かれた[62]

1290年、ビエット街事件が発生した。パリでヨナタスというユダヤ人債権者が、債務者のキリスト教徒にサン・メリー教会(4区)から聖餅(ホスチア)を盗めば借金のかたを返すといって、聖餅を手に入れた[78]。帰宅して聖餅をナイフで刺すと、血が流れ、熱湯に入れても血が流れ続けた。ヨナタスは隣のキリスト教徒の家に逃げて罪を告白し、聖餅はサン・ジャン・アン・グレーヴ教会司祭の手に渡り、ヨナタスは火刑となった[注 15]

1306年、財政窮乏に苦しんだフィリップ4世は、ユダヤ人とロンバルド人(イタリア)商人の財産を没収した上で国外追放し、その一部は南フランスへ移住した[53][58][79]。これ以前にもフィリップ2世、聖ルイ王などもユダヤ人追放を計画したことはあったが、これがフランス史上初のユダヤ人追放となった[80]

追放令について年代記では、神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が「皇帝奴隷」であるユダヤ人の返還を求めたためフランス王はこれに応じたとされている[62][注 16]。フランスの庶民はキリスト教徒の金貸し業者よりも親切なユダヤ人金貸し業者を懐かしんだという記録もある[62]

1294年、スイスのベルンで儀式殺人事件が告発され、ユダヤ人が追放された[57]

1298年4月、レッティンゲンで聖餅(ホスチア)事件。聖餅を冒涜したとして、名士リントフライシュが復讐を叫び、ユダヤ人集落を襲撃して、殺害した[75]。リントフライシュ率いる暴徒集団は、フランケン地方、バイエルン地方で「ユダヤの殺戮者」を名乗って、ユダヤ人の町を襲撃して、洗礼を受け入れた者以外を9月までの数ヶ月間に虐殺を続けて、ユダヤ人の犠牲者は数千人から10万人に及んだ[75]。同1298年、ヴュルツブルクでも迫害が起きた[16]

1309年 - 十字軍計画が計画倒れになった際、ドイツのケルン、オランダ、バラバンでユダヤ人虐殺事件が起こった[54]

1311年、ウィーン公会議で金利貸しを裁判にかける権限が異端審問裁判所に認められた[81]

中世のユダヤ人学者の著作[編集]

中世のユダヤ人学者の著作では、十字軍時代での迫害の記憶から「キリスト」を「救いようのない男」「追放者の息子」「教会」を「不浄の家」「忌み」「十字架」を「悪しき印」などと言い換えた[62]。シュロモ・ベン・シメオンは「罪深きローマ教皇」と呼んだり、迫害者エーミヒョの骨を呪ったりしたあとで「復讐の神よ、姿を現したまえ」、隣人に罵りを7倍にして返せと書き、エリエゼル・ベン・ナタンはキリスト教徒に対して「彼らに悲しみと苦しみをもたらしたまえ。彼らに汝の呪いを差し向けたまえ。彼らを滅ぼしたまえ」と書いた[62]

ナフマニデス(Nahmanides 1194–1270)は、イザヤ書:2-4の「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」を論拠にして、ユダヤ教は平和の宗教であるのに対して、キリスト教は夥しい血を流させてきて、戦争が主人として君臨していると論じた[82]

13世紀末、敬虔者イェフダ−(イェフダ−・へ・ハシッド)の『敬虔なる者の書』では、ユダヤ教徒は非ユダヤ教徒と二人きりになってはいけない、キリスト教の音楽で子供を寝かせてはならない、また盗みをすると、ユダヤ人が盗人であり詐欺師であるといわれるから、してはならない、などと教訓が説かれた[62]

中世のユダヤ人ラビは、イエスを詐欺師とみたり、また敬虔なユダヤ教徒であったが、弟子たちがイエスを聖人として新しい宗教を作ったとみた[83]。このようにユダヤ教においても、キリスト教への憎悪がむき出しになっていた[84]

中世後期:14〜15世紀[編集]

ペストを描いた絵画

14世紀から15世紀1300年-1500年)にかけての中世後期のヨーロッパは戦争、飢饉、ペストの流行など危機と災厄に襲われた時代であった[注 17]。フランスとイングランドは百年戦争(1337年 - 1453年)を戦った。フランスが勝利したが内乱が発生し、イギリスでは薔薇戦争へ続いた。ドイツは恒常的な無政府状態が続いた[75]。百年戦争の長期化による略奪や課税強化などを理由として、フランスでジャクリーの乱1358年)、イングランドではワット・タイラーの乱1381年)が起こった。1315年から1317年の大飢饉や、ペストの流行(1348年 - 1349年)、そして世紀後半には魔女狩りがはじまった[75]。他方でイタリアではルネサンスがはじまった。この時代には、聖体冒涜事件(血の中傷)がヨーロッパ各地で頻発し、フランス、ドイツ、スペインなどヨーロッパの各地でユダヤ人追放令が出され、またユダヤ人はペストの原因であるとして迫害された。

大飢饉と羊飼い十字軍[編集]

1315年から1317年にかけてのヨーロッパ大飢饉では、パリやアントワープでは何百人もの死体が街路に散乱した[75]。飢えのために、各地で人食(カニバリズム)が行われた[75]ルイ10世は、フィリップ4世のユダヤ追放令(1306)は王国の経済にとって打撃となっていたため、1315年に高額賦課と引き換えにユダヤ人に2年の帰還を許可した[53][58]。しかし、大飢饉の発生によって、1317年にはシノンでユダヤ居住区が襲撃され、1319年にはリュネルでユダヤ人が儀式殺人で告発された[58]

1320年、貧窮に耐えかねたフランス北部の農民や修道僧は行き先のない行進をはじめた[75]。一人の若い羊飼いが、奇跡の鳥が生娘に姿を変えて、不信心者を打ち据えに行けと促した[75]。これによって、羊飼い十字軍(パストゥロー十字軍、牧童十字軍)がはじまり、フランス南西部、ボルドー、トゥールーズ、アルビ、さらにスペインで、ユダヤ人が襲撃される大規模なポグロムが発生した[54]。ユダヤ人は襲撃に抵抗したが、やがて集団自決を選び、ヴェルダン=シュール=ガロンヌでは500人が自決し、羊飼い十字軍によって、140のユダヤ居住地が絶滅した[75]。襲撃するユダヤ人がいなくなると、羊飼い十字軍は聖職者に矛先を向けていったため、教皇ヨハネ22世は羊飼い十字軍をたしなめ、年末にはフィリップ5世がフランス軍を出動して制圧した[75]

ル・ピュイの大聖堂

同じ1320年、フランス南部オート=ロワール県ル・ピュイで起こった儀式殺人事件では、ユダヤ人が聖歌隊員を殺害して、民衆が取調を待たずに殺したために、1325年、シャルル4世は聖歌隊にユダヤ人に関する司法権を委ねた[85]

聖体冒涜で焼かれるユダヤ人。1338年、バイエルンデッゲンドルフ

1321年、アキテーヌでユダヤ人がキリスト教徒を殺すために井戸に毒を入れたという噂が流れ、実際に井戸に毒が流された[75]。パルトゥネーの癩病患者がユダヤ人から謝礼をもらって井戸にキリストの聖体(聖餅)と混ぜて毒を入れたと告白したという事件が起きた[75]。フィリップ5世は調査を命じて、フランス全土でユダヤ人が逮捕、告発され、シャンパーニュ地方のヴィトリ−=ル=フランソワでは40人のユダヤ人が獄中で自殺し、トゥレーヌ地方シノンでは160人のユダヤ人が焚刑に処された[75]1322年、フランス王国で再びユダヤ追放令が出された[53]。ポリアコフは、ユダヤ人が綿密な陰謀でキリスト教徒の滅亡を図るという、罪のなすりつけが行われたのはこれが初めてであり、また王権がユダヤ人の財産を没収するために行ったと説明することもできるが、ナチスが「潜在的な復讐屋」としてユダヤ人殺害を正当化するメカニズムと同一のものとする[75]。これ以降、1361年までの40年間、フランスの資料、年代記で、フランス王国のユダヤ人の存在について言及するものはないため、フランスのユダヤ人はほとんどいなくなったとみられる[80]

  • 1336年、アルザス、シュヴァーベンでユダヤ人虐殺[75]。その直後、バイエルンのデッケンドルフ、オーストリアのブルカで聖体冒涜事件が発生[75]
  • 1343年神聖ローマ皇帝バイエルン公ルートヴィヒ4世は、12歳以上のユダヤ人に人頭税を課した[80]。ルートヴィヒ4世は、ニュルンベルクのユダヤ人に対して、ユダヤ人はその身体や財産は皇帝が保有すると宣言した[80]
  • 1345年、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクは、レグニツァ、ヴロツワフで、ユダヤ人の墓地を壊して、その墓石で町の城壁を補修するよう命じた[86]

ペスト[編集]

1347年1348年)から1350年1349年)にかけての黒死病(ペスト)大流行ではヨーロッパの人口の3分の1以上が被害となったが、そのスケープゴートとしてユダヤ人迫害が各地で発生した[53][87][88]。フランス王国ではユダヤ人による毒散布の噂が広まり、最大規模のポグロムが起きて、フランス王国内のユダヤ人共同体はほぼ消滅した[53]。改宗しなかったユダヤ人家族は火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれ、こうしたことの背景には、集団自殺の契約、また殉教者としての固い決意があったとされる[89][注 18]

1348年ジュネーヴにてペストの原因としてユダヤ人が迫害される[87]。9月、教皇はユダヤ人もペストの被害にあっていると発布したが、ユダヤ人への襲撃はやまなかった[91]1349年ベルンでペストの原因としてユダヤ人が迫害され[87]ストラスブールでは暴徒による内乱状態が三ヶ月間続き、市当局がユダヤ人にペストの罪咎はないと発表すると、市政府は転覆され、新しい市政府が2000人のユダヤ人を逮捕し、1349年2月14に全員を火刑に処して、ユダヤ人の財産をキリスト教徒住民に分配した[91]。おなじような事件がヴォルムス、オッペンハイムでも発生して、ユダヤ人が集団自決をし、フランクフルト、エアフルト、ケルン、ハノーファーでユダヤ人が虐殺されたり、追放された[91]。イギリスやフランスでのペストにともなう迫害によって、ユダヤ人は東欧へ逃れた[92]

鞭打苦行者。

また、ドイツやフランスでは苦行と改悔のために公衆の面前で自分を鞭打つ「鞭打苦行者」が現れた[91][93]。1261年に鞭打苦行は異端として禁止されていたが、ペストの時代に大規模に展開した[93]。鞭打苦行者は自分たちの儀礼と歌の方が、教会の聖職者よりも美しく、威厳があると主張した[91]。この鞭打苦行者の通過後に病死や病気が止まなかったことから、人々は疫病はユダヤ人がキリスト教世界に毒を行き渡らせるために流行させたと信じられて、ユダヤ人虐殺事件が発生した[91]。ユダヤ人がまったくいなかったチュートン騎士修道会の地方では、ユダヤ起源を疑われたキリスト教徒が虐殺された[91]

ユダヤ人への課税と保護政策[編集]

神聖ローマ皇帝はユダヤ人への徴税権を担保にして種々の取引を行った。1308年ルクセンブルク家の皇帝ハインリヒ7世は、マインツ大司教に皇帝選挙で当選したらユダヤ人税を贈与すると約束した[16]ルードヴィヒ4世は「汝らは身も持ち物も全て我らのものなり。我らは望むまま、思いのままに汝らを処遇する」とユダヤ人を皇帝の財産であると述べた。封建制下で授封や贈与によって皇帝の収入が減るほど、ユダヤ人からの税収入は重視されたが、皇帝権が動揺するとユダヤ人への徴税権は次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった[16]。ユダヤ人は共同体として支払う税、個人で支払う税、滞在許可、結婚許可税など30種類の納税義務を負っていた[16]

14世紀半ばには各地でユダヤ人保護政策がとられた。1352年にドイツのシュパイヤーではユダヤ人を呼び戻すことが叫ばれ、『マイセン法書』ではユダヤ人のシナゴーグと墓地が保護された[91]。1369年から1394年の間にはマインツ、フランクフルトなどでユダヤ人医師が厚遇されていた[72]

百年戦争中の1356年ポワティエの戦いでイングランドに敗戦したフランスはジャン2世善良王をロンドンへ捕囚され、身代金を要求された。また1358年にはフランスの農村でジャクリーの乱が起きた。1361年には王の身代金も払えないほどフランスの財政が破綻したため、王太子シャルルは、人頭税と引き換えにユダヤ人の家屋と地所の所有や高利貸しでの87%という高利も許可し、王の遠戚ルイ・デタンプをユダヤ人護衛官に就任させるなど厚待遇の条件でユダヤ人を呼び戻した[80][注 19]。以降20年間、フランスのユダヤ人は平穏な生活を取り戻すが、かつての親しみのある金貸し業者から、忌み嫌われる金融ブローカーと見なされるようになっていった[80]

1370年にはブリュッセルの聖体冒涜事件でユダヤ人20人が火刑に処された[57]

ザクセンのルードルフ(Ludolf von Sachsen, 1295-1378)の『Vita Christi(キリスト伝)』はイグナチオ・デ・ロヨラに影響を与えた[94][95]

カルトジオ会修道士ザクセンのルードルフの『キリスト伝』(1374年)では、ユダヤ人共同体から追放された者に唾を吐きかけるのがユダヤの習慣であるが、イエスも唾を吐きかけられ、また髭や髪を引っ張られ「悪魔の子」であるユダヤの民は磔刑を求めたと解説し、ユダヤ人は神の報いとして世界各地に散らばり隷属状態に置かれていると説教した[95]

1378年にキリスト教に改宗したユダヤ人によって、非改宗ユダヤ人が糾弾されるようになると、1380年代にフランスで再び大規模なユダヤ襲撃が起こり[80]、1380年、1382年、パリとイル=ド=フランスで暴動が多発、ユダヤ人は証書や質草を略奪された[58]シャルル6世はユダヤ人保護に成功するが、ユダヤ人への課税が重くなる一方で、ユダヤ人の特権も拡大していった[80]

ドイツでもユダヤ人保護政策が続いていたが、1384年にはアウクスブルクとニュルンベルクでユダヤ人が収監され、莫大な身代金で釈放された[80]1385年にはドイツ38の都市代表がウルム会議で、ユダヤ人の債権を全面的に破棄して、キリスト教徒の債務者を解放した[80]1388年にはシュトラスブルクでユダヤ人が追放された[80]

フランス王国のユダヤ追放令[編集]

1389年2月のフランス王国勅令で、キリスト教徒とユダヤ人との間の紛争は「ユダヤ護衛官」が担当し、またユダヤ人には債務者を収監する権利が認められた[80]。しかし、王国では反ユダヤ勢力が強くなっていったため、シャルル6世はユダヤ教の「贖罪の日(ヨム・キプール)」と同日の1394年9月17日にフランス王国で最終的なユダヤ追放令を発令した[53][80]。このユダヤ追放令は1615年にも更新された[96]

ただし、フランス王国以外の教皇領やプロヴァンス伯領ではユダヤ共同体が存続した[53]。しかし、プロヴァンス伯領でも1420年代からポグロムが発生した[53]ルネ・ダンジュ−プロヴァンス伯はユダヤ財力を利用するためにユダヤ人を保護したが、1473年以降教会と民衆のユダヤへの反感ははげしくなった[53]。ダンジュ−死後1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国へ合併されたため、ユダヤ人は離散した[53]

1394年のフランスでのユダヤ追放令以降は、ユダヤ人は領土が細分化していた神聖ローマ帝国に移っていったが、そこでもまた追放が続いた[80]

宗教劇、彫刻、絵画、文学におけるユダヤ人[編集]

聖アポロニアの殉難ジャン・フーケ装飾写本 Livre d'heures d'Étienne Chevalier(1452 -1460)

中世宗教劇の神秘劇、聖史劇、奇跡劇などでは、ユダヤ人は悪人として描かれ、『聖餅の聖史劇』ではユダヤ人高利貸しがキリスト教徒の女をたぶらかし、聖餅を盗み出させた後、聖餅を石で踏みつけたりしても聖餅は血を流すのみで、この奇跡によって、ユダヤ人は改宗するが、有罪判決となって、焚刑に処されるという筋書きであった[97]ドイツ聖史劇の『アルスフェルトの受難劇』では、悪魔がイエスの謀殺を14人のユダヤ人にゆだねて、ユダヤ人集団は拍手喝采しながら、イエスを罵倒しながらイエス磔刑を行うが、釘打ちや縄縛りなどが原文で700行以上費やされ、また舞台上では赤い液体が用いられて迫真な演技が行われた[98]。フランスのジュアン・ミシュレの受難劇では、ユダヤ人がイエスを拷問し、イエスの髪や髭が肉ごと引き抜かれ、イエスの体に担当ごとに投打が加えられた[99]。イギリスの聖史劇、聖体祝日に行われたコーパス・クリスティ祝祭劇では「ノアの方舟」を船大工ギルド「最後の晩餐」をパン職人ギルド、など各ギルド(ミステリー)が分担した[68]。キリスト受難は釘師ギルドによって担当され、残酷なシーンで演者の釘師が失神したり、観客には発狂するものもいた[68]こうした聖史劇ではユダヤ人は黒布をまとった血に飢えたサディストとしてグロテスクに描かれた[68]

奇跡劇では、ユダヤ人が自分の財宝を守るためにキリスト教聖人聖ニコラに助けを求めて改宗する筋が描かれた[57]。ゴーティエ・ド・コワンシ−(1177-1236)の奇跡劇では「獣よりも獣に近いユダヤ人」について「神もまた彼らを憎みたもう。よって誰しもが彼らを憎まなければならない」と書いた[57]

ストラスブール大聖堂にあったシナゴーガ像とエククレーシア像。ノートルダム美術館蔵。

ストラスブール大聖堂などの教会ではシナゴーガ像とエククレーシア像が対比され、ユダヤ教会を表すシナゴーガ像は折れた槍を持ち、目隠しをされ、キリスト教会を表すエククレーシア像は十字架と聖杯を持つ[100][注 20]

14世紀末にはイタリア絵画で、ユダヤ人が蠍になぞらえられた[100]。ドイツやオランダでは雌豚に育てられたユダヤ人という図案が教会石碑に刻まれ、レーゲンスブルク教会やヴィッテンベルク教会では豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻が飾られた[100][101]。ヴィッテンベルク教会の豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻については、ルターがユダヤを攻撃した時に描写した[100]。また、14世紀以降には、頭に角を生やしたユダヤ人が、オーシュ大聖堂のステンドグラス、ヴェロネーゼのキリスト受難などで登場した[100]

1378年、フィレンツェの作家ジョヴァンニ・フィオレンティーノは『粗忽者(イル・ペコローネ』は「人肉一ポンド」を抵当にするユダヤ人高利貸しを登場させ、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』の底本とした[102]

1386年ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』尼寺長の話で「リンカーンのヒュー」という少年がユダヤ人によって殺され肥溜めへ放り込まれたとある[68][103]。これは1255年の儀式殺人についての『ヒュー殿、あるいはユダヤ人の娘』という14世紀に流布したバラッドからの影響とされる[102]。チョーサーはまた、小アジアのユダヤ人ゲットーを「忌むべき金貸し業や道ならぬ金儲けのための区画」と描写した[68]

  • 1399年、プラハでユダヤ人迫害[102]

ゲットーの形成[編集]

15世紀初頭の1412年頃、バレンシアのドミニコ会士ビセンテ・フェレールが鞭打苦行者の先頭にたって、トレド、サラゴサ、バレンシア、トルトサなどスペインやフランス各地で反ユダヤ説教を繰り返し、シナゴーグに入ってトーラーを捨て、十字架を受け入れよとユダヤ人に改宗を迫った[104]。しかし、フェレールは「刃でなく、言葉でユダヤ人を殺すべきである」として暴力は批判し、またユダヤ人であるという理由だけで毛嫌いする理由はないとして、キリストもユダヤ人であったとして「ユダヤ人を卑しめる者は、ユダヤ人として死ぬ者と同様の罰を受ける」とした[104]。しかし、フェレールは改宗できないユダヤ人は隔離状態に置くべきであるとして、1412年にはスペインで初めてのゲットーが築かれた[104]

スペインをはじめとして、中世末期には従来のユダヤ人居住地が、ゲットーへと変化していった[105]1432年にドイツのフランクフルトにおいて、教会や市民の要望で繁華街に住んでいたユダヤ人を都市城壁の外に隔離する計画が始まり、1462年、皇帝フリードリヒ3世命で市が建設したフランクフルト・ゲットーが完成し、ユダヤ人が強制移住させられた[60]。ゲットーには門が設けられ、ユダヤ人は昼間の間だけキリスト教徒の街区に出入りすることが許され、夕刻になるとゲットーの門は夜警によって施錠された[60][105]。また、日曜日やキリスト教祭日もゲットーからキリスト教徒の街区への外出は禁止され、外出が可能な日でもユダヤ人であると識別するユダヤ服を着衣しなければならず、また二人以上徒党を組んで歩くことは禁止された[60]

各地のゲットーのユダヤ人住民は厳密に規定された質素で敬虔な生活を送った[105]。ゲットーの生活は、キリスト教修道院の生活に似ており、周囲から隔絶され、神への奉仕をもっぱらとし、敬虔と自己犠牲、知的作業に染め抜かれた[105]

修道士と各地でのユダヤ人追放[編集]

1420年、オーストリア、マインツではマインツ大司教によって、ユダヤ人追放令が出された[80]。同年、アルザスのリクヴィルでは、領主の許可なしに住民たちが、自発的にユダヤ人を拉致して、殺害したり、追放した[80]1424年にはフライブルクとチューリヒ、ケルンから高利貸しの取り立てを理由に、ユダヤ人が追放された[80]。フライブルクでは1401年からユダヤ人はキリスト教徒の血に飢えているため追放請願運動が行われてきた[80]。以降、1432年のザクセン、1439年のアウクスブルク、1453年のヴュルツブルク、1454年のブレスラウとドイツ各地でユダヤ人が追放されていった[80]1434年のバーゼル公会議では、大学での研究にユダヤ人が従事することを禁止し、またユダヤ人を改宗させるために強制説教(predica coattiva)の必要が定められた[102]

シエナのベルナルディーノ(Bernardino of Siena, 1380-1444)
フランシスコ会修道士カピストラーノの聖ジョヴァンニ
ドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラフラ・バルトロメオ

シエナのベルナルディーノは1427年のオルヴィエートでの説教などで、ユダヤ人が金貸しと医学によってキリスト教への陰謀を企んでいると断じた[72]。これは、アヴィニョンのユダヤ人医者が生涯を通じて毒薬を薬として渡して数千人のキリスト教徒を殺害してきたのは喜びであったという自白に基づいたものであった[72]

イタリアとドイツで伝道活動したフランシスコ会修道士カピストラーノのジョヴァンニ[106]は、ユダヤ人を保護している領主に神の怒りが降り注がれると脅して、1453年から1454年にかけてシュレージエンの儀式殺人裁判を演出し、ポーランドのユダヤ人の特権を停止することに成功した[72]

ドミニコ会修道士でフィレンツェ共和国の政治顧問サヴォナローラ[注 21]は、ユダヤ人を追放して、公営の質屋を開設した[72]。しかし、教皇を批判したため1497年に破門され、1498年に処刑された。

1470年、ドイツのバイエルンのエンディンゲンで儀式殺人事件がおこった[57]。翌1471年、マインツ大司教が再びユダヤ人追放令が出された[80]。マインツでは追放令が出されたあと、撤回されたり、再度追放令が出されるなどした[80]1476年にはレーゲンスブルクでも儀式殺人を理由にユダヤ人が追放されたが、神聖ローマ皇帝から信頼されていたレーゲンスブルクのユダヤ人共同体の密使が宮廷に嘆願して一度取り消しに成功したが、1519年にはレーゲンスブルクからユダヤ人が追放された[80]1477年にはアルザス諸都市でスイス同盟兵士がユダヤ人を襲撃するので、あらかじめユダヤ人を追放するよう請願した[80]

  • 1476年のマドリガル、1480年のトレドの議会で、ユダヤ人の居住制限、公職追放、ユダヤ人標識の表示、キリスト教召使の雇用禁止、農地購入などが制限されたが、これは伝統的政策の踏襲であって、あくまでも国王隷属民としてのユダヤ人を保護するためのものだった[107]
1475年にイタリアのトレントで起きた少年シモンの儀式殺害事件。ハルトマン・シェーデル『世界年代記』(1493年)挿絵。

フェルトレの福者ベルナルディーノ[108]は「ユダヤ人高利貸しは貧者の喉を掻き切り、貧者の蓄えによって肥え太る」 と説教したり、1475年チロルトレント(イタリアのトレント自治県)ではユダヤ禍が来れば分かるだろうと説教した[72]。その数日後にシモン少年儀式殺人事件が起きた[72]。この事件では、9人のユダヤ人が拷問を受け、少年の殺害を自白したユダヤ人たちは処刑された[57][109]。このユダヤ人の自白によって、ユダヤ人への中傷は広がり、オーストリア、イタリアでも儀式殺人と血の中傷事件が起こり、トレントには殉教者少年シモン(Simon of Trent)を記念する礼拝堂が建設され、1582年には教皇シクストゥス5世 によって列福された[57][注 22]。フェルトレの福者ベルナルディーノは、儀式殺人事件について広める一方で、高利貸しへの反対運動も行い、15世紀末にはフランシスコ会がイタリアの主要都市で公営質屋モンテ・ディ・ピエタ(哀れみの山)を開設し、フランス、ドイツにも開設された[72]

  • 1494年、スロバキア西部のティルナウ(トルナバ)で発生した儀式殺人事件では、ユダヤ人はキリスト教徒の血を儀式や薬として使っていると告発された[110]

スペイン・イベリアからの追放[編集]

エンリケ2世

スペインでは、718年からのレコンキスタ(イスラム勢力からの再征服)の過程で、十字軍のようにキリスト教国家の意識が高まっており、イスラム教への敵視から、ユダヤ教への敵視も強まっていった。

1366年以降、トラスタマラ朝カスティーリャ王国エンリケ2世が武装蜂起すると、エンリケ2世は、ユダヤ人を登用した前王ペドロ1世に対して、前王はユダヤ人と王妃との不義の子である、キリスト教徒の犠牲の上にユダヤ人を保護する残忍王であるとの反ユダヤのプロパガンダを行った[111][注 23]1370年以降、スペインのエシハ聖堂助祭フェラント・マルティネスが激しい反ユダヤ演説を繰り返した[112]

1391年6月9日カスティーリャ王国セビーリャで反ユダヤ運動が起こった[112]ペストの原因はユダヤ人とする反ユダヤ運動はカスティーリャ王国のブルゴスコルドバトレドバレンシア王国カタルーニャ君主国バルセロナアラゴン王国バレアレス諸島に飛び火し、各地で虐殺(ポグロム)を引き起こして、ユダヤ人共同体は潰滅的な打撃をうけて、キリスト教への改宗を強制され、また国外へ追放された[112]。改宗者はコンベルソと呼ばれた。

スペインアビラ異端判決宣告式

1480年以降、スペイン異端審問裁判所がスペイン各地で作られ、2000人のユダヤ人の改宗者コンベルソ[注 24]が処刑され、1万5000人が悔罪した[107]。1491年、スペインのラ・グアルディアでユダヤ人が儀式殺人で処刑された。

1492年、スペインでユダヤ人追放令[107][113]。これによって8万から15万のユダヤ人がスペインを退去し[107]、他のヨーロッパ国家やオスマン帝国に逃れた[92][113]オスマン帝国1453年コンスタンティノポリスを占領し、東ローマ帝国を滅ぼした。多くのユダヤ人は新都市イスタンブールに移住した。ここでは、ムスリムが絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。1497年には、ポルトガルでもユダヤ追放令が出された[113]

1499年、トレドで、ユダヤ人の改宗者コンベルソの商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした[112]

近世[編集]

ドイツ[編集]

人文主義[編集]

燃やされるユダヤ人(Luzerner Schilling,1515年、ドイツ)

1490年から1510年にかけてアルザスで成立した[注 25]匿名(高地ラインの革命家)の『百章からなる本』ではアダムはドイツ人であったとし、自由人であり貴族であるドイツ人は世界を支配し、ドイツ人以外の民を奴隷化し、ローマ・カトリックの聖職者を虐殺することを提唱した[114][115]。背景には、ブルターニュ公国を巡るハプスブルク家マクシミリアンフランス王シャルル8世の対立があり[注 26]、ヴィムフェリングやセバスティアン・ブラントなどのユマニストもフランスを攻撃した[116]

15世紀末、ドイツは経済的に繁栄し、バイエルン公国アウクスブルクでは鉱山・金融業の富豪フッガー家、金融業の富豪ヴェルザー家、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などが巨万の富を築いた[117]。そうした経済の大物に対して庶民は「クリスト=ユーデ(ユダヤ人のようなキリスト教徒)」と呼んだ[117]。セバスティアン・ブラントは『阿呆船』(1494年)で「ユダヤの高利貸しはまだよいが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト=ユーデども」と皮肉った[117][118]

デジデリウス・エラスムス

1508年の『ユダヤ人の鑑』で改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルンがユダヤ人の偏屈さの原因はタルムードにあると告発した[117]。プフェファーコルンによる提案で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は1509年の勅令でタルムード廃棄を命じた[117]。ユダヤ人から請願されたマインツ大司教ゲンミンゲンの提案で、プフェファーコルンらによる書籍没収を調査するタルムード調査委員会が設立され、委員にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンなどが就任した[117][119]。ロイヒリンがタルムードやカバラーを擁護すると、1511年に両者は論争を開始し、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持するなど論争は国際的なものとなった[117]

ただし、ロイヒリン側も反ユダヤ的な思想を持っていた。ロイヒリンは論争の直前に書いた1505年の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜し、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼び、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教していたし[117][120]、論争においてもプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」と述べている[117]。また、ロイヒリン支持者でカトリック教会を批判した人文主義者のフッテンもプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで「彼の両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をキリストの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない」と批判し、同じくエラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人のキリストを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、みずからキリスト教徒になったと偽善的に言い張ることによって、キリストの神性を裏切ってみせることなのだ」と批判した[117]

アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌス[121]は「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない」と述べた[117]。ドイツの人文学者コンラート・ツェルテス[122]はユダヤ人は「人類の社会を侵し、混乱に招き入れる」と述べた[117]

ドイツの修道院長ヤーコプ・トリテミウス高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で「異国の民が、われわれの土地で権勢を振るうなどということが許されてよいものだろうか」と述べ、またガイラー・フォン・カイザーベルク[123]は「ユダヤ人は、みずから手を汚しての労働を欲しない」「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない」と批判した[117]

一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリング[124]は「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部のキリスト教徒が手を染めている高利貸しなのである」と、キリスト教徒の高利貸しのことも非難した[117][125]

ユダヤ人の唱道者ロースハイムのヨーゼル[126]1520年以降、神聖ローマ皇帝・スペイン国王のカール5世(在位:1519年 - 1556年)に寵遇され「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号を与えられ、ドイツユダヤ人全共同体の代表となった[3]。ヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾をほどこさないこと、キリスト教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人商人が商業モラルを遵守するよう要求した[3]

ヨーゼルの論敵は、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータだった。ラビの息子だったマルガリータはレーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、1522年にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範としたユダヤ教批判を行った[3]。アウクスブルク国会でヨーゼルが「ユダヤ教の背教者によるユダヤ教の主張は根拠を持たない」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された[3]。またこの影響でハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となっている[3]。マルガリータの著書はルターが最大の典拠の一つとするなどその後も影響力を持った[3]

ルター[編集]

マルティン・ルター(1483年 - 1546年)

1517年宗教改革をはじめたマルティン・ルターは、反ユダヤ主義的な意識を持っていたことでも知られる[127][128]。初期のルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなしていた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、1523年に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた[127][129]。他方で、教皇がドイツ人を利用して第二のローマ帝国を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国がドイツのキリスト教徒の王によって統治されることを望んでいると述べたり[130]、1521年に「私はドイツ人のために生まれた」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した[131][132]。さらに騎士戦争や、ルター派のミュンツァーによる農民戦争が起きると、ルターは反乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった[127]。そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていく[127]。ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、1532年には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」と述べている[127]。同年「ドイツほど軽蔑されている民族はない」としてイタリア、フランス、イギリスはドイツをあざけっていると述べている[131]1538年、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた[127]。その後まもなく、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、割礼を受けて、シャバトを祝ったという知らせが入ると、ルターは1539年12月31日には「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と述べた[127]

ルター『ユダヤ人と彼らの嘘について

1543年にルターはユダヤ人を批判する『ユダヤ人と彼らの嘘について』を発表し、7つの提案を行った[128][129]

  1. シナゴーグや学校(イェシーバー)の永久破壊
  2. ユダヤ人家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住
  3. ユダヤ教の書物の没収
  4. ラビの伝道の禁止
  5. ユダヤ人護送の保護の取消
  6. 高利貸し業の禁止。金銀の没収。
  7. 若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。

ルターは「ユダヤ人はわれわれの金銭と財を手中にしている。われらの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らはわれわれの主になったのだ」として、ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきであると主張した[127]。ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人にいて欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルクでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供をさらったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか、と論じた[127]。ルターは、大悪魔を別にすればキリスト(キリスト教徒)が「恐れなければならない敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である」とし、ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は「最後の審判の日、その行いに対し、キリストは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう」述べた[127]。数ヶ月後の冊子『シェム・ハメフォラス』[133]でユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は四福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりもまったくない」と閉じた[127]。ルターは死の四日前の2月18日の最後の説教では、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えた[127]。また晩年のルターは無敵の常備軍を持った統一ドイツ帝国を夢見ていた[131]

ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者メランヒトン、スイスのツヴィングリの後継者のブリンガー、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼルらが批判した[127]。「キリストは淫乱であったかもしれない」と述べたり、教皇に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせた[127]。ルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖パウロ)やムハンマドと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった[127]。ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再販が出てよく読まれた[127]

フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒの暴動[編集]

1614年8月22日のフランクフルト・フェットミルヒの略奪(Fettmilch-Aufstand)。ユダヤ人が居住するフランクフルト・ゲットーが襲撃された。
フランクフルトを退去するユダヤ人

1614年8月22日フランクフルトの豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人のゲットーを襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った[3]。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を奪われ、また、他の土地へ移っていった[3]。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが同様の襲撃事件が起きた[3]。地方政府も帝国政府も和解につとめたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれた[3]。ドイツの大学法学部は「今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならない」と判断した[3]。その後、神聖ローマ皇帝マティーアスによってユダヤ人は神聖ローマ帝国軍の厳重な護衛のもと、フランクフルトに戻った[3]。このフランクフルト騒動後、国家権力によってユダヤ人は保護され、ドイツにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた[3]。その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場したが、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れた[3]

17世紀、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、キリスト教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、キリスト教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場ではキリスト教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた[3]。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく「被保護者」または「臣民」と規定され、これはナチスドイツ時代も採用した区分であった[3]

マラーノ[編集]

16世紀、スペインやポルトガル出身の改宗ユダヤ人(マラーノ)が、オランダ、イタリアの金融市場、大西洋貿易、東方貿易の開拓者となっていった[3]。スペイン支配下のアムステルダムは大西洋貿易の中心地となった[69]

マラーノが権勢を誇る一方で、ドイツのユダヤ人は生活の基盤を失われ苦しんでいたため、マラーノを「純粋ユダヤ人ではない」とする状況になった[3]1531年、アルザスのユダヤ人ロースハイムのヨーゼルは、富裕なマラーノの入植地が根を張っていたアントワープに対して、ここにはユダヤ人がいないと書いた[3]

フランス王国[編集]

1614年フランシスコ会修道士ジャン・ブーシェはユダヤ人を「かつて祝福の対象とされながら、今では呪いの対象とされている種」「世界の四方を惨めにさまよい歩いている種」として、トルコ人はユダヤへの憎悪の結果、ゴルゴダの教会広場でユダヤ人を見かけたキリスト教徒はユダヤ人を殺しても罪に問われなかったし、またユダヤ人が1291年にイングランドで、フランスで1182年にフィリップ2世尊厳王、1306年にフィリップ4世美麗王、1322年にフィリップ5世長躯王によって、スペインで1492年フェルディナンド2世によって追放されたのは、ユダヤ人がキリスト教徒に対して不敬の態度を示し讒言を差し向けたからであると述べた[135][136]

1615年5月12日、14歳のフランス王ルイ13世とその母で摂政のマリー・ド・メディシスが数年来、ユダヤ人が身分を偽って王国に入り込んだとして、1394年のユダヤ人追放令(シャルル6世による)を更新した[137]。ただし、ボルドーとバイヨンヌのマラーノには適用されなかった[137]1615年について年代記作家は「不信心と良俗紊乱」の一年であり「魔法使い、ユダヤ人、呪術師が堂々とシャバト(安息日)を祝い、シナゴーグでの儀式を行った」と記録している[137]魔女シナゴーグとも呼ばれ、また安息日を意味するヘブライ語のシェバトからサバトとも呼ばれるようになった。

三十年戦争と絶対王政フランスの覇権[編集]

1618年から1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争が起こった[138][139]。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家は打撃を受けた一方で、ブルボン家のフランスはヨーロッパ最強国家となった[139]。また、神聖ローマ皇帝ローマ教皇を政治的・宗教的首長とする「キリスト教共同体」は崩壊し、ヨーロッパ世界では一つの国家の主権と独立とが原則となった[138]

戦後、フランスが中央集権絶対王政を確立したのに反して、神聖ローマ帝国が名目的な存在となったドイツでは地方分権的な領邦国家体制が確立したことによって国民主義的統一が遅れた[140][注 27]。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分が重視されるなど、国民国家の形成は妨げられており、こうした領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で18世紀以降のドイツにおける国民主義ナショナリズム)を形成していくことになる[141]

1627年、詩人マレルブは最晩年にユダヤ教はヨルダン川の岸辺におしとどめられるのが望ましいが、ユダヤ教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げているとして「私はどこにいても神を頼みとして戦う」と書いた[136][144]

三十年戦争末期の1648年、フランス王国では10歳の国王ルイ14世(在位:1643年 - 1715年)の摂政ジュール・マザランが集権体制を強化させていたが、マザランに反発した高等法院官僚や法服貴族が反乱を起こした(フロンドの乱[145]。フランスは一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出する。1648年10月24日ヴェストファーレン条約が締結され三十年戦争が終結すると、フランス軍コンデ公ルイ2世がフロンド派を制圧し、さらにルイ2世もマザランに対抗したが、1653年にマザランが勝利してフロンドの乱は終結した。これ以降、王権による中央集権体制が確立されていった[145]

フロンドの乱の最中の1652年8月15日、ジャン・ブルジョワ殺人事件が発生した。トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにしたうえ、賠償金も払わせた[146]。青年は代官に告発したが、古着商集団は青年をおびき出し、拷問の果てに殺害した。このような小規模な局地戦は当時いくつか発生していた[146]。この事件後、ユダヤ人によって腐敗が撒き散らしてきたと非難する文書や古着商集団を弁護する文書が現れ、ユダヤ問題が世論で争われた。『ユダヤ人に対する憤怒』という文書では、ユダヤ人に識別するための印をつけるべきだと主張され、『シナゴーグに対する判決文』という文書ではユダヤ人全員を去勢すべきだと主張された[146]。こうした文書の横溢によって古着商は隠れユダヤ教徒(マラーノ)かと疑われたが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック・キリスト教徒であった[146]

ジャック=ベニーニュ・ボシュエ(1627年 - 1704年)、イアサント・リゴー画、ルーヴル美術館

マザラン没後の1661年に23歳のルイ14世太陽王が親政を開始した。宮廷説教師でオラトリオ会修道士のボシュエ[注 28]王権神授説とフランス教会のローマからの独立(ガリカニスム)を提唱し、ローマ教皇よりもフランス国王の権力を強化して絶対君主制確立に貢献する一方で、ユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨のなかにあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、ユダヤ人の最大の罪はイエスの処刑ではなく、処刑後に悔い改めない姿勢であると非難した[147]。ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として「最大のキリスト教徒の王」を自負し、異端のジャンセニスト[注 29]ユグノーを抑圧した[149]。一方、ジャンセニスト哲学者ブレーズ・パスカルは遺稿『パンセ』で「栄誉に抗して純一であり、それがゆえに死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した[150]

1657年、東方への野心を持ったルイ14世は、軍馬調達、駐屯地への補給のためにアルザス=ロレーヌ地域のユダヤ人を利用しようとしてメッスのシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した[151]

1670年にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられ、ユダヤ人が処刑された[注 30]。また、パリで行方不明になった若者についてユダヤ人が連行したという噂が流れた[146]。 これに対して聖書学者リシャール・シモン[152]がメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護し[151]、1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、またユダヤ教徒の信仰心の篤さを賞賛した[150][153]。しかし1684年になると、シモンは手紙でモデナ訳書の序文について好意的なことを書きすぎたと反省して「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみてはじめて理解した。彼らはいまだにわれわれのことを深く憎悪している」と述べた[150]。シモンは1678年、近代聖書文献学のさきがけとされる『旧約聖書の批判的歴史』を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた[150][150][154]

ルイ14世は、1680年代にユグノー弾圧を開始。1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、1685年フォンテーヌブローの勅令信教の自由を約したナントの勅令を廃止した[149]1688年から1697年にかけて領土拡大を図ったフランスは、フランドル戦争仏蘭戦争後、1681年にストラスブールを占領して併合した。これに反発したドイツ、スペイン諸国によるアウクスブルク同盟フランス王国との間で大同盟戦争となった。1689年に名誉革命でウィレム3世がイングランド王になると、イングランドとオランダもアウクスブルク同盟に参加した。講和条約レイスウェイク条約でフランスはストラスブールをのぞく1678年からの占領地の殆どを返還した。

  • 1693年–1694年 - フランスで飢饉。

スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)中の1702年から1709年にかけて、南フランスのユグノーによるカミザールの乱が発生した。

  • 1709年、大厳冬の飢饉[149]

カトリック[編集]

イエズス会士オラトリオ会修道院説教師ルイ・ ブルダルー

1671年、アドリアン・ガンバールはカテキズムで、聖体を拝領することは全ての罪のなかで最も重い罪であり、それによって「ユダやユダヤ人たちと同じように、イエス・キリストの肉と血に対する罪を犯すことになる」とした[136][156]

イエズス会士オラトリオ会修道院説教師ブルダルー[157]は、ステファノを石で撲殺したユダヤ人は「神秘の石」であるステファノを殴打して、神の慈悲と神の愛の火花を散らしたといい「罪のうちに死ぬこと」をユダヤ人は天からくだされていると説教した[147]

ニーム司教エスプリ・フレシエ

ニーム司教フレシエ[158]は、不信心者のユダヤ人は神の正しき裁きによって、この世が終わり、神がイスラエルの残骸を集める時まで、あらゆる民から眉をひそめられる存在であり続けると説教した[147]

クロード・フルーリー神父(1640-1723)はカテキズム『歴史公教要理』で、イエスの敵は肉的なユダヤ人、ユダヤ人はイエスを死に至らしめたために隷属状態となり、離散させられた、と解説した[136][159]

宮廷説教者ジャン・バティスト・マシヨン(Jean Baptiste Massillon, 1663-1742)

クレルモン司教でベルサイユ宮廷説教者マシヨンは「血の罪の刻印」を受けて「見境を失った民」のユダヤ人は「盲目的な敵愾心」で怒り狂い「イエスの血がみずからとみずからの末裔の頭上に降り注ぐことを望んでいる」、ユダヤ人は「世界の恥辱とみなされたまま、さまよい、逃げまどい、軽侮され続けている」と説教した[147]

しかし、16世紀においては、反ユダヤ的な暴動はみられない[147]。それは、宗教改革とそれに続く宗教戦争において、プロテスタント側がユダヤ人に近い立場に立たされ、憎悪が向けられたからであった[147]。カトリック派は、改革派の秘密集会を蔑み、悪意に満ちた話に尾ひれをつけて触れ回った[160]

宮廷ユダヤ人とユダヤ人強盗団[編集]

1670年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(在位1658年 - 1705年)はウィーンからユダヤ人を追放したが、1673年、同じ神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、ハイデルベルクのユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーを帝国軍の補給係に任命して、1683年のトルコ軍のウィーン包囲やフランスとの戦争などを通じて食料、武器、輸送用の牛馬を提供して、首尾上々に任務を遂行した[3]。当時は、外交取引に宮廷ユダヤ人が活躍し、ハノーファーのレフマン・ベーレンツはルイ14世とハノーファー公の間を取り持った[3][注 31]。ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人ベーレント・レーマン[161]は、ザクセン選帝侯アウグストをポーランド王位につかせたが、息子はザクセンから追放された[3]ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーはヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーの宮廷ユダヤ人として財政と行政を立て直し、権勢を誇ったが、最後は絞首刑に処された[3]。宮廷ユダヤ人は豪勢な家屋敷を構え、ミュンヘンの銀行家ヴォルフ・ヴェルトハンマーが開いた狩猟競技会ではイングランド大使や貴族が参加した[3][注 32]。宮廷ユダヤ人の大部分はユダヤ教を遵守していたが、シュタドラン(世話役)として、滞在禁止命令を追放令を解除させたり、ユダヤ人共同体を統轄して、ユダヤ人の敵対分子を牢獄につながせた[3]

この頃、オーストリア説教者アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ1683年トルコ軍によるウィーン包囲に際して、トルコ人は「貪欲な虎、呪われた世界破壊者」、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたと説教し[163][164]、また「イエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない」と説教した[165][166]

ブランデンブルク王家は17世紀半ばには武器・貨幣鋳造商人イスラエル・アロンに貴族位を授けたり、オーストリアから追放された富裕ユダヤ人を保護した[167]プロイセン王国では身柄保証金を条件にユダヤ人の自由な経済活動が認められた[167]。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713 - 1740)はユダヤ人代表団の謁見に際して「主を十字架にかけた悪党」とは面会しないと断ったが、侍従がユダヤ人からの高価な贈り物があると聞くと、王は「主が十字架にかけられた時は、彼らはその場にいなかった」のだから、謁見を許可した[3]

一方で、ユダヤ人強盗団もおり、1499年の『放浪者たちの書』の盗賊仲間隠語集にはヘブライ語起源が多くを占めており、17世紀以降には、組織的ユダヤ人強盗団の記録がある[3]。18世紀ドイツには強盗団首領ドーミアン・ヘッセルが死刑になった[3]。しかし、宮廷ユダヤ人もユダヤ人強盗団も例外の部類であり、大多数のユダヤ人は、中世的な風習にこだわり、しきたりを忠実に守りながら暮らした[3]

イングランド[編集]

イングランドでは1290年にユダヤ人は追放されたため、イギリスに来るユダヤ人商人は王立の改宗者収容施設「ドムス・コンウェルソーム(Domus Conversorum)」(1234年創建)に滞在した[168]。14世紀、15世紀には未改宗のユダヤ人も改宗ユダヤ人を偽って宿泊した[168]

1492年のスペインからの追放で、ユダヤ人が「スペイン人」としてイギリスにも来た[69]。しかし、ヘンリー7世が、息子とアラゴン王女カザリンとの結婚に際して、ユダヤ人の立入りを禁じた[168]。しかし、この禁止令は部分的にしか守られなかった[168]

ヘンリー8世(在位:1509年 - 1547年)治世下の1540年、ロンドンに37家族のマラーノによる植民地が形成されたが、1542年に解散させられた[168]。なお、ヘンリー8世は亡兄ウェールズ公に嫁いだアラゴン王女カザリンと結婚していたが、カザリンとの離婚の根拠を探すために、イタリアのラビに問い合わせている[注 33]

エリザベス1世時代(1558年 - 1603年)には、ユダヤ人集会も公然と行われるようになり、ユダヤ人貿易商人エクトル・ヌネスはヨーロッパ大陸の機密情報をイギリス政府に伝えた[69]。一方で、反ユダヤ主義も高まり、劇作家クリストファー・マーロウの『マルタ島のユダヤ人』(1590)では財産を没収されたユダヤ人が復讐する[69]。ただしこれには無神論者だったマーロウがユダヤ人の悪魔が吐く台詞によってキリスト教体制の偽善を批判したという見方もある[69]1594年にはユダヤ人医師ロデリーゴ・ロペスがエリザベス女王毒殺の廉で裁判にかけられ処刑される事件が起きた[69]。同じ頃、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」(1596)では、高利貸しユダヤ人シャイロックが返金しないアントーニオに対して肉片を要求するが、裁判で逆に財産を没収されキリスト教に改宗されてしまう。

ジェイムズ1世時代(1603- 1625年)には、ユダヤ人同志の内紛で「ユダヤ教徒」という嫌疑をかけられたポルトガル系ユダヤ商人が国外追放された[69]

1649年清教徒革命では、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした[168]。清教徒革命は王室と癒着した教会への攻撃でもあり、クロムウェルはユダヤ教徒と非国教派を保護した[169]。また、至福千年説が流行し、ユダヤ人を解放してキリスト教に改宗させることがメシア降臨の条件とみなされるようになった[169]清教徒の至福千年派は、ユダヤ人の改宗のためにユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだと主張した[168]。こうしたことから、クロムウェルの出自はユダヤ人ではないかと囁かれ、またクロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしているという噂が流れた[168]

一方、非国教会の分離派は、イギリスの内乱は過去のユダヤ人迫害への天罰であるとみなした[169]。分離派に励まされたアムステルダムのラビマナセ・ベン・イスラエルはユダヤ人のイギリス入国を請願した[169]。マナセは『イスラエルの希望』(1650年)において、終末の到来を確かならしめるためには、ユダヤ人の拡散を完全のものとして、世界の末端であるイングランド(アングル・ド・ラ・テール 地の角)をユダヤ人の植民地と化するべきだと主張した[168][170]。背景には1648年のポーランドでのコサック反乱によるユダヤ人難民の存在があった[169]。マナセは著書をイギリス議会に献呈し、ユダヤ人を迎え入れれば貿易が盛んになり繁栄すると力説した[169]。クロムウェルは、キリスト教を否定する者に寛容を貫くのは本末転倒であるが、イギリス商業の保護と発展のためにユダヤ人国際ネットワークを利用することのメリットに理解を示し[169]、またスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していた[168]。メナセは「卑見(Humble Address)」でシナゴーグの建設許可や、反ユダヤ法の改正を請求し、ユダヤ人の商才と高潔な血統を強調、キリスト教徒幼児の殺害は中傷だと否定した[169]。11月、クロムウェルはこの請願を議会にかけたが、王党派は「王を殺した者が、救世主を殺した者と手を握った」と非難した[169]。貴族マンモス伯はシナゴーグ建設案に不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た[168]。パンフレット作家で王党派の政治家ウィリアム・プリンは、1634年に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らはみずからの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼」と述べ、仮面劇を支援した王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスへの誹謗中傷と名誉毀損の罪によって、両耳を切断され、左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の烙印が押されたが、民衆の絶大な人気を博していた[168]1655年にプリンは、マナセとイングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に反対して『ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て』を書き、一週間で完売した[168]。このほか、クレメント・ウォーカー『イングランドの無政府状態』やアレクサンダー・ロス『ユダヤ人の宗教』などでもユダヤ人召喚への反対が主張された[168]

1655年12月18日の一般公開議場ではユダヤ人受け入れに反対する者が多数詰めかけ、クロムウェルは諮問委員会の解散を宣言し、さらに、演説では、ユダヤ人の改宗は聖書に予告されており、そのためにはユダヤ人が聖地に住むことが唯一の手段であると述べ、閉会した[168][169]

マナセは1656年に『ユダヤ人からの要求(Vindiciae Judaeorum)』を書き、これに影響されたユニテリアン派のトマス・コリアーは、ユダヤ人によるイエス殺害は神の意志を実現するためであり、それによってキリスト教を誕生させるためであったと論じた[168][171]

英西戦争の悪化によって1655年秋に在英スペイン人の財産は没収された[169]。在英ユダヤ人のほとんどはスペイン出身であり、法的にはスペイン人であったため、ユダヤ人の財産も没収された。裕福な商人ロブレスは自分はポルトガル人であるとして財産返却を請願し、異端審問の過酷さを主張してイギリスの反スペイン・反カトリック感情に訴え、財産没収の取り消しに成功、これによりイギリスでのマラーノの身分が保証される結果となった[169]

以後、イングランドでは公的な入国許可はなかったが、非公式の寛容政策によってロンドンのマラーノ入植地では、シナゴーグも建設され、イギリス国内の事実上の小国家となっていった[168]。1657年イギリス最初のシナゴーグがクリーチャーチレインに建立された[172]

1659年の王政復古で復位したチャールズ2世は親ユダヤ的で、ユダヤ人の権益を保護した[169]。王室の庇護を受けたためにユダヤ人は安定した地位を保ち、セファルディー系ユダヤ人が18世紀初頭にベヴィスマークにシナゴーグを建設、アシュケナージ系ユダヤ人も再入国が認められ、1690年には自派のシナゴーグを建設した[172]

なお、1661に成立した騎兵議会では、王党派によって、清教徒の一掃を企図するクラレンドン法典、市町村の役員に国教徒であることを義務づけた地方自治体令(Corporation Act)、非国教徒4人以上の会合を禁止したコンヴェンティクル条例(Conventicle Act)などが可決した[169]

日記で知られる海軍秘書サミュエル・ピープスは1663年にシナゴーグを訪問し、そこで見たシムハット・トーラの礼拝での騒ぎに対して嫌悪感を書いている[172]

1718年にはイギリス産まれのユダヤ人であれば土地所有が可能となった[172]

1753年ヘンリー・ペラム政権は、ユダヤ人帰化の条件を緩和する法案を提出したが、世論の反発を受けて撤廃した[173]。ユダヤ人帰化法が失敗すると、ディズレーリ家、リカルドー家、バーセーヴィ家などの上流ユダヤ人はイギリス国教に改宗した[172]

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理神論・合理主義とスピノザ[編集]

バールーフ・デ・スピノザ(1632 - 1677年)は匿名でユダヤの神を憎しみの神であると論じ、この見方は啓蒙思想に広がっていった[174]
理神論哲学者ジョン・トーランド(1670 – 1722) は当時イギリスで唯一ユダヤ人を擁護した[175][176]

宗教改革と宗教戦争を経て、16世紀ソッツィーニ派聖書権威を批判し、三位一体説予定説、キリストの神性を否定し、教会国家の分離(政教分離)を主張し、神だけの神性を主張し,イエスの神性を否定するユニテリアンに影響を与えた[177]。やがて、この潮流はチャーベリーのハーバート卿やトーランドなどイギリスの自由思想家によって理神論(自然宗教)という理性に基づく合理主義的な有神論となった。ハーバート卿の『真理について』(1624年)は哲学者デカルトに影響を与えた[178][179]

オランダのユダヤ・セファルディム系哲学者スピノザにとってユダヤ教は確かな論拠と証明に基いていないのでそれがユダヤ共同体から離れる原因となり、さらにユダヤ人の男に短剣で襲撃されたことでスピノザはユダヤ共同体と絶縁し、さらに破門され追放された[180]。その後、スピノザは匿名で1670年に『神学・政治論』を書き、ヘブライ人の宗教は他の民族とは絶対に相反的なものであり、ユダヤ教において他の民族への憎しみは敬神と敬虔から生じた神聖なものと信じられていると、ユダヤ教について激しく攻撃的に論じ[174][181]。スピノザはコレジアント派(ソッツィーニ派、メンノ派)の解釈に倣って、ユダヤ教における隣人をユダヤ民族に限定した[182]。スピノザの聖書批判はキリスト教神学者の間でも反発を呼んだ[183]ピエール・ベールは『歴史批評辞典』 (1696年)でスピノザの聖書批判を紹介しフランスやイギリスでも知られるようになり[175]、スピノザによってユダヤの神は憎しみの神であるという考え方、そしてユダヤ教は迷信にすぎないといった見方が啓蒙思想やイギリス理神論、ドイツの哲学者カントやヘーゲルまで広がっていった[174][182]。ゴルディンやポリアコフは、スピノザは近代の反ユダヤ主義の形成において重要な役割を果たしたと論じている[174][注 34]

自由思想家で理神論合理主義)の哲学者ジョン・トーランドは『キリスト教は秘蹟的ならず』(1696年)で教父たちは真のキリスト教を堕落させてきたとして「理に適った」(合理的な)教説を説き、キリスト教はもとはユダヤ教徒であったと論じた[175]。トーランドは1714年の『ユダヤ人帰化論』でユダヤ人を擁護し、ヨーロッパ大陸からユダヤ人を受け入れるよう主張した[175]。また『ナザレ人』(1718年)でトーランドは「ユダヤ教徒が奉じる真のキリスト教」はローマ帝国の異教徒たちによって圧殺され、また教皇制度はキリスト教を歪める一方で、ユダヤ教の儀式を非難してきたが、こうしたことの根拠は聖書には書かれていないと論じた[175]。トーランドは、これまでのキリスト教世界を批判する一方で、ユダヤ人を擁護した[175]

聖公会の非正統的神学者トマス・ウールストンは1705年の著作『ユダヤ人と復活した異邦人に対するキリスト教の真実のための古い弁明』以来の著作やパンフレットで、ユダヤ人は「騒音と悪臭の根本」であり「世界はユダヤ人の毒に満ちている」と論じた[175]ヴォルテールはウールストンの著作を典拠にした[175]

ニュートンの推薦でルーカス教授職に就いたウィリアム・ホイストン1722年の『旧約聖書再現試論』でユダヤ人は旧約聖書の写本を歪め、故意に改悪したと論じた[175]ドルバック伯爵に影響を与えたアンソニー・コリンズは『キリスト教基礎論』(1724)でユダヤ教は民族宗教にすぎないと主張した[175][184]。マシュー・ティンダルの『天地創造と同じ古さを持つキリスト教、あるいは自然宗教の福音』(1730年)は理神論のバイブルといわれたが、ユダヤ人の悪しき影響力を論じたものでもあった[175][185][186]。トマス・モーガンは『キリスト教徒の理神論者フィレラテスとキリスト教徒ユダヤ人テオファネスとの対話のなかの道徳哲学者』(1737年)で、スピノザに基づきイスラエルの神は戦の神であり、その土地の民族の神にすぎないとして、理神論者がキリスト教徒ユダヤ人に打ち勝つと描いた[175][187]。ウィリアム・ウォーバートンの『モーセの聖使節』(1737年-1741年)では、神が最も粗野で卑しい民族を選んだということが啓示の根拠であると論じた[175][188]ボーリングブルックはユダヤ人とキリスト教教父たちはキリスト教を悪質なものへと変えたと非難した[175]

こうしたイギリス理神論は、ユダヤ人に取り憑かれたように非難していたわけではなかった[176]。しかし、ジョン・トーランドを唯一の例外としてほとんどのイギリス理神論者が伝統的なキリスト教的な反ユダヤ主義を保持し続け、ユダヤ教とキリスト教の窮屈さや旧約聖書排他主義を批判し、文明や人類の起源をエジプトやインドに求めていくようになり、これが後年の「アーリア神話」に行き着くことになった[176]。イギリス理神論は、フランスのヴォルテールルソーなどヨーロッパの思想に大きな影響を与えた[175][189]

人種学[編集]

すでに述べたように自民族を高貴な民族とみなす考え方は8世紀の『サリカ法典』にもみられるが、1434年バーゼル公会議でスウェーデンのラーグヴァルトッソン司教が述べた「スウェーデン王国は最も古く高貴な王国であり、スカンディナビアは人類発祥の土地である」という発言には近代的な人種主義的ナショナリズムの萌芽がみられる[190]

16世紀後半、ドミニコ会の哲学者ブルーノは、インディアン、エチオピア人、ネプチューンの洞窟の住民、ピグミー、巨人は、人間と同じ出自ではなく、神の創造したものではないとした[191]

マラーノのアイザック・ラ・ペイレールは1655年の『前アダム人』で、聖書はユダヤ史のみを取り扱っているにすぎず、アダム以前に数百万の前アダム人がおり、またユダヤ史は「アダムからイエスまでの選びの時代」と「イエスから17世紀までの排除の時代」であったとし、その後にユダヤ人の復活の時代が訪れ、ユダヤ人(アダム人)以外の民も含めた万人が救済されるとした[192]

1689年、哲学者ジョン・ロックは『人間知性論』において、子供が人間の観念を形成する際に周囲の白人の肌色から白色が人間という複雑な観念の内の単純観念の一つとなるので黒色のニグロは人間ではないと判断する、と論じた[193][194]

ライプニッツは『人間知性新論』で「動物の習性とも見なしうるほどの残忍さにみちたアメリカの蛮人の習慣を認めるには、彼らと同じほど愚鈍でなければならない」と述べた[194][195]

博物学者ジョン・レイは、色の違う花が異なる種に属すように、ニグロとヨーロッパ人は異なる種に属すと論じた[196]

スウェーデンの博物学者リンネ1735年の『自然の体系』で人間を4つに分類し、白いヨーロッパ人は発明の才に富み、法によって統治され、赤いアメリカ人は自由で短気で習慣によって統治され、黄色いアジア人は高慢で貪欲で世論によって統治され、黒いアフリカ人は無気力で主人の恣意的な意志によって統治されているとし[197][注 35]

ヒューム1742年、黒人などの白人以外の文明化されていない人種は、白人種のような独創的な製品、芸術、科学を作り出せないとし[199]、非白人による文明民族は存在したことはないとした[200]

科学者モーペルテュイは、黒人から白い子供が突然生まれるのに対して、その逆はないことから、人間の最初の色は白であると論じた[201]

ドイツの哲学者G.F.マイアー[202]は、最初の人間アダムは脇腹にすべての人間をたずさえ、その中のアブラハムの精子にはすべてのユダヤ人が含まれていたとした[198]

解剖学者メッケル1757年にニグロを解剖した結果、彼らの脳も血液も黒いため、白人とは別の人種であるとした[198]。解剖学者カンペル[203]は、ユダヤ人には色の黒いポルトガル系や、白いチュートン系もいて、皮膚の色が違っても始祖は同じアダムであり、ニグロも人間であるとメッケルを批判した[198]。カンペルはヨーロッパ人、カルムイク人(蒙古人)、ニグロ、猿の順に「顔面角」が減少していくとした[198]

博物学者ビュフォンは『博物誌(1749-1788)』において、ロバが退化した馬であり馬に属するようにニグロは人間に属する、あるいは、白人が人間であるとすれば、ニグロは人間でなく猿のような別の動物であるとした[204]

ヴォルテールは、ニグロが猿より優れているように、白人はニグロより優れているとし、ニグロは猿との性交から生まれた怪物の種であるとした[205]

カント1764年の『美と崇高との感情性に関する観察』で「アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない」し、また東洋の住民は誤った趣味を持っているのに対して、ヨーロッパ人は崇高の正しい趣味を作り上げ、世界市民 (コスモポリタン)の人倫的感情を高めたと論じた[206]。カントは1777年の「様々な人種について」では人間は共通の祖先を持つとしたが[207]、『自然地理学』(1756-96年)で白色人種によって人類は最大の完全性に到達するとした[208]

1799年、医者チャールズ・ホワイトは白いヨーロッパ人は人類の最も見事な産物であり、ヨーロッパ人以外にこれほど美しい頭の形、これほど大きな頭脳をどこに見出すことができるだろうかと書いた[198][209]

エドワード・ロングは、ヒト種を、ヨーロッパ人、ニグロ、オランウータンの3つに分けて、白人とニグロの混血児もニグロとオランウータンの混血児も生殖能力を持たないとした[205]

クリストフ・マイナース[210]は「美しい白人種」と「醜い黒人種」の二つに分け、白人、特にケルト民族だけが真の勇気などの美徳を持っており、黒人は無情で無感覚な恐ろしい悪徳を持っているとした[211]

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ポーランド・ウクライナ[編集]

ポーランドのユダヤ人は、ユダヤ教国ハザール帝国や、ビザンティウムから来たと考えられている[212]。伝承では、一日だけユダヤ人がポーランドの王位に即位したといわれ、中世11世紀、12世紀の貨幣にヘブライ語で「ミエシュコ大王」「アブラハム・ドゥハス」などの銘が刻まれている[212]

ポーランドではユダヤ人への優遇政策は進んでいた。1264年、ポーランドのカリシュのボレスワフ王(1221-79)は、ドイツ諸侯のようなユダヤ勅許状を出した[212]。しかし、1267年、ブラスラウ公会議は12条でポーランドはキリスト教徒の新しい入植地であるため、ユダヤ人の迷信や悪習からの影響を懸念した[212]。1279年、ユダヤ人識別章が計画されたが実現しなかった[212]1364年、カジミェシュ王(1310-70)はユダヤ人を貴族と同等の扱いとして、ユダヤ人に危害を加えた者を罰した[212]。しかし、14世紀末、ポーランドで聖体冒涜事件と儀式殺人事件が起こった。1454年、カピストラーノのジョバンニの影響で、ヤギェウォ朝のカジミェシュ4世がユダヤ人の特権を一部撤回した[212]1565年、ポーランドのユダヤ人は卑しい職業に従事しているわけでもなく、土地を所有し、医学、占星術を研究し、大きな富を蓄えて、武器の携帯も認められている、と教皇使節が報告しており、他国の境遇との隔たりがあった[212]。当時、ポーランドのユダヤ人は商業、行政、森林開拓、岩塩採掘、農業、銀行、ポーランド貴族の御用商人、宮廷ユダヤ人など、多岐にわたって浸透しており、ユダヤ人から利益を得ていたポーランド貴族はユダヤ人を庇護した[212]。他方で、ポーランドの聖職者はユダヤ人を攻撃し、イエズス会のスカルガ[213]は、トレントのシモン少年儀式殺人事件や、聖餅冒涜裁判の原告にもなった[212]。イエズス会の神学生はユダヤ人へのポグロムを繰り返し、またポーランドの農民は農民が稼いだ金でユダヤ人は腹を満たすとして「ユダヤ人、ドイツ人、悪魔」の三人兄弟のうち、悪魔が一番ましという諺もあった[212]

ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったウクライナ[注 36]において、ギリシア正教を奉じるウクライナ農民にとってカトリックの領主とその家令ユダヤ人は憎悪の対象であった[212]1648年、ギリシア正教徒ボフダン・フメリニツキーは「ギリシア人」を名乗り「ポーランド人とそのお抱えの家令、仲買人たるユダヤ人から受けた屈辱を忘れまい」と叫び、ユダヤ人、ポーランド人の別なく改宗を迫ったり殺害し、イエズス会士も追放された[212][214]。このフメリニツキーの乱(1648年 - 1657年)はやがてロシアとポーランドの戦争(1654年-1667年)となり、ロシア軍もユダヤ人を殺害した[212]。この戦乱でユダヤ人は奴隷としてトルコに売られていった[212]。この大洪水時代によって、ポーランドは荒廃し、ポーランドのユダヤ人も致命的な打撃を受けて、17世紀後半にはポーランドのユダヤ人は銀行家の地位を追われ、1765年、ポーランド政府は、従来の集団単位の課税から人頭税に切り替え、ユダヤ人の組織「四邦議会」を廃止した[212]。多くのユダヤ人が国外のハンガリーやルーマニアへ逃亡し、またポーランドのユダヤ難民を救済するための募金活動が各地のユダヤ社会で行われた[212]1768年、ポーランド領ウクライナでハイダマク(ハイダマキ運動)によるポグロムが発生した[214]

1648年、偽メシアのシャブタイ・ツヴィがトルコのスミルナに現れると、ヨーロッパ各地のラビは歓迎して、ユダヤ人は財産を売って、コンスタンティノープルへの船に乗ろうとしたほどであった[3][212]。しかし、1666年、ツヴィはオスマン帝国において逮捕されイスラム教への改宗を選択した。なお、カバラー学者は1666年をメシア到来の時と解釈していた[212]

ウクライナガリツィアイスラエル・ベン・エリエゼル(バアル・シェム・トーブ)は、奇跡の治癒と悪魔祓いを行いながら、自然に聖なる花火として偏在する神の存在を説いて、ハシディズム運動を起こし、ポーランド、東ヨーロッパ各地に広まった[212]。しかし伝統的なユダヤ教ラビはハシディズムを異端として排斥した[212]

ウクライナ・ロシア戦争 (1658年-1659年)の時、バシリ・ヴォシュトシロは、不実のユダヤ人が暴行、殺人、略奪を平気で犯し、キリスト教徒の女性を侵している、かくして「余は、キリスト教の聖なる信仰にたいする熱意に駆られ、数名の清廉の士を同士として、ユダヤの呪われた民を根絶やしにする決意を固めた」と宣告した[212]

1772年、第一次ポーランド分割前夜には、ポーランドの暴徒たちが、エカチュリナ大帝の皇帝勅書をふりかざし、全スラヴ的信仰を旗印として、ユダヤ人とポーランド領主に対する組織的な絶滅作戦を展開した[212]。しかし、この皇帝勅書は、ロシア正教のメルヒセデブ神父が作成したとみられる偽の皇帝勅書であり、そこには、ポーランド人とユダヤ人が全スラヴ的信仰に対して軽侮しており、冒涜者たるポーランド人とユダヤ人を根絶やしにすることが目的であると書かれていた[212]

18世紀には、儀式殺人事件が多発した[212]。リトアニアのラビであった改宗ユダヤ人のミハイル・ネオフィートはユダヤ教では儀式殺人が掟であり、自分はかつてキリスト教徒の子供を殺したと自白したが、このネオフィートの証言記録はポーランドやロシアで反ユダヤ主義の典拠となった[212]

ロシア[編集]

モンゴルのくびきから解放されたモスクワ大公国では、イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)領土を四倍に拡大した時代にユダヤ人が移入した[215]

1470年頃、スハリヤという男がノヴゴロド公国でユダヤ教の優位を説教し、キリスト教聖職者もユダヤ教へ改宗したが、布教活動が公然と行われるようになると記録が途絶えた[215]スハリヤユダヤ教団はイエスはモーセと同じ位格であり、父なる神と同格ではないと主張したが、これは4世紀の東ローマ帝国アンキラのマルケロス派(Markellos of Ankyra)、フォティノス派(Photinus)の教えと同じであった[215]イヴァン4世治世下の1540年、教団の指導者は処刑された[215]。この事件以降、モスクワ大公国では異邦人は特別居住区に住まわせられ、ユダヤ人隔離政策も行われた[215]

1550年、イワン雷帝は、ポーランド王からユダヤ商人のモスクワ入りの許可を求められると、毒薬を持ち込むユダヤ人を入国させることはできないと拒否した[215]

1698年ロシア帝国ピョートル大帝は自由思想の持ち主であったが、アムステルダム市長からユダヤ商人のモスクワ滞在の許可を求められると時期尚早と断った[215]

エリザヴェータ皇帝は、ウクライナ、ロシアの全ユダヤ人を追放し、以後入国も禁止した[215]1743年に元老院がユダヤ商人の市場参加で国庫がいかに潤うかを報告しても、女帝はキリストの敵からの利益は不要であると認めなかった[215]

パーヴェル1世からポーランドのユダヤ人調査を命じられたガヴリ−ナ・デルジャーヴィンは、シナゴーグは迷信と反キリスト教的憎悪の巣、ユダヤ人自治機構カハルは危険な国家内国家、ユダヤ人は隣人の財産奪取を目的としていると報告した[216]

オーストリア・ハプスブルク帝国[編集]

神聖ローマ皇帝カール6世(在位:1711年 - 1740年)のウィーンではユダヤ人の人口増加を防ぐために、1726年の法で、正式に結婚できるのは長男だけとされた[3]。この結婚制限法は、ボヘミア、モラビア、プロイセン、パラティナ、アルザスでも適用された[3]。この結果、多くのユダヤ人若者がポーランドやハンガリーに流出した[3]

印刷術の発達によって、18世紀初頭には反ユダヤ的著作は毎年のように夥しい量が出版されるようになった[注 37]

ハイデルベルク大学の東洋学・ヘブライ学者アイゼンメンガーは1700年に『暴かれたユダヤ教』を著したが[217]、オーストリア宮廷ユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーによって発禁処分となり、アイゼンメンガーは無念のうちに4年後に死んだ[3]。しかし、アイゼンメンガー死後まもなくして、プロイセン王フリードリヒ1世の後ろ盾を得て、遺族が再刊し、以後、ドイツの反ユダヤ主義の枕頭の書となった[3]

オーストリア継承戦争でユダヤ人がプロイセンのスパイとして活動したということから、1744年オーストリア大公マリア・テレジアがボヘミアでユダヤ追放令を出した[3]。しかし、ヴォルフ・ヴェルトハイマーがユダヤ人の国際連帯活動を行い、フランクフルト、アムステルダム、ロンドン、ヴェネツィアのユダヤ人居住地は警戒態勢を敷き、ローマのゲットーには教皇に働きかけるよう指示があり、宮廷ユダヤ人の国際ネットワークの力によって、イギリスとオランダがマリアテレジアへ抗議して、マリアテレジアは追放令を解除した[3]。このウィーンでのユダヤ追放令が国家による大規模な追放政策としては最後のものとなった[3]

近代[編集]

啓蒙思想[編集]

啓蒙思想家ヴォルテールは反ユダヤ主義者でもあった[218][219]

ヴォルテール、カント、フィヒテなど啓蒙思想家のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた[218]。また、それはドイツの啓蒙思想、ドイツ観念論でも同様であった。

フランス啓蒙思想[編集]

1762年ルソーは『エミール』で、ユダヤ人を「もっとも卑屈な民」と称し、ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり「はじめにただ一つの国民だけを選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない」とした[220]

同じ1762年、ヴォルテールはユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」と「キリスト者ヴォルテール」と署名して答えた[221][注 38]1764年の『哲学辞典』ではヴォルテールは、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」「もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民」等と非難した[223]。しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった[224]

モンテスキューはオランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいないと旅行記で述べた[225]

無神論者ドルバックはユダヤ人は脆弱でみじめな存在であり、その熱狂的、非社交的な宗教と常軌を逸した法の犠牲者で、迷信的な無分別の結果であるとし、卑しく常軌を逸した迷信は愚鈍なヘブライ人や堕落したアジア人にまかせておけばいいと論じた[204]

ドイツ啓蒙思想とユダヤ人解放論[編集]

1776年自由主義神学者のゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけエズラ書ネヘミヤ書にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた[226][227]

1779年、フランソワ・エルがアルザスのユダヤ人を「国家内国家」として非難した[228]。「国家内国家」という表現はユグノーに対して使われたもので、1685年にはナントの勅令が廃止された[228]

フリードリヒ2世は、フランス・ロココ様式サンスーシ宮殿(無憂宮)を築き、ヴォルテールやモーペルテュイを招いて庇護し、無神論者の巣窟ともなった[229]
アドルフ・ヒトラーは強力な軍事力でプロイセンの領土を拡大させていったフリードリヒ2世を理想の人物と仰ぎ、官邸にこの肖像画を掛けていた[129]

啓蒙専制君主フリードリヒ2世1740年の『反マキャベッリ論』で、モーセが「神感を受けていなければ、大極悪人、偽善者、ないし作者が困っているときに劇に大団円をもたらしてくれる機械仕掛けの神を用いる詩人のように、神を利用していた詐欺師としか」みなしえない「モーセはたいへん稚拙だったので、ユダヤ人を導くのに、六週間で非常に通れたはずの道に四十年もかかった。彼は、エジプト人たちの知識をほとんど利用しなかった。」「ユダヤ人の先導者は、ローマ帝国の建国者(ロムルス)、ペルシア帝国の大王、ギリシアの英雄たち(テセウス)よりも、はるかに劣っていた」と述べた[167]。フリードリヒ2世はモーセ、キリスト、ムハンマドを詐欺師とする『三詐欺師論』などの無神論の影響を受けていた[230]。ただし、フリードリヒ父王はユダヤ人が一般職業に就くことを禁止したが、フリードリヒ2世はユダヤ人取扱を改善しており、ロスバッハの戦勝記念(1757年)に際しモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ人保護法のもと建設されたベルリンのシナゴーグで、ユダヤ人解放を実現した国王として祝福した[167]

フリードリヒ2世は、1780年に『ドイツ文学論』 をフランス語で著述し[注 39]、ドイツ文学の惨状の原因として戦争の影響があり、またドイツが政治的な統一国家を作れないこと、さらにドイツ語が多種の異なる方言をもつ未発達な言語であり統一言語がないことなどにあるとした[231]。クラインは、フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあったと述べ、またカントは日常の職務では自由を制約されると論じて、ハーマンはこれを批判した[231]

プロイセン王国枢密顧問官クリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドーム[232]は、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、メンデルスゾーンとともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、1781年9月に『ユダヤ人の市民的改善について』を発表し、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した[129][228][233]。ただし、ドームはユダヤ教の棄教を解放の条件とした[234]

ゲッティンゲンのルター派神学者・ヘブライ学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリスは、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許しているとして、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した[228][235][236][237]。ミヒャエーリスは聖書と普遍史を批判したことでも高名だが、すべての言語が一つの言語、特にヘブライ語であったとは証明されていないとした[238]

1782年、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した[228]

ユダヤ人の工場経営者で哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人のキリスト教社会への同化を進めた[228]1770年にはメンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた[239]1782年、メンデルスゾーンはメナセ・ベン・イスラエルの『イスラエルの希望』のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという政教分離原則を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた[228]

フランス革命と革命戦争の時代[編集]

1789年フランス革命が勃発し、人権宣言が出された。フランス革命戦争(1792年-1802年)とそれに続くナポレオン戦争(1803年–1815年)で、オーストリア帝国プロイセン王国がフランスに敗れ、神聖ローマ帝国が崩壊した。

フランス革命と反革命、ナポレオンの時代[編集]

フランスのアルザスでは、1784年、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年7月にはユダヤ人への農地所有が認められた[228]。これは外国人のユダヤ教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった[228]

1787年メッスの王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでよりいっそう有益かつ幸福にする手段は存在するか」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された[228][240][241]。グレゴワール神父は1789年ジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ウルウィッツは著書『ユダヤ人擁護論』を書いて、ミラボーに注目された[228][242]

フイヤン派ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティはフランス革命で、ユダヤ人解放を実現した。

ミラボー伯爵はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した[129]1791年1月28日フランス革命中のフランスでは、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン教皇領のセファラディームの職業と居住地が保障された[243]。反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、1791年9月27日にユダヤ人解放令は議決し、11月に発効した[129]。しかし、革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった[244]

エドマンド・バークは『フランス革命の省察』でフランス革命を批判して、ドイツにも影響を与えた。
ヴァレンヌ事件。ヴァレンヌからパリへ連れ戻されるルイ16世国王一家。
1791年のパリ脱出時のルイ16世王妃マリー・アントワネット。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの娘で、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の妹だった。1793年に斬首された。

フランスの覇権が拡大するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。ドイツの教養市民はゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に当初は歓迎したが、革命後の恐怖政治が現出すると革命を憎悪するようになった[245]。詩人クロプシュトックはフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した[245]。当初革命を称賛したフリードリヒ・ゲンツは1790年バークの『フランス革命の省察』をドイツ語に翻訳した[245]。プロイセンではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリアでは外国人の入国が制限された[245]。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった[245]アルトワ伯はコーブレンツに亡命宮廷をひらき、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した[245]

1791年6月、ルイ16世マリー・アントワネット国王一家がフランスを逃亡しようとしたが、国境付近で逮捕されたヴァレンヌ事件が起きた。啓蒙君主であった神聖ローマ皇帝レオポルト2世は妹のマリー・アントワネットを危惧し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行い、フランスに王権復旧を要求した[245]神聖ローマ帝国とプロイセンの反革命宣言はフランスへの挑発となって、1792年3月1日、フランスの好戦派はオーストリアに宣戦布告し、プロイセンもオーストリアの同盟国として参加して、革命戦争がはじまった[245]。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力を倒し、また「自由の十字軍」として好戦的であり、ジロンド党のブリソは「戦争は自由をかためるために必要である」と演説した[245][246]。革命側は短期決戦による勝利を期したが、軍の貴族将校の半数が亡命しており、フランス軍は敗退すると、革命派は国王一家がオーストリア・プロイセン軍と内通しているとみなして宮殿を襲撃して国王一家を幽閉する8月10日事件が起こった[246]。また、反革命派1200人が虐殺される九月虐殺が起こった[246][247][248]。9月、フランス国民軍ヴァルミーの戦い傭兵を中心としたプロイセン軍に勝利して、フランスでナショナリズムが高揚した[246]。この勝利によって、革命戦争が革命対反革命の戦争から、フランスの大陸制覇戦争へと性格を変えていった[245]

1793年1月にルイ16世が処刑されると、ドイツ側にイギリス、スペイン、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、第一次対仏大同盟が形成された[246]フランス1793年