友綱良助 (3代)

友綱 良助(ともづな りょうすけ、1856年安政3年) - 1887年明治20年)6月21日)は、梅ヶ谷部屋に所属した元力士[1]。他に、玉垣部屋雷部屋に所属していた。

本名は山口 音吉[1]京都府京都市(旧山城国愛宕郡)出身。身長は不明、体重は93kg。小兵力士だった。

最高位は西前頭筆頭。

入門前に既に所帯を持っていたが、相撲好きが高じて入門した。1876年4月に初土俵(序ノ口)。1883年1月新十両(東二段目9枚目となり十両相当となった)。その場所は6勝4敗だったが、十両力士に休場者が相次いだ事により、翌場所(1883年5月)東十両筆頭に昇進[1]。更にその翌場所の1884年1月場所で新入幕を果たした。幕内での成績は5割前後をキープし、番付運も良かった事があって、順調に昇進していった。しかし、気性が激しいという欠点を持っており、1886年5月場所6日目の大達羽左エ門(のち大関に昇進)との対戦では、立合いで大達のを掴んで引き回す行為を犯し、翌日の対戦の出場停止を言い渡された[注 1]。翌1887年になると体調不良となり、最終場所となった5月場所では4敗6分けで勝利を挙げる事が出来なかった。5月場所終了後の6月21日に32歳で死去した。

幕内通算 8場所 29勝26敗4預21休の成績を残した[1]

改名歴は1回ある:浜ノ音 良助 → 友綱 良助[1]


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 両者とも休場扱いとなり、大相撲星取表では6日目の大達と友綱の星取りは共に「や」となっている[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 友綱 良助 力士情報”. Sumo Reference. 2017年11月10日閲覧。
  2. ^ 明治19年夏場所”. 大相撲星取表. 2017年11月10日閲覧。

関連項目[編集]