原健三郎

原 健三郎
はら けんざぶろう
原健三郎
『現代防衛論集』防衛研究社、1965年
生年月日 (1907-02-06) 1907年2月6日
出生地 日本の旗 兵庫県津名郡浅野村
(現:淡路市
没年月日 (2004-11-06) 2004年11月6日(97歳没)
死没地 日本の旗 東京都渋谷区
出身校 早稲田大学
オレゴン大学大学院
前職 講談社従業員
労働大臣
衆議院議長
所属政党日本進歩党→)
民主党→)
同志クラブ→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党大野派船田派村上派江藤・亀井派
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院名誉議員有資格者
政治学修士

日本の旗 第65代 衆議院議長
在任期間 1986年7月22日 - 1989年6月2日
天皇 昭和天皇
明仁

在任期間 1961年6月8日 - 1963年10月23日
衆議院議長 清瀬一郎

内閣 鈴木善幸内閣
在任期間 1980年7月17日 - 1981年11月30日

日本の旗 第29・31代 労働大臣
内閣 第2次佐藤内閣第3次改造内閣
第3次佐藤内閣改造内閣
在任期間 1968年11月30日 - 1970年1月14日
1971年7月5日 - 1972年1月28日

選挙区 (兵庫1区(大区)→)
旧兵庫2区→)
比例近畿ブロック兵庫9区
当選回数 20回
在任期間 1946年4月11日 - 2000年6月2日
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原 健三郎(はら けんざぶろう、1907年明治40年〉2月6日 - 2004年平成16年〉11月6日)は、日本政治家位階従二位勲等勲一等旭日桐花大綬章

衆議院議員(20期)、衆議院議長(第65代)、衆議院副議長(第43代)を務め、また国務大臣としては労働大臣第29代第31代)、国土庁長官第9代)、北海道開発庁長官第43代)を歴任。

来歴[編集]

1907年2月6日、兵庫県津名郡浅野村(現在は北淡町を経て淡路市)に生まれる。旧制兵庫県立洲本中学校を経て1925年早稲田大学政治経済学部政治学科入学。このころから政治を志し、地元の県議会議員の選挙活動を手伝ったり、代議士の自宅を尋ねたりした[1]1931年に早大卒業後アメリカ合衆国に渡航し、1935年5月、オレゴン大学大学院政治学研究科修士課程を修了[1]

ヨーロッパ滞在[1]を経て帰国後、講談社に入社。雑誌『現代』[1]の編集者・編集長を務めたのち、1942年4月に予定されていた第21回衆議院議員総選挙への立候補を一旦届け出たが、洋行の前歴を問題視され、翼賛政治体制協議会の推薦が受けられなかったため断念している[1]。終戦後の1946年4月、大選挙区制で行われた第22回衆議院議員総選挙において兵庫1区から立候補し、初当選した[2]

政界入り当初は、日本進歩党を経て民主党に所属したが、炭鉱国家管理問題での日本国政府の対応に反発して幣原喜重郎田中角栄佐々木秀世らと共に離党し、吉田茂率いる民主自由党に参加した。保守合同にともなって、自由民主党に所属。党内派閥大野伴睦派、後身の船田中派に属し、船田の死後は中曽根康弘派に参加。

自民党内では広報委員長、国民運動本部長など、衆議院内では運輸委員長、逓信委員長、ロッキード問題調査特別委員長などを歴任した。原の議員在職期間の大半は、総選挙の制度が中選挙区制を採っていた期間と重なり、その間すべての選挙で兵庫2区を地盤とした。

1959年から1961年にかけて、日活製作・配給、児井英生企画作品の製作に関わり、脚本家あるいは原作執筆者として、15作の映画にクレジットされた[3](⇒ #フィルモグラフィ節にて後述)。

第30代労働大臣在任時の1972年に、成人式の講演で「感謝の気持ちを忘れ我を押し通したものが養老院にいる、諸君がそうなっては困る」と発言したことを失言と追及され、辞任に追い込まれた。

1986年7月の第106特別国会より、第65代衆議院議長に就任。自民党が絶対多数の300議席を有するもとで、大型間接税(売上税消費税)導入をめぐる税制改正問題や、1988年に発覚したリクルート問題に直面し、「厳しい国会運営[4]」を強いられながらも、「税制国会」こと第113臨時国会において、消費税導入を含む税制改革関連6法の成立に尽力した。

その後、第114通常国会会期中の1989年6月、政府予算案の強行採決をめぐる混乱(憲政史上初めて、自民党単独での採決となった)により、衆議院議長を辞任した[4]。なお、衆議院の議長・副議長・仮議長をすべて務めた経験があるのは、原のみである。

議員在職50年を超え、1996年には尾崎行雄三木武夫に続いて、史上3人目の名誉議員称号資格者となったが、尾崎や三木のように、国会議事堂内に胸像を建てるという前例について、財政難により各党の合意がとれず、称号贈呈および胸像建立の是非は棚上げとなった。

1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区制導入にともなって、選挙区の区分が大きく変わった(兵庫9区阪神間に代わって、これまで選挙地盤ではなかった明石市が区分に含まれるようになった)ことで、苦しい選挙運動を強いられ、「ハラケン危うしお助けください」をスローガンに掲げたが、新進党宮本一三に敗れ、比例近畿ブロックで復活当選。「神風が吹いた」とコメントした。原は同選挙での最高齢当選者となり、この選挙が最後の立候補となった。

1999年中曽根派から移行した志帥会の旗揚げに参加。

議員在職中を通じて「生涯現役」「死ぬまで議員であり続ける[1]」と公言していたが、2000年の衆議院解散を機に、20期54年の議員生活を終え、93歳という衆院歴代第2位の高齢[4]で政界を引退した(1位は94歳の尾崎行雄)。同時に引退した年下の櫻内義雄とともに、明治生まれ最後の国会議員だった。また、帝国議会時代から議席を有した、最後の現役国会議員である。

政界引退後は、地元関西のテレビやラジオにコメンテーターとして出演しながら、晩年を過ごした。主な出演番組は『迫って!GABURI。』(MBSテレビ)、『さてはトコトン菊水丸』(MBSラジオ)内の「教えてハラケン」コーナーなど。

2004年11月6日1時52分、心不全のため東京都渋谷区広尾の自宅で死去した。97歳没[4]

人物[編集]

  • 愛称は「ハラケン[5]
  • 選挙運動では、「おばはん、たのんまっせ」などと粗野に語りかけるスタイルの演説を用いた[1]。「田舎の人々と同じ言葉を使って政治を語り、政治を論ずるようでなければ、本当の支持は受けられない[6]」との信念に基づいたものであったという。また、妻とともに土下座するパフォーマンス[5][1]でも知られた。
  • 自民党国民運動本部長在任時に、大相撲本場所における内閣総理大臣杯の創設を提案し、実現した。
  • 智辯学園の母体となっている弁天宗を信仰していた。[7]また、西宮神社での「十日戎」の際の奉納演説を毎年欠かさず20年間続けた。
  • 1980年モスクワ五輪ボイコットの際、出場を訴える選手たちに「この国家の一大事に飛んだり跳ねたりしたいのか」と発言し、選手らの気持ちを逆なでするとの非難を浴びた。

政策[編集]

  • 初出馬時から、明石海峡大橋の建設を提唱した(※架橋構想自体は明治時代から存在し、原のオリジナルではない)。原自身の豪放なキャラクターによる演説は夢物語ととらえられ、ハラケンをもじって「ハシケン」「ホラケン[1]」などと揶揄されたが、1986年に着工が実現した。着工後も、演説で「ハラケン落とせば、橋落ちる[1]」のフレーズを用いるなど、自身の実績をアピールした。淡路市の大橋のふもとにある公園・あわじ花さじき付近に原の功績をたたえる銅像が建てられている。
  • 労働大臣在任中に、当時は異例とされていた官公庁の週休二日制をはじめて提唱した。

フィルモグラフィ[編集]

原は映画好きでアメリカ留学中、暇を見てはハリウッドのスタジオを訪れ、ジョン・ウエインやゲーリー・クーパーにも会っているという。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、「渡り鳥シリーズ」全9作品中4作を含めた日活映画15作の脚本および原作を執筆したことになっているが、実際には全作品においてノータッチであったことを複数の人物が自著で明らかにしている。一人は、原とともに脚本にクレジットされた日活の専属脚本家・山崎巌[8]、もう一人は原の「原作」をいくつか映画化した監督の西河克己である[9]

これら全作品のプロデューサー・児井英生[3]が、原と早稲田大学の同級生で親交があり、原に有権者や党内に向けたパフォーマンス的肩書きを与えるためクレジットに加えたのだという[10]。自らのオリジナルシナリオを原の「原作」とされた山崎巌はこのことに憤り、原が原作者でないと明かした文章をいくつも発表したが、原からは何の反応はなかったという。反論や抗議をすればボロが出るからではないかとし、また原作者の肩書きを欲したのは芸能界とのパイプがあることを自慢したかったのだろうと山崎は推測している[11]

なお、児井英生によれば、原が原作に関わった初めは「ギターを持った渡り鳥」で、曲だけ持って原の家を訪れ、ストーリーの相談をし、原のハリウッドの撮影現場の話や日本に輸入されていない映画のストーリーについてなど、三時間程の話をメモした。その後原から映画に関する分厚い資料が届いた、原の資料(原案)をもとに山崎と二人で構想を練った。児井は自著のフィルモグラフィでは「渡り鳥」シリーズ全てを原の原作としている。山崎や西河のいうように、「原作」ではないとしても、全ては原の談話と資料に基づいて構想されたということだろう。[12] 宍戸錠は「箔付けか、体のいい政治献金か」としている。

1959年

「脚本」

「原作」

  • 無言の乱斗 - 監督:西河克己、脚本:山崎巌・西河克己
1960年

いずれも「原作」

1961年

いずれも「原作」

選挙歴[編集]

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第22回衆議院議員総選挙 1946年4月10日 兵庫県第1区 日本進歩党 49,998 ' 8/79 - -
第23回衆議院議員総選挙 1947年4月25日 兵庫県第2区 民主党 45,842 15.2 1/19 - -
第24回衆議院議員総選挙 1949年1月23日 兵庫県第2区 民主自由党 64,855 19.4 1/11 - -
第25回衆議院議員総選挙 1952年10月1日 兵庫県第2区 自由党 42,444 11.1 2/13 - -
第26回衆議院議員総選挙 1953年4月19日 兵庫県第2区 自由党 38,728 10.5 4/13 - -
第27回衆議院議員総選挙 1955年2月27日 兵庫県第2区 自由党 40,561 10.3 4/15 - -
第28回衆議院議員総選挙 1958年5月22日 兵庫県第2区 自由民主党 70,063 15.8 1/11 - -
第29回衆議院議員総選挙 1960年11月20日 兵庫県第2区 自由民主党 80,386 18.4 1/9 - -
第30回衆議院議員総選挙 1963年11月21日 兵庫県第2区 自由民主党 107,842 22.2 1/8 - -
第31回衆議院議員総選挙 1967年1月29日 兵庫県第2区 自由民主党 122,822 19.3 1/9 - -
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 兵庫県第2区 自由民主党 120,632 18.4 1/12 - -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 兵庫県第2区 自由民主党 134,109 20.1 1/8 - -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 兵庫県第2区 自由民主党 93,925 12.0 5/9 - -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 兵庫県第2区 自由民主党 123,116 17.1 1/11 - -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 兵庫県第2区 自由民主党 135,416 16.8 2/9 - -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 兵庫県第2区 自由民主党 109,909 14.0 2/10 - -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 兵庫県第2区 自由民主党 145,311 18.0 1/8 - -
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 兵庫県第2区 自由民主党 96,384 10.6 5/10 - -
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 兵庫県第2区 自由民主党 111,444 12.4 5/7 - -
当(比) 第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 兵庫県第9区 自由民主党 67,329 34.4 2/4 比例近畿 惜敗率89.4%
当選回数20回 (衆議院議員20)

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 別冊宝島M『選挙だ!! 選挙だ ウラもオモテも楽しみたい』宝島社、1998年 ISBN 9784796614238 , pp.94-103「原健三郎、在職半世紀! のヒミツ」:なお同資料では、留学先をオレゴン州立大学、大学院修了年を1936年としている。
  2. ^ 当選同期に、石井光次郎井出一太郎江崎真澄小沢佐重喜川崎秀二小坂善太郎坂田道太中野四郎二階堂進早川崇水田三喜男村上勇など
  3. ^ a b 原健三郎 - 日本映画データベース、2010年1月23日閲覧。
  4. ^ a b c d “原健三郎元衆院議長が死去 議員在職50年余り”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年11月6日). https://web.archive.org/web/20130616022134/http://www.47news.jp/CN/200411/CN2004110601003507.html 2012年11月11日閲覧。 
  5. ^ a b 西川孝純『連立政治の舞台裏 政界再編・流砂の六年間』 文芸社、1999年 ISBN 4887375662 , p.205.
  6. ^ 原健三郎『懸け橋 我が軌跡淡路より』日本経済新聞社、1997年
  7. ^ 『なぜ、近江商人は成功するのか!』株式会社 菱法律経済研究所、7/10 平成19、15頁。 
  8. ^ 山崎巌『夢のぬかるみ』新潮社、1993年 ISBN 4103801026 , p.69.
  9. ^ 西河克己、権藤晋『西河克己映画修業』ワイズ出版、1993年 , p.196
  10. ^ 小林信彦『2001年映画の旅 ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト200』文藝春秋、2000年 ISBN 4163568409 , p.189「ギターを持った渡り鳥」
  11. ^ 桂千穂編・著「山崎巌 日活無国籍アクション『渡り鳥』シリーズの秘密」『にっぽん脚本家クロニクル』ワールドマガジン社、1996年、pp.674-675
  12. ^ 児井英生「伝・日本映画の黄金時代」280〜282頁)

関連文献[編集]

  • 『ハラケン「生涯現役」 元衆議院議長・原健三郎 人生聞き語り』、神戸新聞東京支社編、神戸新聞総合出版センター、2001年、 ISBN 4343001393

関連項目[編集]

議会
先代
坂田道太
日本の旗 衆議院議長
第65代:1986年 - 1989年
次代
田村元
先代
久保田鶴松
日本の旗 衆議院副議長
第43代:1961年 - 1963年
次代
田中伊三次
先代
竹谷源太郎
日本の旗 衆議院運輸委員長
1955年
次代
松山義雄
先代
新設
日本の旗 衆議院逓信委員長
1948年
次代
辻寛一
先代
高岡大輔
日本の旗 衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員長 次代
広瀬正雄
公職
先代
後藤田正晴
日本の旗 北海道開発庁長官
第43代:1980年 - 1981年
次代
松野幸泰
先代
園田清充
日本の旗 国土庁長官
第9代:1980年 - 1981年
次代
松野幸泰
先代
小川平二
野原正勝
日本の旗 労働大臣
第29代:1968年 - 1970年
第31代:1971年 - 1972年
次代
野原正勝
塚原俊郎
名誉職
先代
福田一
最年長衆議院議員
1990年 - 2000年
次代
奥野誠亮