南インド

南インドの位置
南インドの衛星写真
南インドは最も多くの象を保有している
オリッシーの踊り子(カルナータカ州)
クチプディの踊り子
南インドの伝統的な料理、南インドの主食は米である

南インド英語で South India, Dakshina Nad, Dravida Nad;タミル語で தக்ஷிண நாடு ダクシナ・ナードゥ 「南の地」, திராவிட நாடு ドラーヴィダ・ナードゥ 「ドラヴィダの地」)は、インドの中で南部に位置する、地理的、言語的、かつ文化的に区分されうる一地域の総称。南インド分離主義者はドラヴィディスタン英語版)とされている。

概要[編集]

地理的な観点より、古くから、サトプラ山脈ナルマダー川ヴィンディヤ山脈の線より以南の、デカン高原東ガーツ山脈西ガーツ山脈を含む地域は、「南」(サンスクリット語で दक्षिण ダクシナ;デカン高原の「デカン」の語源である)と呼ばれてきた。

現在では、言語的・文化的、そして政治的な観点も含めて、南インドはアーンドラ・プラデーシュ州テランガーナ州ゴア州カルナータカ州ケーララ州タミル・ナードゥ州ラクシャドウィープポンディシェリアンダマン・ニコバル諸島を含む地域を指し、この地域の居住者は「南インド人」(英語で South Indians)と呼ばれることがある。

言語的にも文化的にも、南インドはドラヴィダ人の地として区別される傾向があるが、インド・アーリア人コンカニ人をはじめとした、ドラヴィダ人に含まれない人々も多く居住して現地の言語を使用しており、またドラヴィダ人もインドの他の地域やスリランカオセアニア東南アジアマダガスカルなどに広く居住している。

地理[編集]

南インドは広大な三角形の半島で、西にアラビア海、東にベンガル湾に面している。おおよそ東海岸に沿って東ガーツ山脈が、西海岸に沿って西ガーツ山脈が伸び、それらに囲まれる高地がデカン高原である。

コーダーヴァリー川クリシュナ川カーヴィリ川などの比較的大きな河川は、いずれも西ガーツ山脈に発しデカン高原を通って東ガーツ山脈を刻み、ベンガル湾に注ぐ。

東南部には、ラーマの橋と呼ばれる砂州と島々が点在するポーク海峡を隔ててスリランカがある。ラクシャドウィープの南にはモルディブの島々が連なる。半島三角形の南の先端がカンニヤークマリ(英語で Cape Comorin;コモリン岬)であり、その先にはインド洋が広がっている。

特定の地域として言及される以下のような地域は、南インドに含まれる。

  1. アーンドラ海岸地方(アーンドラ・プラデーシュ州の一部)
  2. カルナータカ(クリシュナ川とその支流トゥンガバドラ川より以南)
  3. コロマンデル海岸(アーンドラ・プラデーシュ州南部とタミル・ナードゥ州北部の海岸地方)
  4. コング・ナードゥ(タミル・ナードゥ州の一部)
  5. チョーリャ・ナードゥ(タミル・ナードゥ州の一部)
  6. テランガナ(アーンドラ・プラデーシュ州の一部)
  7. トゥル・ナードゥ(カルナータカ州南部海岸地方)
  8. トンダイ・ナードゥ(タミル・ナードゥ州の一部)
  9. パーンディヤ・ナードゥ(タミル・ナードゥ州の一部)
  10. 北部政府地(Nothern Circars;アーンドラ・プラデーシュ州北部とオリッサ州の海岸地方)
  11. マール・ナードゥ(カルナータカ州の一部)
  12. マイダーン(カルナータカ州の一部)
  13. マラバール海岸(カルナータカ州とケーララ州の海岸地方)
  14. モラス・ナードゥ(カルナータカ州の一部)
  15. ライチュール・ドーブ(アーンドラ・プラデーシュ州とカルナータカ州の一部)
  16. ラヤラセーマ(アーンドラ・プラデーシュ州の一部)

南インド人[編集]

「南インド人」(英語で South Indians)は、語義通りには南インドに出自を持つ人々のことであるが、多くの場合ドラヴィダ人のみを指す。しかし実際には、ドラヴィダ人の範囲に含まれない人々も南インドを自らの故郷としている。

インドでは、使用言語と保持している生活文化との関連性が密接であるので、民族の分類をする場合には単純に使用言語によって分けてしまう場合が多い。それに従えば、南インドにはタミル人、テルグ人、マラヤーラム人などが居住していることになるが、その使用言語の多くがドラヴィダ語族に含まれるので、大きくドラヴィダ人と分類することが一般的である。その場合、ドラヴィダ人に含まれないのは、インド・アーリア語に属するコンカニ語を話すコンカニ人などとなる。

ドラヴィダ人[編集]

南インドに居住しているのはドラヴィダ人であるということが一般的に言われているが、ドラヴィダ人を定義する時には、一般に民族を定義する場合に生ずる困難がここにも生ずる。

ドラヴィダ人という呼称について考える場合、言語学での分類に用いられるドラヴィダ語族の概念を抜きにしては考えられない。ドラヴィダ人の定義としては、ドラヴィダ語族に属するタミル語テルグ語カンナダ語マラヤーラム語トゥル語コータ語などの言語を母語として使用する人々、という言語学的側面が第一に挙げられると考えられる。

次に、インダス文明の担い手でもあり、移住してきたアーリア人よりも早くからインドに居住して、徐々にインドの南方へと追いやられて行きながらもチョーラ朝などの下で隆盛し、イスラム教勢力の侵入を食い止めた人々、という歴史的・政治的な側面が挙げられる。

次に、一般的にドラヴィダ人はアーリア人に比べ肌の色が黒く、背が低い。

次に、インド文学においてはサンスクリット文学 (Sanskrit literatureが入る前から存在した独自のタミル文学 (Tamil literatureを保持し、ムルガン神信仰などの宗教や建築、音楽、道徳観、食生活などでも独自のものを持っている、という文化的な側面が挙げられる。

このような様々な側面が複雑に繋がり合っているのが、ドラヴィダ人という概念である。また、タミル人という概念があり、主にタミル・ナードゥ州出身でタミル語を母語としその文化を担う人々を指すが、タミル(தமிழ்;Tamil)という語がドラヴィダ(திராவிட;サンスクリット語 द्रविड, द्रमिल, द्राविड;Dravida)という語と語源について関係している可能性があることを考えると、タミル人をドラヴィダ人の代表、あるいはドラヴィダ人そのものと考える傾向があることも、理解できなくはない。

言語[編集]

南インドで用いられる言語は、ドラヴィダ語族に含まれる言語がほとんどを占める。タミル語テルグ語カンナダ語マラヤーラム語トゥル語などがある。

中でもタミル語は西暦紀元前後の言葉を収録したと考えられる比較的古い文献が伝わっており、ドラヴィダ語族の起源であると考えられている古ドラヴィダ語に最も近いものであると考えられる。ドラヴィダ語族に属する言語を使用していたと学問的に認められているインダス文明の未解読文字を読み解く時にも、非常に重要な鍵となる言語であると見做されている。

この他、広く通じる共通語として英語ヒンディー語が用いられる。またパーンディッチェーリ連合区ではフランス統治の名残でフランス語が通用し、現在でもフランス語の教育熱は高い。

独立時には、主に北インドで使用されるヒンディー語を南インドに押し付けないという暗黙の了解があった。しかし、1970 年代以降、ヒンディー語に対する根深い反対にもかかわらず、ヒンディー語は社会に浸透してきた[1]。ただし、ヒンディー語の影響力が限界に達しており、依然として反対しているタミル・ナードゥ州を除く。

経済[編集]

インドの他の地域と同様、住民のほとんどがモンスーンに依存した農業を営む。主な農作物は、蜀黍・豆類・綿花唐辛子四国稗であり、また数々の香辛料が栽培される。ニーラギリ山地やコダグ地方では檳榔珈琲胡椒タピオカカルダモンも栽培されている。しかし、特にカルナータカ州北部、ラヤラセーマ地方やテランガナ地方では旱魃が頻発し、農業経営が厳しい状態に追い込まれており、家畜の売り払いや自殺などの問題を引き起こしている。これらの地域のほか、チェンナイハイデラバードなどの都市でも、水不足は深刻である。

南インド地域の教育水準は全体的に高いとされており、特にケーララ州は識字率98%を誇り、失業率もインド全土中最低である。また、インド初の家族計画政策が実施(中国の例に倣って[要出典]ケーララ州の共産党政権が始めた)されたように南インドは北インドほどの人口増加が無い。

南インドではインドの全土のIT産業の7割があり、中でもバンガロールは「インドのシリコンバレー」と呼ばれることがある。チェンナイなどの都市がこれに続く。

南インドでは自動車産業も盛んであり、インド全土で生産される自動車、バス、大型トラック、列車、自動二輪の50%が、「南アジアのデトロイト」の異名を持つチェンナイで生産されている。

現在のインド政府が定める南インド[編集]

インド政府内務省が定める六地域の内の南インド(最下部の赤色の地域)。

インド政府内務省が域内の相互発展、融和、協力のために定めている中央西北東インド、六地域の一つの「南インド」は、その南地域会議(Southern Zonal Council)が管轄していて、インドの地方行政区画のうちアーンドラ・プラデーシュ州カルナータカ州ケーララ州ポンディシェリ連邦直轄領タミル・ナードゥ州テランガーナ州(州都はチェンナイ)で構成される(右の地図で赤色の部分)。アンダマン・ニコバル諸島ラクシャドウィープは構成員ではないが、招待を受けている。

出典[編集]

  1. ^ 再燃する言語紛争 南部の州が決起 ヒンディ語化へ強く反発『朝日新聞』1978年(昭和53年)9月1日朝刊、13版、7面

関連項目[編集]

座標: 北緯13度00分 東経77度00分 / 北緯13.000度 東経77.000度 / 13.000; 77.000