北条繁広
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天正4年(1576年) |
死没 | 慶長17年6月8日(1612年7月6日) |
別名 | 新蔵、新左衛門尉 |
戒名 | 泰清院殿恵雲常智大居士[1][2][3] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 北条氏直→徳川家康→徳川秀忠 |
氏族 | 後北条氏(玉縄北条家・北条新蔵家) |
父母 | 父:北条氏繁 |
兄弟 | 氏舜、氏勝、氏成(直重)、千葉直胤、繁広、娘(上杉氏憲室)、娘(杉原長房室) |
妻 | 遠山彦六郎為勝(景信とも)の娘[注釈 1][1] |
子 | 北条氏長、某[注釈 2]、修元院殿[注釈 3] |
北条 繁広(ほうじょう しげひろ)は、安土桃山時代・江戸時代初期の後北条氏一族。
北条氏繁の五男[3](三男とする史料もある)[要出典]。母は北条氏康の娘の七曲殿とされているが、年齢的に違うとされる[3]。 兄である下総岩富藩主・北条氏勝の養子となる。子に北条氏長(正房)。通称は新蔵、新左衛門尉。
生涯[編集]
小田原征伐では兄とともに伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で徳川家康に降伏した。
家康に一旦は仕えたものの、嫡男を失った氏勝に乞われてその養子となり、兄の下総国岩富城に入る。しかし、これに対して不満を抱く家臣もおり、慶長16年(1611年)に氏勝が死亡すると、反対派は秘かに家康の甥にあたる氏重を養子に迎えて家督を継がせる。これに激怒した繁広は家康に訴訟したが、その最中の慶長17年6月8日(1612年7月6日)に駿府において死去した。享年37。
家康は繁広の4歳になる嫡男・北条氏長を召しだして別個に500俵取の旗本として遇した。氏長は後に甲州流軍学の学者として有名になり、軍学北条流兵法の始祖とされた。
菩提寺は鎌倉市大長寺(祖父地黄八幡北条綱成開基の寺)で、大河内松平家の菩提寺でもある。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 黒田基樹『北条早雲とその一族』新人物往来社、2007年7月。ISBN 978-4-404-03458-8。