前田幸長

前田 幸長
巨人時代の前田
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県筑紫郡那珂川町(現:那珂川市
生年月日 (1970-08-26) 1970年8月26日(53歳)
身長
体重
179 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年4月15日
最終出場 2007年9月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
前田幸長
人物
生誕 (1970-08-26) 1970年8月26日(53歳)
日本の旗 日本 福岡県筑紫郡那珂川町(現:那珂川市
国籍 日本
職業 野球解説者
野球評論家
タレント
YouTuber
公式サイト

公式Webサイト 前田幸長
Facebook 前田 幸長
Instagram Yukinaga Maeda
Twitter 前田幸長

前田幸長のチョコブログ
YouTube
チャンネル
活動期間 2020年4月2日 -
ジャンル 野球
事務所(MCN Sports Bond Production
テンプレートを表示

前田 幸長(まえだ ゆきなが、1970年8月26日 - )は、福岡県那珂川市出身の元プロ野球選手投手)。

現役引退後、2009年より日本経済大学にて准教授を務めていた。2012年に退任。現在は野球解説者としてニッポン放送九州朝日放送KBCラジオ)の中継、J SPORTSメジャーリーグ中継に出演している傍ら、東京スポーツ野球評論家として活動している。シンクバンク→FLAME OF SINCERITY(フレイムオブシンセリティ)所属。2020年4月よりTTパレット所属のインフルエンサーとしてYouTubeチャンネル「前田幸長のチョコチャンネル」を開設し、タレントYouTuberとしても活動をしている。2021年1月より、個人事務所Sports Bond Production(スポーツボンドプロダクション)に所属。

また、「人生タイミングとターニングポイント」の講演題目で全国各地で講演や野球教室の開催などの活動をしている。都筑中央ボーイズを主宰し、会長として指導も行っている。愛称は「チョコ」。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

福岡第一高等学校時代に稲垣人司から厳しい指導を受け投手として力を付けた[1][2]

1988年福岡第一高等学校のエースとして同学年の山之内健一らとともに春夏連続甲子園出場。同年夏の第70回全国選手権大会では決勝で広島商業に敗れ、準優勝に終わったが甘いマスクと戦国武将を思わせる名前で人気を集めた。高校の1学年後輩に古里泰隆、2学年後輩に松元秀一郎がいた。

同年のプロ野球ドラフト会議では、地元に誕生した福岡ダイエーホークスが2位指名を公言したが本人は大学進学の意思を表明し、同志社大学のセレクションを受ける。ところが秘密裏に西武ライオンズとの間で「1位指名する」旨の話が進められていたという[3][4]。しかしドラフト会議で西武は指名を回避(この時に西武が1位・2位に指名したのは共にプロ入り拒否を表明していた渡辺智男石井丈裕である)し、結局酒井勉のクジを外したロッテオリオンズから1位指名を受け、入団[5][6]。「チョコ」のニックネームは入団直後のバレンタインデーで大量のチョコレートが贈られたことが由来で本人によれば「約1500個」[7]だという[8]。プロ入り後、ロッテ時代にはこの「チョコ」というニックネームとかけて自身のナックルボールを「チョコボール」と自ら命名していた[9]

ロッテ時代[編集]

高卒新人ながら1年目(1989年)から一軍で17試合、先発では7試合に登板。安定感を欠いたがプロ初勝利を含む2勝を挙げた。1990年からは園川一美小宮山悟伊良部秀輝らとロッテの先発ローテーション投手として活躍し、西武ライオンズの主砲・清原和博と幾度となく勝負を演じた。なお清原とは後々同僚となる。

ロッテ時代はチームの低迷もあり、年間8-9の勝ち星に対し12-14の負け星といった成績で、5年連続2桁黒星を記録。9勝は2度あったが2桁勝利は果たせなかった。

引退後の前田曰く、実は入団1年目の春季キャンプで左肩を痛めてしまったという。しかも本人は「肩を痛めていることを球団に知られたら二軍に落とされてしまう」ことを危惧し、左肩痛の事実をトレーナーに報告せず隠し通してしまった。このため適切な処置を受けられなかったことから慢性化し、引退まで長きにわたって苦しめられた[7]

1990年は中継ぎでの登板もあったことから、33試合と登板8勝13敗2セーブ、防御率3.99の成績を残した。また8完投を記録し、規定投球回到達を果たした。

1991年も前年同等の起用法がなされ、登板数は30試合に達した。8勝11敗2セーブ、防御率3.86と前年とさほど変化は見られなかったが、完投数は10に達した。

1992年からチームの本拠地が千葉マリンスタジアムへ移転。この年は1992年のオールスターゲームに出場し、第1戦(千葉マリンスタジアム)に先発した。同年はプロ入り最多の9勝を挙げ、2年連続で10完投を記録したが負け数は14だった。

1993年も9月12日の対オリックス戦で9勝目を挙げたが残り4試合の登板で勝てず自身初の2桁勝利は叶わなかった。防御率も4点台と悪化した。

1994年は調子を落とし、23試合に登板したものの先発での登板は18試合に留まった。最終的に4勝10敗、防御率6.20でシーズンを終えた。

1995年には新監督にボビー・バレンタインが就任。しかし、調子が上向くことなく17試合で3勝6敗、防御率5.10の成績でシーズンを終えた。チームは2位と躍進したものの、自身はほとんど貢献できなかった。同年オフには仁村徹酒井忠晴山本保司との3対3の大型トレード平沼定晴樋口一紀とともに星野仙一が監督復帰した中日ドラゴンズへ移籍[10]。中日移籍直後の背番号は31[11]

中日時代[編集]

1996年は開幕2戦目の先発に抜擢され足の故障で途中離脱したが先発ローテーションの一角としてプロ初の勝ち越しを記録。最終成績は7勝4敗、防御率4.21だった。

1997年はチームの本拠地がナゴヤドームへ移転。この年も開幕からローテーションに加わったものの2勝13敗と大幅に負け越した。

1998年は背番号を18に変更し、さらに自身の希望から中継ぎ投手へ転向した[12]。これが功を奏し[13]、36試合に登板して初の防御率2点台を記録。同年オフには福岡ダイエーホークスからフリーエージェント (FA) の権を行使して移籍加入した武田一浩に背番号18を譲り29へ変更された[14]

1999年にはチーム事情から2年ぶりの先発を任されることもあった。25試合に登板し、この年も防御率2.63と安定感ある投球を見せ、リーグ優勝に貢献。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦の1試合に登板した。

2000年9月24日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)に先発。この試合に中日が負けると巨人がリーグ優勝する試合であったが、上原浩治槙原寛己木村龍治平松一宏と投げ合い8回まで被安打5・無四球無失点、しかし9回裏に先頭・元木大介高橋由伸に連打を打たれ降板。リリーフしたエディ・ギャラードが打ち込まれ、巨人に4年ぶりのリーグ優勝を決められた。同年は41試合を投げ、先発登板は12試合。5勝4敗、防御率3.78と調子を落とした。

2001年の前半戦は先発投手を任されていたが不調により後半戦から再び中継ぎ投手に転向した。最終的に36試合の登板で4勝10敗、防御率3.41と精彩を欠いた成績でシーズンを終えた。なお星野はこの年限りで監督を辞任。一方、前田は山田久志投手コーチと反りが合わず[15]、オフに翌年の中日監督に山田が決定したこと、また契約更改において当初提示されていた年俸から突如下げられたことに不信感を抱き、11月22日には読売ジャイアンツへのFA移籍が発表された[16]。この際、人的補償として平松一宏が巨人から中日へ移籍した。

巨人時代[編集]

移籍1年目の2002年は自己最多の53試合に登板。防御率2.74の成績を残し、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。日本一を経験したのはこれが自身初だった。

2003年は50試合に登板。一時的に抑えを務めたこともあり3セーブを挙げ、防御率3.15を残した。

2004年9月26日に通算500試合登板を達成し、勝利投手にもなった。この年は44試合に登板し、防御率2.38。

2005年には史上11人目となる1イニング4奪三振を記録。この年は50試合に登板も、勝敗とセーブは一つも付かず防御率は4点台だった。チームも1997年以来8年ぶりのBクラス(5位)という不本意なシーズンとなった。

2006年は28試合の登板に留まり防御率7.23に終わった。

2007年は育成から支配下に昇格した山口鉄也の台頭で15試合の登板に留まった。10月30日、国内でやり残したことはないとの理由から、メジャーリーグ挑戦のため球団への退団申請が了承され、11月30日に自由契約公示された。

MLB時代[編集]

11月12日にSFXベースボールジャパン社と代理人契約を結ぶと1月26日に渡米。28日に10球団を招いて合同トライアウトを実施している。

2008年テキサス・レンジャーズとマイナー契約。3Aオクラホマでは36試合に登板して5勝3敗、防御率4.55の成績を記録したがメジャー昇格は果たせず、12月3日に現役引退を表明した。

引退後[編集]

現在はニッポン放送九州朝日放送における関東地区でのビジター試合中継の野球解説者タレントをはじめ、企業主催の講演会や母校・福岡第一高校の系列大学である日本経済大学で教壇に立つなど幅広い活動を展開している。2011年8月から10月にかけて東京スポーツ紙上で集中連載「流浪の左腕 前田幸長 細く長く」を執筆し、自らの半生を振り返った。また、少年野球チーム・都筑ジャイアンツボーイズ(中学生)と2008年に都筑中央ボーイズ(小学生)を2000万で設立し会長を務めている[17]。「プロからのコーチの要請も3回くらい来ましたし、大学や高校からも依頼が来ましたけど、『うーん、やらない』って。全部断りました。興味がない訳ではないんですが、来てくれる子どもたちに必要とされる人間であることが、最優先ですから」[17]と述べている。

2020年4月には自身のYouTubeチャンネル「前田幸長のチョコチャンネル」を開設。新型コロナウイルス感染拡大による甲子園中止を受け、「コロナ禍で苦しむ球児に希望を与えたい」[18]YouTubeを通して野球の知識や技術についての配信を行っている。

プレースタイル[編集]

現役時代はクイックモーションの名手として知られ、通常のクイックよりも更に素早い動作で投球することから「スーパークイック」の使い手と称されていた[19]。一般的にプロ野球選手(投手)がクイックで捕手に投げ終わるまでのタイムは約1.2秒とされるが、前田は最速0.99秒と驚異的な速さで投げ終えることができた[19]。また、クイックでの投球は通常時より動作が小さくなるため球威が大幅に落ちる投手が大半である中、前田は逆に「クイックで投げていた時の方が(通常時よりも)球威が増していた」と振り返り、工藤公康にも同様のことを言われたという[19]。また、打者もタイミングが取りづらいことから、関川浩一のアドバイスでランナーなしの場面でもクイックを投げるようになった。他にも「(スーパークイックで)盗塁されたことはほとんどなく、ほぼ打者に集中できた」「スーパークイックを投げてる場面でランナーが動いているのを見たことがない」などと述懐し、通常のクイックよりも素早く、球威も衰えない「スーパークイック」は相手ランナーの脅威となっていたことがうかがえる[19]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1989 ロッテ 17 7 0 0 0 2 3 0 -- .400 165 36.1 43 7 22 0 1 31 3 2 29 28 6.94 1.79
1990 33 20 8 1 1 8 13 2 -- .381 697 167.0 162 19 51 3 4 130 12 0 79 74 3.99 1.28
1991 30 22 10 1 1 8 11 2 -- .421 699 163.1 145 30 72 4 5 130 10 0 79 70 3.86 1.33
1992 28 26 10 2 0 9 14 0 -- .391 751 173.0 151 20 86 2 1 158 12 0 82 76 3.95 1.37
1993 27 26 6 0 1 9 12 0 -- .429 736 171.1 176 21 68 0 2 100 6 0 85 79 4.15 1.42
1994 23 18 0 0 0 4 10 0 -- .286 467 103.0 114 14 55 1 3 59 9 0 76 71 6.20 1.64
1995 17 9 0 0 0 3 6 0 -- .333 265 60.0 61 11 24 2 0 49 6 0 34 34 5.10 1.42
1996 中日 17 13 1 0 0 7 4 0 -- .636 328 77.0 73 9 22 2 0 55 4 0 44 36 4.21 1.23
1997 25 18 0 0 0 2 13 0 -- .133 448 101.1 112 11 37 4 3 91 2 0 59 57 5.06 1.47
1998 36 0 0 0 0 4 2 0 -- .667 176 42.1 43 2 11 1 0 34 1 1 11 11 2.34 1.28
1999 25 4 0 0 0 2 0 1 -- 1.000 145 37.2 26 5 10 3 1 34 2 0 12 11 2.63 0.96
2000 41 12 0 0 0 5 4 0 -- .556 392 97.2 82 10 18 1 2 71 2 0 46 41 3.78 1.02
2001 36 13 1 0 0 4 10 0 -- .286 430 103.0 98 10 26 4 0 81 6 0 39 39 3.41 1.20
2002 巨人 53 0 0 0 0 4 4 1 -- .500 188 46.0 47 4 6 3 2 43 2 0 17 14 2.74 1.15
2003 50 0 0 0 0 5 2 3 -- .714 236 60.0 49 4 7 2 1 49 3 0 22 21 3.15 0.93
2004 44 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 170 41.2 43 3 2 0 2 48 1 0 13 11 2.38 1.08
2005 50 0 0 0 0 0 0 0 9 ---- 269 62.0 67 9 18 6 1 58 2 0 35 32 4.65 1.37
2006 28 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 100 23.2 32 4 3 0 0 15 1 0 19 19 7.23 1.48
2007 15 0 0 0 0 0 1 0 1 .000 51 10.2 20 2 1 0 0 5 0 0 6 6 5.06 1.97
通算:19年 595 188 36 4 3 78 110 9 12 .415 6713 1577.0 1544 195 539 38 28 1241 84 3 787 730 4.17 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 11(1989年 - 1995年)
  • 31(1996年 - 1997年)
  • 18(1998年)
  • 29(1999年 - 2007年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

KBCテレビ
  • スーパーベースボール - 解説(関東圏在住のためホームゲームは福岡に出張して出演。年度によってはKBCテレビへ出演しない場合もある。2023年はラジオのビジター開催週末デーゲーム中継の縮小にともなう補填のため、KBCテレビが自社制作した関東圏での試合には出演)
KBCラジオ
  • KBCホークスナイター/KBCダイナミックホークス - 解説(主に関東・東北地方のビジターゲーム担当だが、過去には福岡に出張してのホームゲーム担当もあった)
ニッポン放送
文化放送
  • ニッポン放送との契約上、2015年度以降「文化放送ホームランナイター」など本番カードへの出演はない。ソフトバンクの関東圏でのビジターゲーム(対ロッテ戦中心)や東京ドームでの主催ゲームなどで、KBCへの裏送りかつ文化放送の本番へ昇格する可能性がない中継(東京ドームの対日本ハム戦で「STVファイターズLIVE」、対楽天戦で「TBCパワフルベースボール」にネットされる場合はあり)に限定して出演。
ラジオ日本
  • 前田幸長のサンデースポーツマガジン - メインパーソナリティ
  • ラジオ日本ジャイアンツナイター - 2014年までゲスト解説
  • 准教授、前田幸長のチョコゼミ - メインパーソナリティー
TOKYO MX
J SPORTS
フジテレビONE
日本テレビ
ABEMA TV

書籍[編集]

  • 前田幸長史上最速のスーパークイック - 名手に学ぶプロフェッショナル野球論(ベースボールマガジン社、2012年1月1日)ISBN 978-4583104416
  • 少年野球 - 基本とレベルアップ練習法(日本文芸社、2012年6月1日)ISBN 978-4537210125 - ※監修

脚注[編集]

  1. ^ 東京スポーツ・2011年8月16日付「細く長く」〈連載9〉
  2. ^ 前田 幸長 - ヒーローインタビュー」『中高生部活応援マガジン ヒーローインタビュー』株式会社HIEROPHANT、2005年。2017年5月9日閲覧。オリジナルの2017年5月9日時点におけるアーカイブ。
  3. ^ 東京スポーツ・2011年8月25日付「細く長く」
  4. ^ ドラフト1位の元投手が、今だから語る「ドライチ裏工作」秘史(田崎 健太)”. 現代ビジネス (2017年11月8日). 2024年1月13日閲覧。
  5. ^ OBが語るドラフト思い出話〜前田幸長編〜「ドラフト当日、授業中に教室に教頭先生が来て…」。 OBTV
  6. ^ 前田幸長、ドラフト1位の肖像#4――笑顔なき記者会見「なんでロッテなんだ、西武は何をやっているんだ」”. ベースボールチャンネル (2020年4月18日). 2024年1月13日閲覧。
  7. ^ a b 東京スポーツ・2011年8月30日付「細く長く」
  8. ^ 元ロッテ前田幸長氏が振り返る“事件” 山積みバレンタインで“チョコ”命名
  9. ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1990年代のプロ野球 Part7 野茂英雄、颯爽デビュー ベースボール・マガジン社.2021年.P64
  10. ^ 「仁村ロッテへ 3対3トレード」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1995年(平成7年)10月31日付朝刊、21面(スポーツ面)。
  11. ^ 『'96プロ野球 12球団全選手百科名鑑』 第20巻第4号(通算:第213号、1996年3月号)、日本スポーツ出版社、1996年3月31日、82頁。 
  12. ^ 『'98プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社〈日刊スポーツグラフ〉、1998年4月18日、55頁。ISBN 978-4817205421 
  13. ^ 1999年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  14. ^ 中日スポーツ』1998年11月30日第5版2頁「武田背番号18内定 前田から譲渡」(中日新聞社
  15. ^ 東京スポーツ・2011年9月23日付「細く長く」
  16. ^ 想定外だった巨人へのFA移籍。前田幸長に決断させた「監督」「お金」問題”. web Sportiva (2020年12月25日). 2020年12月25日閲覧。
  17. ^ a b 罵声暴言酷いなら「自分でチーム作ろう」 投じた2000万円…野球少年に“寄り添う”元G投手”. Full-Count. 2024年1月13日閲覧。
  18. ^ 前田幸長のチョコチャンネル・【前田幸長】夏の甲子園への想い 「球児の夢を守りたい」
  19. ^ a b c d 【超有料級】前田幸長 伝説のスーパークイック【前田幸長】【鈴木尚広】【ピッチング】

関連項目[編集]

外部リンク[編集]