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箴言集

貴族は民衆を押さえ付けることを望むのに対して、民衆は抑圧されないことだけを望む。

ニッコロ・マキャヴェッリ君主論』第9章


人間というものは、自分が恐れている相手よりも、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけようとする。

『君主論』第15章


人間というものは、一般に恩知らずであり、移り気であり、空惚け、隠し立てをし、危険を感じればさっさと逃げ出し、儲けることにかけては貪欲である。

『君主論』第17章


人はやむをえない状況から善人になっているだけであって、いずれあなたに対して、邪悪な正体を現わすだろう。

『君主論』第23章


「猫かぶりで、嫉妬深くて、横柄で、手練手管にたけていて、気ちがい染みた信心家、これが女です。陰険で、浮気で、残酷で横暴、これが亭主です。要するに地上の人間というのは、みんなそんなものです。奥さん、無いものねだりは止めましょう」

「それでも結婚しないひとはありませんわ」

「そのとおり、つまり馬鹿者か、のらくら者が結婚するのです。ある哲学者が言いました。『人間は自分が何をしているのか分からないときか、さもなければ、もう他にすることがないとき以外はけっして結婚しない』とね」

「それじゃ人類なんぞ滅ぼしてしまった方がよろしいのでしょうか?」

「もちろんできればね。しかし、毒液しか出さない植物はなかなか根絶やしにはならないものです」

マルキ・ド・サド『悲惨物語』


人間とは何だろうか?人間と植物の間、人間と自然界のすべての動物との間にはどのような違いがあるのだろうか?明らかにいかなる相違もないのだ。人間は動物と同じようにたまたまこの地球上に生まれ、繁殖し、成長し、衰えてゆくのだ。人間も動物と同じように、自然界が人間と諸動物の器官の構造に応じて、それぞれの種に割り当てた生命の期間が過ぎると間違いなく虚無の中に消えて行くのだ。だからもし、人間と動物との間のそうした類似が寸分の違いもなく、哲学者の眼識をもってしてもどのような相違をも認めることが不可能であるとしたら、動物を殺すのは人間を殺すとの全く等しい悪事であるか、あるいはどちらの場合も少しも悪事ではないか、そのどちらかなのだ。人間と動物の違いがあるとすれば、それは我々の自尊心という偏見の中にあるのだ。しかも残念なことに、自尊心という偏見ほど馬鹿馬鹿しいものはないのだ。

マルキ・ド・サド『閨房の哲学』


私は、基本的に人間というのは、いいかげんで適当で間抜けな存在だと考えています。だからこそ人間という生き物は面白いのです。(中略)「人間いいかげん史観」によって歴史を見ないから、多くの歴史家や有識者が歴史認識を誤り、互いの解釈をめぐってギクシャクするのです。「新しい歴史教科書」問題もそうです。擁護派、反対派、両者ともに頭が偏見で凝り固まっています。彼らは、昔の日本人を偉人か犯罪者のいずれかに決め付けようとして争っているのですが、なんともバカげた論争です。どちらでもありません。昔も今も人間は等しくいいかげんなのです。


時代によって悪役は本→映画→テレビと移り変わります。要するに人間はいつの時代にも、娯楽を社会が悪くなったことの原因としてスケープゴート(責任転嫁用の身代わり)にしているというだけのことです。いまだったらさしずめその役目は、テレビゲームやインターネット、携帯電話あたりが担うわけです。「世の中が悪くなったのはオレ以外の誰か(オレには興味のない何か)のせいだ!」という自己中心的な考え方は、人類の文明と共にあるのです。弥生人の勢力が拡大していたころ、追いつめられた縄文人たちはきっと「世の中が悪くなったのは稲作のせいだ!」と思っていたことでしょう。


「自立」している人など、どこにもいやしません。世界中の誰もが誰かに依存して成り立っているのが現代社会です。他人に迷惑をかけずに生きることなどできません。自立の鬼は、自立という幻想を食らって太る妖怪です。

パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座


人は合理的な動物だけれど、生まれながらに筋道を立てて考える動物ではない。単純で明快な思考には、ある種の厳しさが要求される。それは一種のスキルであって、すべてのスキルと同じく、身につけるには練習と努力が必要だ。(中略)たとえば、人は、次のような傾向を持っている。

(1)自分の「信じたい」ことを信じる
(2)自分の偏見や経験を、色んなことに当てはめる
(3)たった1回の出来事を一般化する
(4)問題を分析している途中で感情的になり、自分の個人的な感情を、客観性より優先する
(5)人の話を聞くのが苦手。話の一部しか耳に入らない。自分の聞きたい部分だけ聞いている
(6)後づけで理屈をつけて正当化したがる
(7)関係あることと関係ないことを、区別できない
(8)目の前の問題から、すぐに注意がそれてしまう
(9)ある問題のもたらす結果を、十分に検討しようとしない。単純化しすぎる
(10)外見で判断しがち。見たものを誤解し、判断をひどくまちがえる
(11)そもそも、自分が何の話をしているのかわかっていない
これは特に、広くいろんなテーマを議論しあう場合に成り立つ。人は口を開く前によく考えることはまずなくて、自分の感情、偏見、先入観、好み、嗜好、希望、不満を、慎重な考えより優先する。
(12)一貫した基準で行動することはほとんどない。根拠をきちんと検討してから結論を出すこともまずない
むしろ人は、やりたいことをやり、信じたいことを信じ、その後に、自分の行動や信念を裏付ける証拠を手当たり次第に見つけてくる。思考も恣意的だ。身の回りで起きていることを判断するにも、自分の考えにあう証拠をいっしょうけんめい探して、あわない証拠は必死で無視する。
(13)言ったとおりのことを考えていないし、考えたとおりのことを言わない


こういう言い方をすると、ずいぶん偏見があるように思えるかもしれない。そんな意図はない。こういう人に対して、批判したり判決を下したりするつもりもない。ここで言いたいのは、人は本来、客観的というよりは主観的だし、訓練を受けていない人は、普通はいちばん抵抗の少ない道を歩きたがる、というだけのこと。

そして、いちばん抵抗の少ない道が、きちんとした理詰めの道であることはほとんどないのだ。

ロバート・J・グーラ『論理で人を騙す法』

外部リンク

現在の時間 2024年4月27日 02:21 (UTC)。