利用者‐会話:奈良たかし

御返事[編集]

竹取物語 投稿について 学問的には『日本説話小事典』の「竹取物語」に三浦佑之がまとめられたもの以上はないと思います。私も30年ほど前『万葉集』巻十六の第三七九一歌の「竹取の翁」が天女と契りを結んだ長歌との関連が発表された以降は聞いたことがない。これは関係者のただの宣伝だと思うのですが。書籍・論文があるというのなら提示してください。--奈良たかし(会話) 2013年8月16日 (金) 09:55 (UTC)

 大変失礼ですが、上記しかご存じない方が権限を持ってウィキペディア左右していることに大変疑問を持ちます。 ウィキペディアのレベルが、この様な所にあらわれている証拠ですね。 「注」をもっと入れることは可能です。努力しましょう。しかし、日本の学会が閉鎖的な一部の人達による一過性の分野「東大・京大…」だけでは、ウィキペディアの発展が望めないでしょうね。考古学、文献学、地名学、語源学の権威と言われている学長や名誉教授を2つもお持ちの先生方が京田辺へ赴き講演会やシンポジウムで「間違いないなく京田辺を舞台として竹取物語が出来た」と述べておられるわけです。現在教科書に掲載されている日本の歴史は、一部の出版社やマスコミ、学会の人達により偏向した歴史認識しか扱われないのが実情です。  竹取物語についての書き方、投稿の仕方に対して言われるのであれよいが、内容について貴方のような低レベル内容の議論では話にならないですね。図書館や本屋さんに言って調べてから意見を述べて下さい。2013.8.19 07.42記入

あなたの御便りを拝見いたしました。[編集]

戦国時代 (日本)の件ですが、現時点では「独自研究かも知れない」という可能性がある段階でしかなく、独自研究であると決め付けるのもいかがかと思われます。削除を行うよりもまず出典を求めるなどの対処があったと思われます。「何の反応もなく17時間経過したため」削除したとありますが、丸一日パソコンを開かなければそれだけで24時間経過してしまう訳で、当該IPユーザーの履歴を見た限りでは会話ページを開いた時には既にあなたの2度目のコメントが書かれていた可能性も考えられ、結果的には相手から見た場合には無警告で削除されたのと同じになってしまい、怒るのもある意味では一理あると考えられます。

参考:

  • IP氏の3月3日最後の書き込み:2008年3月3日 (月) 02:13 (UTC)
  • 奈良氏の最初のコメント:2008年3月3日 (月) 06:44 (UTC)
  • 奈良氏の削除のコメント:2008年3月4日 (火) 00:50 (UTC)
  • IP氏のリバート:2008年3月4日 (火) 02:51 (UTC)

こうした場合には、相手側から出典が出される可能性を考慮して少なくても1週間とか10日くらいは待って相手側の対応を見守ってからでも遅くはなかったかと思われます。また、戦国時代はその項目の性格上、大勢の人が閲覧・編集する可能性があり、瑣末な事が編集合戦などに発展する恐れもありえます。

今回の場合、相手に出典を求める一方で、ノート:戦国時代 (日本)においてこの記述についての疑問点に関する質問を行い、更にWikipedia:コメント依頼#議論活性化のためのコメントでコメントを求める位の慎重な対応をした方が良かったのではないか? と思われます(もしかしたら、他の方でIP氏の主張の典拠をご存知の方がいるかも知れません)。

あと、これだけは念を押させて貰いますが、やはり相手の編集履歴などを見て(あなたのコメント後に編集履歴があれば、相手は必ずあなたのコメントを読んでいる事になる筈です)コメントを確実に読んでいるかも確認できないうちに「たった17時間」で削除してしまったというのは、相手の編集が独自研究であろうとなかろうと、結果的にあなたがIP氏に失礼な振舞いを行ってしまったことになってしまい(勿論、あなたにそのつもりはなかったのだと思いますが)、Wikipedia:礼儀を忘れないから見て適切でなかったと考えます。従って、今後あなたが相手に出典を求める場合にも、まず最初に削除の件は謝られるべきであると考えます。

私の御回答にご不満な部分もおありではないかと思いますが、私はウィキペディアは大勢の人が共同で行っていくプロジェクトである以上、相手に対する気遣いや配慮を行うことも忘れてはいけないと考えます。

余談ですが、「独自研究」を理由として削除依頼が出せるのは記事全体が「独自研究」である可能性が高い場合であり、本件の場合は後から追加された一部分に「独自研究」の可能性があるに過ぎない状態ですので、編集による対応が望まれると思われます。--水野白楓 2008年3月4日 (火) 11:06 (UTC)[返信]

とりあえずお返事[編集]

ウィキメール拝読いたしましたが、元のメールアドレスを秘匿した転送サービスからのメールの様でしたので、お返事は差し上げられませんので悪しからずご了承下さい。

なお、内容はWikipediaの方針に関する事であり公の場で対話する事に不都合のある内容ではないと思いますので、今後同じ内容のご意見をお寄せ頂く際は私の会話ページへお願いします。

以上、用件のみにて失礼いたします。--Szk7788会話2012年12月6日 (木) 17:36 (UTC)[返信]

奈良小1女児殺害事件について[編集]

この事件については思う所は色々あるんですが、Wikipedia:削除の方針の『ケース B-2「犯罪の被疑者名または被告名または元被告名」』に該当しまので実名記載はお控えください。--あな34(須魔寺横行)会話2013年2月21日 (木) 12:14 (UTC)[返信]

下書きとして制作されたページのカテゴリについて[編集]

記事作成時の要約欄への新規作成を意味する記述について[編集]

始めまして。ディークエステンと申す者です。

奈良たかしさんは記事の作成時に、要約欄に新規作成を意味する記述を記事によって全く統一せずにしていますが、これでは新しいページからご覧になった際に、作成された記事がどのような記事なのか、実際に記事を見ないと分からなくなってしまいます。

特に奈良たかしさんが作成されたイスラム国ISIS 日本人拘束事件(現:ISILによる日本人拘束事件)の記事作成時の要約欄にページ新設とあったのは記事の性質と内容からして不謹慎ではないでしょうか?

また、奈良たかしさんの投稿記録において、新規作成であることを示す太字のNが付けられる為、そのような記述をする意味は全くありません。

よろしければ記事作成時の要約欄にこう書けば、新しいページからご覧になった際に、このような記事であると分かってもらえるでしょう。

何も書かない(この場合、記事作成時の要約欄にテンプレート内容を含めた記事冒頭が表示されます)
奈良たかしさんが作成された王妃マルゴかくかくしかじかのように、どのような分野の記事なのか、作成する記事に関連した記事の簡単な詳細を記入する
奈良たかしさんが作成された平城宮跡保存運動の初版のような初版の状況を含めた要約欄記述も有用

新規作成時の要約欄記述に関しては詳細なルールは特に定められていませんが、気になったのでお伝えします。--ディークエステン会話2016年9月17日 (土) 20:19 (UTC)[返信]

ノートは掲示板ではないのですから、個人的な要求や批評を書かないでください。そういうことをするのは実社会でおかしいことだと思いませんか。迷惑です。自分で基準などおかしいと思うのなら改正の提案をしてください。--奈良たかし会話2016年9月19日 (月) 14:58 (UTC)[返信]

松平信康における『總見記』について[編集]

「史料価値がないということを全研究者が認めている」点についての出典をお願いします。なお、当該部分の記述を行ったのは私ではありません。単純に、一個人であるあなたが、「全研究者の見解」をなぜご存知なのか、が気になっただけです。よろしくお願いします。--Alexander Poskrebyshev会話2019年3月24日 (日) 14:09 (UTC)[返信]

単なる「要約文」のつまらない言葉の揚げ足取りに出典を必要とするのでしょうか。まあ、そっけないのも何なので『検証 本能寺の変』 谷口克広』「そのまま信じてはいけない史料」として『総見記』、『明智軍記』を上げています。それと藤本正行氏の研究では明治22年 - 大正13年陸軍参謀本部「日本戦史シリーズ」に、『総見記』などが「大変低いレベルなのに」取り上げられ、戦国史研究が「擬古物語」に強引に娯楽として書かれた軍記物や軍団を取り入れ(この言葉自体は高橋昌明『武士の日本史』p.228-229)大きく歪められてしまい太平洋戦争後に高柳光壽氏らは「戦国史」実証研究を目指して苦闘されたそうです。それで30名ほどの研究者の書200冊を読んでもまるで引用参照されないし、歴史学会では、よほど問題になる本だなと思った次第。いまのところ資料としていると公言されたのは小説家の藤沢周平氏の作品に対してだけでした。今の戦国史もまだ「長篠の戦い」など悪影響が残っているそうですが。逆に使用していいというのならそう表明している専門研究者の見解を示してください。とにかく熾烈に忙しいので、これ以上の記述はエネルギーや手間が惜しいので、ご容赦。--奈良たかし会話2019年3月26日 (火) 13:11 (UTC)[返信]
あなたが「揚げ足取り」としか受け取っておられない、誠意のない利用者である事だけはよく伝わってきました。なお私は「使ってもいい」などとは考えておりません。ついでに申しますと、谷口克広さんは中公新書でも複数の著書がある方ではありますが、アカデミズム界の人物ではなく、一介の在野の素人歴史研究者に過ぎないと(私は)思っています。そうした方の文章を出典にすることは、少なくとも私ならしません。それはそうと、熾烈に(猛烈に?)忙しいのならば、wikipediaの編集などにかまけておらず、本業のほうに専念されるべきではないでしょうか。くどいようですが、私が疑問に思っているのは「一個人であるあなたが、『全研究者の見解』をなぜご存知なのか」であって、当該記述の可否ではありません。あなたが「全研究者の見解」を提示できないのならば、そのような文章表現は一切使うべきではありません。そうしたことに気を配らない方であることは理解しました。--Alexander Poskrebyshev会話2019年3月26日 (火) 15:44 (UTC)[返信]

明智光秀での信頼性要検証タグ貼り付けにつき[編集]

始めまして。標記の件についてノート:明智光秀#「細川ガラシャ展」展覧会図録につきをご確認いただくようお願いいたします。--Rasalghul会話2019年5月10日 (金) 12:06 (UTC)[返信]

ノート確認して対応しました--奈良たかし会話2019年5月10日 (金) 13:29 (UTC)[返信]

松永貞徳のノートを拝見しました[編集]

はじめまして。ノート:松永貞徳での「永種が久秀の子とする説」へのご意見を拝見した上、出自に関する部分を冒頭部から別に節を立てる形で移動・整理しました。一度ご確認ください。お願いでありますが、永種の祖母は久秀の「大おば」でありましょうか「おば」でありましょうか。金松誠氏の出典を拝見していないので手が付けられないのですが、ご訂正をお願いいたしたく存じます。--桂鷺淵会話2019年9月24日 (火) 13:21 (UTC)[返信]

今、この記述を見つけました。実はリアル仕事で忙しく、確認するゆとりがありませんので、10月に入ればましになると思いますのでそれまでお待ちください。久秀の関係もその時から本の系図を確認します。--奈良たかし会話2019年9月28日 (土) 06:18 (UTC)[返信]

表記ガイドを無視する行為について[編集]

Wikipedia:井戸端/subj/井真成の編集に関する一件」にて、奈良たかし氏のガイドラインを無視した行為について議論が行われています。当然ご承知のこととは思いますが、念のためこちらにもご連絡をしておきます。--126.151.63.17 2019年11月10日 (日) 04:59 (UTC)[返信]

井真成の記事でしたら、そちらこそ、ノートでコミュニティとして話し合う原則を無視した行為ですので、ノートで項目を立ち上げて、してください。--奈良たかし会話2019年11月24日 (日) 08:34 (UTC)[返信]

宮島の鹿について[編集]

あなたの奈良の鹿この編集において、「宮島のシカは奈良から移入して当初市街地での同様の形を目指したが失敗し、島にすべて移した」と本の内容を引用して書いておられますが、[1]の1.概要1-1に、(10年前のデータですが)「宮島のシカは,全島で450~500 個体,市街地には約200 個体が生息していると推定されている。」とあります。おそらくあなたが「市街地」の言葉を誤解しておられるのではないかと思います。宮島の鹿は、ごく少数の例外を除き宮島島内にしかおらず、対岸の本州側にはおりません。「市街地」がさしているのは、島内の土産物屋やホテルが並び、厳島神社等へと向かう道や、住宅街のある所だと思います。利用した本に本土側から移したとあるのならそれは間違いだと思います。精査をよろしくお願いします。--Gahukuro会話2020年5月5日 (火) 03:02 (UTC)[返信]

ご足労をおかけします。「宮島地域シカ保護管理ガイドライン平成20年9月 廿日市市」は今の宮島の鹿の管理方針です。しかし宮島の鹿が奈良から移入させた鹿であることは有名で、奈良でも聞いています。また過去の他の本にも書いていましたし、現在、宮島にいることも、そこが市街地ではないことも知っています。別にガイドラインに「市街地」とあるから誤解して市街地と書いたわけではありません。本来宮島の鹿のことは奈良の鹿のことではなく、書く必要はなかったので面倒をおかけする必要もなかったのです。しかし、5月4日に、地理的な感覚のない宮島が市街地とではないことを知らないIP編集者が、「今も宮島で市街地で鹿が共存している」からと違反となる「市街地に野生の鹿が人と共存している場所は奈良以外にはない。」記事の隠し編集を行ったので取り消しました。また同様のことが起きると困るので宮島の鹿のことを出典に基づき、念のため、奈良の鹿以外のことなので長文を避ける形で注釈として記述したのです。最初奈良から移入して奈良のように対岸にある市街地に放してみたが、うまく奈良のように共存できず、短期間で鹿を今のような宮島に再度移したと、出典書籍に記述されていたので、wikipediaの原則に従い記述しました。誤解されているようですがwikipediaは正しいかどうかを争うのではなくそれが信頼できる情報源に基づき記述され、そして検証可能なのかどうかなのです。この記述が間違いだと言われるのなら、両論併記の原則に従い、宮島の鹿の歴史を調べ、信頼できる情報源に基づき、違うと、書いていただけたらありがたいです。--奈良たかし会話2020年5月5日 (火) 04:23 (UTC)[返信]
    • 確認ですが「最初奈良から移入して奈良のように対岸にある市街地に放してみたが、うまく奈良のように共存できず、短期間で鹿を今のような宮島に再度移した」と書いてあるのは奈良の鹿にも書いてある田中淳夫著『鹿と日本人 - 野生との共生 100年の知恵』築地書館、2018年。ISBN 978-4-8067-1565-8で間違いないですね?以降、これを基に書いたとして話を進めます。信頼できる情報源や検証可能性が大事なのは言われるまでも無く知っておりますが、著者の田中淳夫は森林学者であり、動物学者、歴史学者ではないという点で今回の「鹿が本州側にいたが」については専門外ではないかと考えます。よって今回の件については、本書は「信頼できる情報源」に当たらないのではないかと考えました。理由としては、私自身が生まれてこの方ほとんどを広島で過ごしていながらも、宮島島内ではなく、本土側に鹿を放したというのを聞いたためしがないこと(これは、見たママを書かないにあたるので証拠にはなりませんが・・・)、さらに、googleなどで検索しても一件も出てこず、ましてや上記の廿日市市のガイドラインにも一言もそのような経緯が書いていない。そういった点から、その本を「信頼できない」と表現しております。ただし、「市街地」という語が奈良のような都市的な市街地という意味でなく「島内の人間の生活空間」という意味で利用されており、「人間による餌やりを控えて島の山奥に住処を移動してもらう」のなら上記ガイドライン等でも触れられておりますし実施されております(つまり、著者が「島」と「山」を書き間違えたのではと思ったわけです)。また、「宮島の鹿が奈良から移入させた鹿であることは有名で、奈良でも聞いています」とのことですが厳島#動物相にもそうったことは出典もなく書かれており、それらについて「常識だ」というのは簡単ですが、信頼できる情報源による出典がいるのはそちらもご存知の通りです。

私としても、あなたと言い争いをしたいわけでなく、その本を読んだことがあり手っ取り早く聞けるであろうと思ってお聞きした次第です。ご気分を悪くされておりましたらご容赦ください。今後、その本を入手する、数週間後に図書館が開いたら調べに行く、廿日市市にメールでそういった資料や本がないか聞き閲覧できるか交渉するなどして、記事に反映できればと考えます。ありがとうございました--Gahukuro会話2020年5月5日 (火) 13:22 (UTC)[返信]

今、手元に本がなかったのでもう一度出典を確認してきました。対岸ではなく宮島の市街地拡大を大昔に想定したようで、宮島内で共存策にシカを餌等で誘導したが共存策がうまくいかず中止した、と書いてありました。島内の話だったのです。すいません、これは誤認でした。それと冒頭の奈良の鹿を移入したというのは厳島神社は認めていないと記述を修正しました。実は、春日大社は、過去には奈良の鹿の所有権を主張していて、昔は鹿島神宮などあちこちに鹿を分けています。ですが、ほとんど定着せず消えました。明治時代末から大正時代にかけて、再開し有償での鹿分配が分かって市民で愛着意識が高まっていて問題になり、実業家が中止を求めて資金寄付をして、中止約束をした。それでも実業家の死後に分配を再開しようとして、住民と紛争になり、要求して止めました。これは紛争を避ける原則に従い、書いていません。春日大社の所有権も第2次鹿害訴訟の中で紛議が多くなり、持ちこたえられなかったようで放棄しました。--奈良たかし会話2020年5月14日 (木) 13:25 (UTC)[返信]

ご返答[編集]

初めまして。東大寺への当方の編集についてのご指摘ありがとうございます。ご指摘いただきました出典の明記については当方の落ち度で、謹んでお詫び申し上げます。 まず結論としては当該編集について巻き戻しをいたしました。しかしながら、編集内容については東大寺境内の案内板や配布パンフレットの内容(すべて2020年6月21日に確認)に即したもので、わたくし個人の独自研究ではないことは明記しておきます。 こうした情報源について、出典を明記するに現地案内板とあることや、一般に入手できる配布物であることから問題ないと思っておりましたが、ご指摘いただいてから再度確認したところ自己公表された情報源である可能性を排除できず、出典として不適当と判断いたしました。また、当該内容について改めて別の出版物などに根拠を求めることは当方の手間を考えると現実的ではなく、こうした経緯で冒頭の記載したとおり、巻き戻しを致しましたことをご報告いたします。

それとは別に貴殿のご指摘についていくつか意見を申し上げます。 まず、転害門の記述について一方的に巻き戻しをされたようですが、このような行為は不適当な対応ではありませんでしょうか?たとえば「Template:要出典範囲」などを使い、出典の明記を促し、然るべき時間を空けたのちに巻き戻しをするほうがよろしかったかと思います。出典が明記されていない事は独自研究と判断する基準の一つとは思いますが、断定することは独善的と感じます。

また、中門堂についても記載するよう促されておりますが、そのような対応を当方に求めることは過剰ではありませんでしょうか?編集方針にあるように「ウィキペディアの方針とガイドラインに反しないものであるならば、不完全な記事を投稿することも歓迎されるべき」であり、複数の記事について整合性を求められることは編集方針に反する行為と思います。なお、中門堂については[2](P84~)などに記載があることを確認しましたので、ご興味がありましたらご確認ください。

また、いくつかの記述について貴殿の知見にそぐわないと指摘されていましたが、複数の説があることは別段おかしな事ではありません。たとえば、一条大路について(当該内容については転害門現地案内板に依ります)、たとえば当方の記述のあとに「とされているが、〇〇の研究では・・・」などと貴殿が追記し併記するのが、中立的な観点にある「ある特定の観点を他方に優先して推進するものではありませんし、ある特定の観点を除外するものでもありません。」に叶う対応ではないでしょうか?転害門語源(当該内容については大仏殿内の案内板に依ります)についても同様です。また、四天王像について法華堂説と中門堂説は必ずしも相反するものではなく、たとえば法華堂にあったものが中門堂に移されのち戒壇堂に移された可能性などもあり、一つの説に固執することは不適当と感じます。なお、中門堂からの移転は東大寺パンフレットの記載によるものですが、当方が入手したものと同じものを公表されているHP[3]がありましたので、ご興味がありましたらこちらでご確認ください。

完璧な記事を目指すのは当然で、出典を明記しなかったのは当方の落ち度ですが、貴殿の知見にそぐわない記載があれば、ご自身が別説を追記すれば良いことで、一方的な巻き戻しや過剰な対応を求めることはお控えいただきたく思います。--あずきごはん会話2020年6月24日 (水) 22:48 (UTC)[返信]

転害門について貴殿が示された『平城京の条坊設定方式について-山中章氏の説に対する批判』を拝読しましたが、論文は「中山氏の説によれば東大寺転害門は一条大路の中心から11mも南にはずれ、しかも東七坊大路の路面上に建つことになる」などを根拠に中山説の見直しを提言しているのであって、転害門と一条大路が11mずれていたという結論には至っていないと理解しますが、いかがでしょうか?--あずきごはん会話2020年6月24日 (水) 23:16 (UTC)[返信]

メールを確認してください。[編集]

奈良たかし様: メールを確認してください。 件名: "The Community Insights survey is coming!" ご不明な点がございましたら、surveys@wikimedia.orgまでメールでお問い合わせください。

(Please check your email! Subject: "The Community Insights survey is coming!" If you have questions, email surveys@wikimedia.org.)

Sorry for the inconvenience, you can read my explanation here.

MediaWiki message delivery会話2020年9月25日 (金) 14:18 (UTC)[返信]

ワトスンの名前についての一部転記[編集]

唇のねじれた男での指摘ありがとうございます。同時に作業しているまだらの紐からの記述移動も一旦元に戻し、ノート:ジョン・H・ワトスン#一部転記提案:ワトスンの結婚、ワトスンの名前にて一部転記提案を行っております。

利用者:奈良たかしさんのご意見も伺いたい(というよりも一度差し戻した以上、意見を聞かずに進めたくない)と思いますので、何なりとご意見いただければと思います。現状維持でも対案でも、歓迎しております。

よろしくお願いいたします。--Tamago915会話2021年2月13日 (土) 05:52 (UTC)[返信]

差分:ノート:ジョン・H・ワトスンにて、改めてのおわびと認識の確認のコメントを入れてから、2日待っております。私としては検討を進めたいところですので、何か返していただければと思います。--Tamago915会話2021年2月15日 (月) 14:04 (UTC)[返信]

2021年ウィキメディア財団選挙の候補者を紹介します[編集]

こんにちは!

2021年ウィキメディア財団選挙が8月に始まります。今年の理事会選挙は、2021年8月4日から17日まで実施されます。ウィキペディア日本語版の編集者を含むウィキメディア・コミュニティのメンバーは、3年の任期で4人の新しい理事を選出する機会があります。理事会選挙の開始に先立ち選挙運動期間が設けられており、この期間中にコミュニティが候補者と顔を合わせる機会があります。

  • ウィキメディア財団における理事会の役割は何ですか?
理事会の簡単な説明はこちらをご覧ください
  • 候補者紹介
今回の選挙には20名の立候補者がいます。候補者についてはこちらをご覧ください

理事選挙をサポートするファシリテーター チームは、選挙運動期間中にいくつかの活動を用意しています。
7月31日(土)の19:30(JST)から、日本を含むアジア・太平洋地域のユーザーが候補者と交流できるオンラインイベントが開催されます。日本語による同時通訳も提供される予定ですので、どうぞお気軽にご参加ください。

こちらのフォームから事前に参加登録をお願いします。
フォームのプライバシーポリシーをご確認ください。

その他の活動については、メタウィキの理事選挙ページをご覧ください。

ご質問がございましたら、ファシリテーター選挙ボランティアまでお問い合わせください。

選挙ボランティア一同 2021年7月24日 (土) 15:04 (UTC)

このお知らせは2021年ウィキメディア財団理事会選挙ボランティアにより作成され、botにより配信されました。 •フィードバック •購読解除

まもなく終了 理事会選挙へ投票のお願い[編集]

奈良たかしさん

こんばんは。お忙しい時間帯に恐れ入ります。

2021年ウィキメディア財団選挙は最終盤に入っております。これまでご協力いただいた皆様、ご投票いただいた皆様に心より御礼申し上げます。

もし奈良たかしさんが投票をお済ませでなければ、ぜひこちらから清き一票をお願いいたします。

ウィキペディア日本語版の運営にも深く関与する理事会の候補者の選出に際し、投票資格をお持ちの数少ないユーザーの一人である奈良たかしさんのご意見を反映することは非常に重要だと考えています。

投票いただくに際し、まず19名の候補者から奈良たかしさんが支持する方をお選びください。 支持する候補者を選んだら、支持する順に候補者の名前を選び、投票ボタンを押すだけです。 所要時間は5分未満で、完全な匿名性が保証されます。

投票は、日本時間の9月1日(水)の朝9時に締め切られます。

ウィキメディア財団の運営にウィキペディア日本語版コミュニティの意見を反映させるために、奈良たかしさんのご協力を重ねてお願い申し上げます。

どうぞよろしくお願いいたします。

--選挙ボランティア一同 2021年8月31日 (火) 11:12 (UTC)

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徳川家康の「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」という記述について[編集]

こんにちわ。徳川家康のページにおける「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」という記述について、
私は過去二度この記述を疑問視し変更を加えましたが、奈良さんは「流浪の戦国貴族 近衛前久」を出典として差し戻しなさいました。
しかし、私が該当の書籍を拝見したところ、上述したような記述は認められませんでした。
このことについてノート:徳川家康にて話題を追加しましたので、そちらでお話をいただければ幸いです。--無水月 2022年12月17日 (土) 12:33 (UTC)[返信]