内藤民治

内藤 民治
Tamiji Naito
生誕 1885年10月28日
新潟県
死没 1965年7月15日
出身校 東京農学校 卒業
職業

ジャーナリスト編集者


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1924年5月11日、モスクワ。写真左、メガネの男性が内藤民治。(ヒューストン美術館蔵)

内藤 民治(ないとう たみじ、1885年10月28日 - 1965年7月15日)は、日本のジャーナリスト編集者である。

人物・来歴[編集]

1885年(明治18年)10月28日新潟県三条市に生まれる[1]。上京し、東京府豊多摩郡渋谷村常磐松御料地(現在の東京都渋谷区渋谷4丁目)にあった東京農学校(現在の東京農業大学)に入学、同校を卒業する[1]

1906年(明治39年)、20歳のころにアメリカ合衆国に渡り、『ニューヨーク・ヘラルド』紙(現在の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙)の特派員となる[1]。11年間の在米中に、東京市神田区駿河台袋町(現在の東京都千代田区神田駿河台)にあった瀬木博尚の主宰する日本風俗図絵刊行会から、『世界実観』シリーズ全12巻を上梓している。1917年(大正6年)に帰国、出版社「中外社」を興し、同年10月1日、総合雑誌中外』(1917年 - 1921年)を創刊、同誌の主幹となる[1]

翌1918年(大正7年)12月、吉野作造らの「黎明会」の設立に協力している[1]。同年ごろ、俳優の上山草人の推薦で、上山の「近代劇協会」の女優・伊沢蘭奢が「中外社」に入社している。翌1919年(大正8年)、上山の渡米で近代劇協会は解散、内藤は畑中蓼坡の劇団「日本新劇協会」の旗揚げを支援し、伊沢も同劇団に入団している[2]。なお、伊沢とは愛人関係にあった。『中外』誌には、伊沢のほか、女性も多く執筆し、伊藤野枝神近市子長谷川時雨、その夫の三上於菟吉後藤新平堤清六山口孤剣堺利彦洋画家斎藤与里などが執筆した。1920年(大正9年)8月、「黎明会」は解散、1921年(大正10年)、『中外』誌を休刊する。

その一方、1919年(大正8年)に日露相扶会を創立し、超党派の立場からソビエトロシア承認運動を推進、後藤新平の意を受けソ連の極東代表アドルフ・ヨッフェを日本に招くなど日ソ国交回復に貢献した。1924年(大正12年)、ソビエト連邦(現在のロシア連邦)に旅立ち、レフ・トロツキーらと交流する。

戦後、日本とソ連、日本と中華人民共和国間の関係の改善に尽力した[1]

1965年(昭和40年)7月15日、死去した[1]。満79歳没。編著に『堤清六の生涯』(曙光会、1937年)がある[1]。内藤の雑誌『中外』は、1988年(昭和63年)5月 - 12月、不二出版が全巻復刻した。

ビブリオグラフィ[編集]

[編集]

  1. ^ a b c d e f g h コトバンクサイト内の記事「内藤民治」の記述を参照。
  2. ^ コトバンクサイト内の記事「伊沢蘭奢」の記述を参照。

外部リンク[編集]