兵頭冽

兵頭 冽
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県
生年月日 (1934-08-09) 1934年8月9日
没年月日 2013年8月
身長
体重
177 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1953年
初出場 1953年
最終出場 1958年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

兵頭 冽(ひょうどう ただし、1934年8月9日 - 2013年8月)は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手

来歴・人物[編集]

八幡浜高校時代に若林忠志のスカウトを受け、1953年毎日オリオンズへ入団[1]。毎日時代は2年間で25試合の出場に留まった。

1955年に同年より若林がコーチに就任したトンボユニオンズに移籍。長身を活かした力強スイングを評価され、春のキャンプでは主力級の扱いを受けた[2]。しかし、兵頭は周囲の期待に応えられず一割台の打率に低迷した。なお、8月2日の毎日戦に「高校時代に投手をやっていたから」との理由で敗戦処理ながら投手として初登板し、無失点に抑える。この起用に対しては、兵頭本人も「まさか本当に登板するとは」と苦笑したという[3]。さらに、10日の西鉄戦も無失点に抑えるが、11日の西鉄戦で2回を6安打6失点と打ち込まれると、以降は投手としての出番はなかった。1956年は130試合に出場するなど出番を増やすが、2年連続で打率一割台に終わり、レギュラー獲得はならなかった。

1957年シーズン前に高橋の解散に伴って、選手が近鉄・東映大映の下位3球団に分配されることになる。ここで、兵頭は競合する正一塁手が既に31歳の武智修であった近鉄パールスに自ら希望して移籍した[4]。近鉄では前半戦こそ出番が少なかったものの、後半は君野健一・武智修を押しのけて一塁手のレギュラーを奪取。シーズンでも一塁手としてチーム最多の72試合に出場するが、打率.152、9打点と打撃は奮わなかった。1958年になると、大映から移籍した加藤晃郎が正一塁手となって、兵頭の出番は極端に減り、同年限りで現役引退した。

引退後は社会人野球でプレーした[5]。2013年8月に死去[6]

野球文化論などに精通する歴史学者の池井優は、小学生時代の同級生だった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1953 毎日 4 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1954 21 31 31 0 3 1 0 0 4 2 0 0 0 0 0 -- 0 13 0 .097 .097 .129 .226
1955 トンボ
高橋
89 98 89 15 17 1 2 0 22 7 3 5 0 1 8 0 0 14 0 .191 .258 .247 .505
1956 130 328 299 32 58 3 7 3 84 16 5 6 2 0 26 0 1 60 1 .194 .261 .281 .542
1957 近鉄 81 186 165 15 25 5 3 0 36 9 6 3 2 2 17 2 0 29 2 .152 .231 .218 .449
1958 8 9 8 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 0 3 0 .000 .111 .000 .111
通算:6年 333 654 594 62 103 10 12 3 146 34 14 15 4 3 52 2 1 119 3 .173 .241 .246 .487
  • トンボ(トンボユニオンズ)は、1956年に高橋(高橋ユニオンズ)に球団名を変更

背番号[編集]

  • 47 (1953年)
  • 26 (1954年)
  • 3 (1955年 - 1956年)
  • 4 (1957年 - 1958年)

脚注[編集]

  1. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』90-91頁
  2. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』91頁
  3. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』99頁
  4. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』199頁
  5. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』253頁
  6. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』252頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]