八王子城

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八王子城
東京都
曳橋(木造復元)と御主殿石垣(一部復元)
曳橋(木造復元)と御主殿石垣(一部復元)
別名 武州八王寺城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 北条氏照
築城年 1587年(天正15年)
主な城主 北条氏照
廃城年 1590年(天正18年)
遺構 石垣、曲輪、御主殿跡、堀切、井戸、竪堀、冠木門、木塀
指定文化財 国の史跡
再建造物 石垣・虎口・引き橋、礎石
位置 北緯35度39分10.56秒 東経139度15分7.61秒 / 北緯35.6529333度 東経139.2521139度 / 35.6529333; 139.2521139座標: 北緯35度39分10.56秒 東経139度15分7.61秒 / 北緯35.6529333度 東経139.2521139度 / 35.6529333; 139.2521139
地図
八王子城の位置(多摩地域内)
八王子城
八王子城
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八王子城(はちおうじじょう)は、東京都八王子市元八王子町にあった日本の城

概要[編集]

八王子城は北条氏の本城である小田原城支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった[1]。標高445 m(比高約240 m)の深沢山(現在の城山)に築城された中世山城である。深沢山の麓、華厳ヶ谷に庵を結んだ華厳菩薩妙行延喜13年(913年)に山頂で修行中、牛頭天王と8人の王子が現れたとして延喜16年(916年)に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。別の説では山王権現を祀る日吉大社の末社である山王社が多摩地区には広く存在しており、深沢山にも山王社があったために日吉大社の神体山にちなんで「八王子山」とも呼ばれていたことから八王子城と名付けられたとする説もある(城跡には今日も「山王台」と呼ばれる場所がある)[2]

縄張りは北浅川南浅川に囲まれた東西約3 km、南北約2 - 3 kmの範囲に及び、山の尾根など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられ、山頂に置かれた本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。要害地区にはいくつものを配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。城全体があまりに広大であったため、落城時には未完成であったという説もあるが、戦国時代のお城は、増築を繰り返していたので一概に言えない。[要出典]

城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった3つの宿場があったと言われている。また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城(案下城)、小田野城の他、初沢城などがあった。

八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には太鼓曲輪尾根の南斜面などの区域が含まれておらず、16世紀当時より狭い範囲に限定されている。史跡に含まれていない区域は霊園私有地が入り組んでいるため、住宅地の中にも多くの遺構を確認することができる。また、御主殿などの木造復元計画は、予算の関係でない。

歴史・沿革[編集]

北条氏康の三男・氏照1571年(元亀2年)より築城し、1587年(天正15年)に本拠とした。ただし、近年の研究では古文書などの分析により、元亀段階には小規模な城砦みたいなものが存在した可能性はあるものの、本格的な築城は1578年(天正6年)とみる説が有力である[3][4][5]。なお、かつては古文書を根拠とした1560年(永禄3年)説・1562年(永禄5年)説もあったが、1569年(永禄12年)に武田氏との間で滝山城の籠城戦が行われているため、今日では否定的である[4]。また、近年滝山城の築城を1563年(永禄6年)以降とする有力説[6][7]があり、この説を採用した場合には永禄年間初頭説では、滝山城より八王子城の方が先に築城されてしまうことになる矛盾が生じるため、その意味でも成立しないとみられる。

氏照は当初、大石氏由井城、後に滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際、(廿里古戦場三増峠の戦い)に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。また、北条氏と武田氏はその後一旦和睦したものの、1578年(天正6年)に始まった御館の乱の対応を巡って甲相同盟が破綻しており、甲斐方面からの軍事的圧力に対抗するために築城した可能性も指摘されている[5]

このとき、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行った。滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較すると、より近世的な戦術を志向している。しかし、氏照が入った時は、御主殿など含む主郭部と一部の主要な要所部分のみ完成しており、氏照が小田原へ援軍へ向かったとしても八王子城は、増築を何度も八王子城合戦の日まで繰り返された。

八王子城合戦[編集]

小田原征伐の一環として1590年7月24日(天正18年6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝前田利家真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵中山勘解由家範近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。

豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の搦め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、搦め手側別働隊の奇襲が成功し、総崩れの状態となり、その日のうちに城は陥落した。氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。こう言われるほど、小田原攻めで他に例を見ない殲滅戦となった。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられ、現代でも受け継がれている風習として、先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(すなわち赤飯)を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている[8]寳生寺が受難者の法要を続けている。

この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。

現代[編集]

1945年昭和20年)ごろは、山頂付近を除く城山一帯が戦時中の木材伐採のため禿山となっていたのが、戦後米軍機の撮影した航空写真(国土交通相保管)に残されている。戦後、ヒノキなどが植林され、現在の状況となった。

1951年(昭和26年)6月9日、国の史跡に指定されて発掘調査や整備が進み、御主殿跡付近の石垣虎口、曳橋などが復元された。

2004年に、城山要害部の西端直下を通る首都圏中央連絡自動車道八王子城跡トンネルが竣工した。

2006年平成18年)4月6日日本100名城(22番)に選定された。

2020年(令和2年) 6月19日、「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」のタイトルで文化庁による日本遺産高尾山とも認定された。滝山城も構成要素として関連史跡として認定された。


史跡[編集]

御主殿跡へ通じる虎口と冠木門
御主殿跡から望む曳橋
御主殿の滝

麓には2012年(平成24年)に完成した八王子城跡ガイダンス施設があり、展示解説スペースのほか、休憩、レクチャースペースがある。八王子城の歴史について掲示され、ゲーム感覚で八王子城の特徴を学習できる設備や、直接手で触れることができる八王子城の小模型やスタンプ台がある。園路を進んだ先には屋根付の大きな八王子城の模型があり、詳細な説明板が付属している。無料で利用することができる見学者専用駐車場やトイレがあり、駐車場は普通車で約30台分のスペースがある。利用時間は午後5時までとなっている。

駐車場の先を100mほど進むと1992年(平成4年)に完成した八王子城跡管理事務所があり、ここにもスタンプ台とトイレが整備されている。ガイダンス施設完成前は唯一の公的有人施設であった。管理事務所では2009年(平成21年)4月よりボランティアによるガイド(無料)が始まっている。当初はガイドの範囲は御主殿跡までであったが、ガイドの人員に余裕があれば、山頂付近の要害部、その最も奧の伝大天守まで利用できる。

山頂付近には、八王子神社などの建物、トイレ、ベンチ等があるが、売店などの有人管理の施設や自動販売機や照明はない。

八王子城址に行くまでに、北条氏照の墓や、私設の八王子城址歴史資料館(有料)がある。

居館地区など、重機が入り易い区域の発掘調査や復元作業は進んでいるが、城山要害部については一部を除いてはほとんど行われておらず、樹木の伐採も行われていない。僅かに残された石垣は土砂崩れや樹木が根こそぎ倒れたことによって失われつつあり、崩落により通行不能となった水平道もある。自然や人の往来による遺構の破壊の他、林道の整備や、登城道(新道)の整備によって、部分的に失われた遺構も多い。

城郭図について[編集]

八王子城の城郭図は 江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」や 西尾市岩瀬文庫所蔵の絵図と旧広島藩主浅野家に伝えられた城絵図集「諸国古城之図」や 鳥羽藩が兵学研究用に収集して保管していた「 日本古城絵図  」、旧日本陸軍築城部が城郭史を編纂すべく大正初期から資料の収集に着手した「 日本城郭史資料」、未だに当時から絵図は見つかっておらず、その全貌は不明な部分が多い。


発掘品[編集]

発掘により、八王子城が畿内で発展した安土桃山時代の新式の城の影響を受け、広い大手道や大きな城門を備えた大がかりなものであったことが明らかになってきた。遺跡からは発掘により五彩磁器皿などの磁器や茶道具香炉ベネチアンガラスなどが出土し、城内の生活をしのばせる。

城山の麓[編集]

  • 御主殿跡
落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため、落城当時のままの状態で保存されていた。発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土した。なお礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま残っている。2012年から地中の遺物のレプリカを地上に設置する整備が行われ、2013年に完成した。庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のものである。
石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復元されている。御主殿入口の冠木門(かぶきもん)は当時の門をイメージして復元された。写真にある冠木門は、老朽化のため2010年に新築されている。
  • 古道と大手の門跡
当時御主殿へ入る道として使われていた。門の礎石や敷石が1988年の確認調査で発掘されたが保存のために埋め戻されている。
  • 曳橋(ひきはし)
古道から御主殿へわたるために城山川に架けられた橋である。橋脚の部分しか資料が発見されていないため、橋脚以外の部分は現在の建築技術で16世紀当時の道筋を再現して架けられた。築城当時の構造については諸説あり、敵の侵入時に板を外せる構造や、橋桁ごとスライドする構造(八王子城管理事務所内所蔵)などが考えられている。御主殿側の橋台の位置は築城当時より5mほど東側にずれており、このため段差が生じて石段が設けられている。橋台の西側の石垣は、林道整備のために削られ、移築されている。
  • 御主殿の滝
御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半分以上が削られている。この土塁をダムにして、上流に御主殿の先まで続く大きな溜め池があったとする説が有力である(参考文献2参照)。

城山の麓から中腹[編集]

千葉県に福善寺と呼ばれる寺があり、円通寺住職の余生を送るためや、若い僧の修行に使う隠居寺であった。福善寺が江戸時代に荒廃し、円通寺は明治の始に渋谷の吸江寺と合併した為、拙堂和尚が城跡に福善寺を復興した。
  • 路傍の石仏(観音像)
108体あるといわれる観音であるが、現代では16体しか確認できない。御主殿跡へのルートとして、古道を通るルート以外、石仏を巡りながらのルートもある。
  • 金子丸跡
金子三郎左衛門家重が守備をしていたといわれている。尾根をひな壇状にし、敵の侵入を防ぐ工夫がされている。現在は天守へ向かう最初の休憩所としてベンチが設置されている。(次の休憩所は8合目までない)

城山の山頂付近[編集]

八王子城の本丸跡
城の中心で最も重要な曲輪。横地監物吉信が守備していた。頂上の平地部は10メートル四方程度の広さが残っている。
  • 松木曲輪跡(展望スペース)
八王子神社の奧に位置し、中の丸とも二の丸とも呼ばれていた。中山勘解由家範が守備し、前田利家軍を相手に奮闘したが、多勢に無勢で防ぎ切れなかった。
  • 小宮曲輪跡
三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。狩野一庵が守備していたが、搦手の隠し通路である棚沢道を突き止めた上杉軍に背後から奇襲され、落とされた。
  • 八王子神社
大手側からも搦手側からも最終的にはここに誘導されるようになっているが、三方を本丸、松木曲輪、小宮曲輪に囲まれた窪地であり、十字砲火に晒されるキルゾーンとなっていた。
  • 井戸
山頂付近にはいくつか井戸が確認されている。南側斜面にある坎井(かんせい)という井戸は、水質検査にも合格するレベルであるが、飲用としての厳密な管理はされていない。
本丸が陥落した際に最後の拠点にするべく構築された詰城で、部分的に石垣が残っている。天守閣跡と伝わっているが、それらしき建物が建っていた痕跡は無い。背後(西側)には深さ10m以上の大堀切があり、背後からの敵の侵入を阻止している。さらに北側と東側の尾根筋には両翼600mに渡って石塁が築かれていた。ほとんど崩れてしまってはいるものの、石自体は残っている。

整備工事[編集]

整備工事は御主殿跡の虎口と、そこに至る大手道を整備範囲として行われた。石垣はゆがんだり欠落していたため、築城当時の工法で積み直し、さらに失われてしまった石材は補充して復元された。橋や門、柵、塀は、はっきりした痕跡が発見されなかったため、八王子城の特徴的な城の守り方を理解できるように、築城当時の通路形態を想定して再現された。

現地情報[編集]

所在地
東京都八王子市元八王子町・下恩方町・西寺方町
交通アクセス
JR中央線高尾駅北口1番バス停より、西東京バス「高尾の森わくわくビレッジ」「宝生寺団地」「恩方営業所」「恩方ターミナル」「大久保」「陣馬高原下」「グリーンタウン高尾」「美山町」行きで、バス停「霊園前」下車、徒歩約15分。土曜・休日には高尾駅北口1番バス停より「八王子城跡」バス停までの路線がある[9]。「八王子城跡」バス停は下記ガイダンス施設に隣接。実際に整備されている史跡へはさらに200mほど歩く必要がある。

山頂付近へのアクセス[編集]

9合目付近から東京都心方面の景色

麓から山頂付近までは、東西南北に様々なルートがあるが、管理事務所から登るルート(新道)は比較的道も広く、軽装で登ることができる。新道ルートは金子丸跡まで約10分、そこから八王子神社まで約30分かかるルートである。新道の北斜面には旧道ルートが並行してあるが、道が狭い上、雨水による侵食が酷い。8合目(柵門台)で旧道と新道は合流する。「頂上」と書かれた小さな石碑の先にある階段を上ると八王子神社があり、左手に進むと二つの大きな慰霊碑のある展望スペースと休憩所(松木曲輪)がある。本丸跡と小宮曲輪跡へは、八王子神社裏手の坂道を更に登る。丸跡も小宮曲輪跡も八王子神社から約5分で到達する。御主殿から山王台を経て本丸付近まで直登する「殿の道」は短時間で本丸付近に到達できる。道中には築城当時の石垣群が見られる。

八王子城をテーマにする作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 北条氏照と八王子城”. 2021年1月3日閲覧。
  2. ^ 加藤哲「八王子築城をめぐって」『駒沢史学』39・40合併号、1988年。/所収:浅倉 2021, pp. 196–198
  3. ^ 土井義夫「地域史研究と中世城館-武蔵・八王子城を素材として-」石井進・萩原三雄 編『中世の城と考古学』新人物往来社、1991年。/所収:浅倉 2021, pp. 160–163
  4. ^ a b 杉山博「滝山城から八王子城へ」『多摩のあゆみ』10号、1978年。/所収:浅倉 2021, pp. 181–185
  5. ^ a b 加藤哲「八王子築城をめぐって」『駒沢史学』39・40合併号、1988年。/所収:浅倉 2021, pp. 186–196
  6. ^ 齋藤慎一「戦国期『由井』の政治的位置」『東京都江戸東京博物館研究報告』第6号、2001年。/所収:齋藤慎一『中世東国の道と城館』東京大学出版会、2010年。ISBN 978-4-13-020147-6
  7. ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、64頁。ISBN 978-4-86403-289-6 
  8. ^ “八王子城落城伝説”. 高尾山総合インフォメーション「高尾通信」. (2005年). http://www.takaosan.info/hachiden.htm 2010年8月20日閲覧。 
  9. ^ 『高尾駅北口~霊園前~八王子城跡』系統の新設について”. 西東京バス株式会社 (2012年8月30日). 2012年10月20日閲覧。

参考文献[編集]

  • 八王子城跡パンフレット 八王子市教育委員会作成
  • 前川實『決戦!八王子城 ― 直江兼続の見た名城の最後と北条氏照』揺籃社、東京, 日本、2009年6月。ISBN 978-4-89708-275-2 
  • 浅倉直美 編『北条氏照』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三一巻〉、2021年。ISBN 978-4-86403-377-0 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]