全日本プロレス

オールジャパン・プロレスリング株式会社
ALL JAPAN PRO-WRESTLING Co., Ltd.
全日本プロレスロゴ.png
種類 株式会社
略称 全日本、全日、AJPW
本社所在地 日本の旗 日本
113-0034
東京都文京区湯島
3丁目14番9号湯島ビル8階[1]
設立 2014年7月1日[1]
業種 サービス業
法人番号 5020001106442 ウィキデータを編集
事業内容 プロレス興行
関連企画の運営
代表者 代表取締役社長 福田剛紀[1]
関係する人物 ジャイアント馬場(創業者)
馬場元子
外部リンク http://www.all-japan.co.jp/
特記事項:
1972年10月22日、全日本プロ・レスリング株式会社を設立。
2012年11月1日、全日本プロレスリングシステムズ株式会社に業務継承。
2014年7月1日、オールジャパン・プロレスリング株式会社に業務継承。
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全日本プロレス(ぜんにほんプロレス、: ALL JAPAN PRO-WRESTLING、略称: AJPW)は、日本プロレス団体運営会社はオールジャパン・プロレスリング株式会社

概要[編集]

歴史[編集]

ジャイアント馬場体制[編集]

旗揚げまでの経緯[編集]

  • 1971年12月、アントニオ猪木日本プロレスの経営改善を下にクーデターを画策したとして日本プロレス選手会を除名されて日本プロレスを永久追放された(詳しくは「密告事件」を参照)。その余波が日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時は日本テレビNETテレビ(現:テレビ朝日)の2局放映体制であった(詳しくは「BI砲の時代」を参照)。NETテレビの看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことでNETテレビは、これまで日本テレビとの関係からNETテレビの中継に出場できなかったジャイアント馬場の出場を強硬に要求して協議の結果、日本プロレスの幹部は日本テレビとの取り決めを破り馬場のNETテレビの中継への出場を解禁。このため日本テレビは「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定。極秘裏に報復手段に近い形で日本テレビと関係が近かった馬場に接触して独立を促す。日本テレビからは「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」、「放映権料も最大限用意する」、「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」等の好条件が提示されて[2]、それを受けて馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。
  • さらには手薄な日本人陣営をカバーするために国際プロレス代表取締役社長の吉原功との会談でサンダー杉山を獲得して当時、若手選手であったデビル紫、鶴見五郎らが参戦して国際プロレスとの協調路線をしばらく維持。馬場ら全日本勢も協力の見返りとして、しばしば国際プロレスの興行に参戦している。
  • 馬場は将来の投資として旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング日本代表であった鶴田友美(リングネーム:ジャンボ鶴田)を獲得。渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を受けさせた。ザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年まで約6年半にわたり定着参戦。馬場に次ぐ看板選手として初期の全日本の興行活動に貢献。
  • 1973年4月、日本プロレスが崩壊、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9人の日本プロレス残党は「力道山家預かり」となることを発表。その過程で日本テレビや力道山家の意向などもあり、大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが馬場は当初から大木らの受け入れには難色を示していたとされている。そのため、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日本プロレスからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた[注 2]。この扱いに対して上田馬之助松岡巌鉄が反発して10月9日に退団[注 3]、次いで大木も1974年1月のシリーズを無断欠場して全日本から一時撤退。

ジャイアント馬場とジャンボ鶴田の全盛期[編集]

初期
中期
  • 1981年、新日本との引き抜き合戦が勃発して5月にブッチャーが引き抜かれるが7月にタイガー・ジェット・シン、さらに12月にスタン・ハンセンを引き抜き返す。また、馬場や鶴田に次ぐ第3、第4の選手として天龍源一郎大仁田厚らも台頭。馬場が高年齢を理由にタイトル戦線から退いた後には、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、一時馬場が会長職に退き、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は松根の退社後に社長に復帰)ほか、大八木賢一(後に全日本専務、現在はノア専務)など、多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍[4]。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。
  • 1987年ハル薗田が、新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、航空機の墜落事故に遭遇し、不慮の死を遂げた。薗田は31歳という、これから脂の乗ってゆく年代の選手であるだけに期待されており、マシオ亡き後の若手に対するコーチ役を務めていたことから組織としても小さくない痛手となった。
後期
  • 1988年、長く待望されていた3つのヘビー級王座の統一が図られるが決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる(王座戦の決着としてはありふれた手段だった)。
  • 最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田対ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。3冠統一は4月18日、鶴田により成されたが、この事件がきっかけとなって、全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが後の鶴田対超世代軍、四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。

プロレス四天王の全盛期[編集]

四天王プロレスの完成
  • 1990年天龍源一郎をはじめとする多くの選手がSWSに移籍して存続が危惧される。だが鶴田に2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴が率いる「超世代軍」が挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こして再生。鶴田が率いる正規軍と超世代軍と外国人選手の戦いが主軸となった。
  • 1992年、鶴田が病気のため一線から退くと、三沢光晴・川田利明小橋健太田上明の「プロレス四天王」による戦いが中心となり、「四天王プロレス」と呼ばれる形へ発展。ジャパンプロレスのハイスパートレスリング、天龍革命によってもたらされた激しいプロレスを出発点とする危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳しくは「王道プロレス」を参照)は先鋭化し続け、三沢、川田利明戦などはテレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。日本武道館大会は1990年代全般でプレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で1998年には東京ドームで初興行を開催。「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透。

三沢光晴体制[編集]

馬場元子との軋轢
  • 1999年1月31日、馬場が逝去。5月7日、三沢が社長に就任。馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また三沢、仲田龍らは、新日本などで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。しかし伝統の保持を第一優先と主張する馬場夫人である馬場元子との軋轢が生じ、社長を解任された。その結果、元子と馬場の姪、馬場幸子、渕正信を除く全役員が辞任。
三沢光晴を含めた所属選手の大量離脱

馬場元子体制[編集]

残留者による活動
  • 全日本プロレスに残留したのは川田、渕、レフェリーの和田、リングアナウンサーの木原文人、広報1人、そして馬場元子の6名となった。川田は後に、馬場亡き後は全日本にはフリーとして上がっており専属契約はしていないことを告白しているが、2004年までは全日本の役員に名を連ねていた。その他は留学という形での参戦だった太陽ケア、当時は元参院議員として衆院選活動中でプロレス復帰も流動的な馳浩のみだった。
武藤敬司の初参戦
  • その後、天龍の復帰、フリー、他団体、馬場時代からの常連外国人選手の参加により運営を維持していた。また、この時期に川田と渕が新日本の興行に出場。翌年の東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初参戦。ケアに勝利した後に共闘してBATTを結成。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座世界タッグ王座を獲得して年末のタッグリーグ戦を制するなど、2001年の日本武道館大会のメインをすべて武藤が務めることになる。

武藤敬司体制[編集]

武藤敬司を含めた選手4人の移籍
パッケージプロレスの浸透
  • 武藤の社長就任直後は三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、再びオーナーとサラリーマン社長という形での軋轢が生じた。その後、渕正信とレフェリーの和田京平の生え抜き役員が武藤側に回り、渕、川田利明、レフェリーの和田の3名連名で武藤への株式譲渡懇願書を馬場元子に提出。武藤には無償で株式が譲渡され、馬場元子はオーナーを退き、事務所を六本木から移転。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりでジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦して全日の伝統である「日本人選手対外国人選手」を受け継ぎつつ、「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに、馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴であった。
  • 特別興行では2002年6月9日A BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!!PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年と2004年にはツアーとして開催。2008年12月23日に約4年ぶりに開催。
  • また江崎グリコプロダクトマネージャーで全日本のコンディショニングコーチの桑原弘樹、武藤、ゴールドジムの協力によるプロレスラー流のトレーニング方法やサプリメントなどの栄養学を参加者に公開する武藤塾を毎年開催しており、年に1度、新人オーディションを開催して見事に合格して入団した選手がいる。近年、多くの選手やスタッフがブログを始めており、試合だけでなくプライベートやイベントの情報も公開している。
日本武道館の撤退
  • かつては全日本の主要大会と言えば日本武道館大会だったが、資金の関係で2004年2月22日を最後に撤退した。その後は代々木第2体育館に加えて、年1回、2回、両国国技館でのスペシャル興行「プロレスLOVE in 両国」としてプロレス界では初の試みとなる、複数の企業から出資金を募り1つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催。
地上波テレビ中継の獲得
  • 2004年4月、テレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組「プロレスLOVE 〜夜のシャイニング・インパクト〜」が開始された。2005年3月以降は両国大会のみ放映。
  • 2007年4月6日、「全日本プロレス マザー」がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜、京都、神奈川で放送されている。また地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回、土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。
VOODOO-MURDERSの不祥事
  • 2011年5月29日スーパーヘイトが試合後に嘔吐、昏倒したため病院に搬送されて「急性硬膜下血腫」の診断を受けて緊急手術が行われた。5月31日、VOODOO-MURDERSのリーダーのTARUが、試合当日にビジネス上での口論からヘイトを数発殴打した事を自ら会社に申告。これに伴い、6月1日、TARUの無期限出場自粛を発表すると共にTARUがスーパーヘイトを殴打したとき控え室に居た河野真幸、MAZADAの無期限出場停止処分とVOODOO-MURDERSの解散も発表された[注 4]
  • 6月7日、一連の事件の責任を取り、武藤が社長を辞任して(選手兼取締役としては留任)取締役の内田雅之が第7代社長に就任。
  • 6月19日、全日本の名物レフェリーとして知られていた和田が契約を打ち切られ退団した。武藤が早急に謝罪会見を開かなかった事を批判したところ、「会社への裏切り」と見なされ武藤から退団するよう求められたという。

白石伸生体制[編集]

スピードパートナーズの買収
  • 2012年11月1日に、スピードパートナーズ(現:八丁堀投資)の社長(当時)白石伸生が全日本の株式を100%取得しオーナーになる。旧来の全日本プロ・レスリング株式会社を過去のコンテンツ版権管理などのわずかな役割を残した上で、資本金1億円で全日本プロレスリングシステムズを設立して事業内容を引き継ぎ、新しい運営会社としてスタートを切った[5]
分裂騒動
  • 白石はFacebookで過激な発言を繰り返し、槍玉として上げられた新日本など外部の人間が抗議するなど反感を呼んだ。結果として全日本の分裂騒動に発展することとなり、新日本との関係が悪化する要因となった。2013年6月1日に新役員体制が発表され、社長を務めていた内田雅之が退任し白石が新社長に就任した[6]。一方、武藤敬司は取締役会長を辞任するとともに全日本を退団した[7]
  • その後、武藤側は白石との間で全日本プロレスの株式の買い戻し等の交渉を進めていたが交渉が不調に終わったことから退団者と新団体の旗揚げを示唆。全日本の選手、スタッフを中心に全日本プロレス退団を呼びかけで船木、河野、KAI真田聖也中之上靖文浜亮太、田中、カズ、近藤、大和ヒロシアンディ・ウー、練習生全員、そして一部のスタッフが退団を表明[8]。一方で大森、諏訪魔、ジョー・ドーリング征矢学SUSHIバーニングの5人が全日本への残留を明言したほか、ケア、レフェリーの和田が限定的ではあるが全日本へ復帰する方針を明らかにした[9]
新体制発足
  • 7月5日、全日本は新体制を発表してバーニングの5人を所属選手(秋山準と金丸義信は復帰)としてレフェリーの和田が名誉レフェリーという形で復帰した。白石伸生代表の下、13人(選手10人、スタッフ3人)で再出発することとなった。一方、武藤らは7月10日WRESTLE-1を旗揚げした。7月14日には態度を保留していたフリーの渕正信が取締役相談役に就任する形で所属に復帰。従前に比べ手薄となった選手層の補強は以後も積極的に行われており、9月1日付で、曙が入団したほか、10月には練習生4人が入寮[10]
  • 8月1日、スピードパートナーズ社内で全日株を保有することに反発した幹部たちに対して白石オーナーは自身のスピードパートナーズ社の全株式を売却すると決定。同日、辞任の上スピードパートナーズ社は株式会社八丁堀投資に社名変更。同社の傘下企業だった全日本プロレスリングシステムズやエステ、アパレルなど計5部門を自身の資産管理会社の株式会社レッドウォールジャパンに移して全日本プロレスリングシステムズの新しい親会社となった[11]9月11日付けで井上博太が代表に昇格し、白石前代表はオーナーとして後方支援を続ける[12]。また、2013年に全日本プロレスリングシステムズ株式会社によって出願された「全日本プロレス」の商標は、白石オーナーの株式会社アールワンが継承していた[13]が、2018年12月にオールジャパン・プロレスリング株式会社が譲渡を受けて保有している。

秋山準体制[編集]

新法人設立
  • 2014年6月4日、秋山が7月1日付で自らが社長となる新法人を設立した上で全日本の運営を全日本プロレスリングシステムズから引き継ぐ方針であることが明らかになった[14]。所属全選手が秋山に追従する方針である他、馬場元子も秋山を支援する意向を明らかにしている。背景には2014年に入ってから所属選手へのギャラの支払いが滞り始めていたことがあるという[15]。一方、旧法人オーナーの白石は自らのブログで、資金面の問題について「選手、フロントに甘えがあったので、支援金額を1月から固定化した」「団体経営を理解させるための治療薬」と述べた上で[16]、新会社設立について「様々なスポンサーが設立時に出資しやすくするため」と語り、今後は数あるスポンサーの中の一社として団体を支援していく考えを明らかにしている[17]
  • 同年7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足し、興行の運営会社とする形で秋山新体制をスタートさせた。全日本プロレス・イノベーションの事務所は山形県山形市ケーブルテレビ山形の社内に置かれ、通信放送やグッズ・ファンクラブ・ゲームキャラクターなどの企画・運営を行うコンテンツ会社としての役割を受け持ち、同社が10%の出資を行い、同社の吉村和文社長が会長に就任。オールジャパン・プロレスリングの事務所は7月7日に、もともと合宿所として使用していた横浜市青葉区の施設に移転するほか[18]、諏訪魔が取締役、馬場元子が取締役相談役に就任することが発表された[19]
  • 2015年秋に入り、潮崎豪、曙、鈴木鼓太郎、金丸義信が相次いで退団を発表[20][21]。興行数が減少していることもあり、2016年から選手への給料を従前の固定給から試合の出場給に改める代わり、所属選手の契約形態を専属契約から「所属だが他団体への出場も自由」(いわゆる「専属フリー」)の形に変更する方針も明らかにされた[20]。また12月から、全日本プロレス・イノベーションとオールジャパン・プロレスリング両社間の関係が分離され、興行権がオールジャパンに完全移行された[22]。社長の秋山を除いた経営陣は11月末で退任し[23]、今後はオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。ただし、全日本プロレス・イノベーションはオールジャパン・プロレスリングの株式の34%を保有し続けており、関係は継続されている[22]
  • 2016年9月30日BS11にて「全日本プロレスイレブン」の放送開始を発表[24]。毎月第3月曜日の23:00から23:30で、同年10月17日からスタートした[25]。その後2回の放送日時変更を経て、2018年9月19日の放送をもって終了となった(全24回)[26]
  • 2018年3月19日、インターネット動画配信サイト「全日本プロレスTV」サービス開始。主要カードの動画が見られるほか、大規模な大会では生配信も行う。

福田剛紀体制[編集]

ゼネラルマネージャーの設置
  • 秋山体制の5年間で、宮原健斗をはじめとする若手が台頭してきたことから、秋山が現場に専念するため、2019年7月8日付けで社長職を退任。後任に、オーナーとして携わってきた福田剛紀が新社長に就任した。当初、秋山に取締役会長を打診されたが、秋山自身の「現場でやりたい」という要望を受け、団体初のゼネラルマネージャーに就任することとなった。また、社外取締役に2AW取締役会長の十枝利樹が就任。一方で、2016年より取締役となっていた大森隆男が、選手活動に専念するため取締役を退任した[27][28]
脱・秋山
  • しかし、秋山は2020年1月16日のプロレス大賞授賞式を最後に、取締役およびゼネラルマネージャーを退任[29]。秋山は5月9日にDDTプロレスリングのゲストコーチ就任を発表[30]すると、さらに6月27日、7月1日から年内までのDDTへのレンタル移籍を発表[31]。経緯として、前年にすべての役職を解任されたほか、年末には福田社長より若手コーチの任も解かれた(TAJIRIが後任のコーチに就任)ことを秋山が語っている[32]
  • 三冠王者の諏訪魔は、いち早く「脱・秋山」を掲げ[33]、福田社長と直接会談に臨み[34]、今後の方向性を確認した。

シリーズ名の変更[編集]

  • ジャイアント馬場体制から定着だったシリーズ名が武藤敬司体制になってから一部で変更されている。単発興行(プロレスLOVEなど)は除く。
  • 正月と10月に開催する旗揚げ記念大会「ジャイアント・シリーズ」は馬場のリングネームである「ジャイアント馬場」に「シャイニング・シリーズ」は武藤の必殺技である「シャイニング・ウィザード」に、それぞれなぞらえている。
  • 武藤の退団後は武藤関連ワードのものは外されて原点回帰を掲げ「王道」を付け加えた興行名などに変更されている。
  • 1月 : 新春ジャイアント・シリーズ→新春シャイニング・シリーズ→ニューイヤーウォーズ
  • 2月 - 3月 : エキサイト・シリーズ
  • 3月 - 4月 : ホールドアウト・ツアー→ドリームパワー・シリーズ、チャンピオン・カーニバル
  • 5月 - 6月 : スーパーパワー・シリーズ→ライズアップ・ツアー→スーパーパワー・シリーズ、ダイナマイト・シリーズ
  • 7月 - 9月 : サマーアクション・シリーズ(パート1、パート2)→サマーアクション・シリーズ、サマーインパクト
  • 10月 : ジャイアント・シリーズ→シャイニング・シリーズ→アニバーサリー・ツアー
  • 11月 - 12月 : 世界最強タッグ決定リーグ戦

他団体との交流[編集]

1972年 - 2002年[編集]

  • 全日本の旗揚げ当時、日本プロレスはまだ健在で参加選手が足りないこともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も1970年代末まで国際プロレスとは交流を持ち、1977年から1978年にかけては対抗戦形式のシリーズも開催された[35]
  • ライバルである新日本との交流はほとんど行われず、わずかに東京スポーツ主催の「プロレス夢のオールスター戦」があるだけだった。その後、新日本から離れた長州らジャパンと提携して交流を持つも、ジャパン崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF共催)などの交流があったものの、天龍源一郎らの離脱と猪木の新日本復帰(会長就任)後の意向により、その後は途絶えた。
  • プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。
  • しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であり、UWFインターナショナルみちのくプロレス、FMW以外の団体については、全日本の選手が他団体に上がることはほとんど無かった。これらの団体からでも、誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手(垣原賢人、高山善廣、新崎人生ハヤブサ邪道外道)だけが出場できた。また全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。
  • 三沢が社長になってからはより積極的な団体交流を打ち出して新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らず、三沢らが離脱した後は、選手の穴埋めを図るために、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、武藤敬司、蝶野正洋など新日本の選手、インディペンデントの選手が一気に参戦するようになった。

2003年 - 2012年[編集]

  • 武藤が社長就任直後から交流していたプロレスリングZERO-ONEとの全面戦争が勃発。橋本が奪った三冠ベルトの奪還をねらう全日勢などの熱い戦いが繰り広げられた。その後、三冠王者になった川田はシングルマッチを経験した橋本、小川直也とタッグを結成してハッスルに参戦。
  • 2004年には、ハッスルのリングで三冠ヘビー級選手権試合が行われた。グレート・ムタ、小島、カズもスポット参戦。「KAIENTAI DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦。外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期から、試合前に前説を行い、以後、他の選手が前説を行う形が定着している。
  • 武藤がTNAとの業務提携のため単身渡米し、お互いの選手派遣、若手選手の交換留学などを実現させている。また武藤が世界中のプロレス団体に参戦するなどして、気に入った選手に直接オファーを出したり、選手から参戦を直訴されることも多くなっている。
  • 全日本を離脱した三沢が社長として旗揚げしたノアとは、お互いの方針から交流がなく絶縁とも言われたが2004年7月、武藤と三沢のタッグマッチが行われて試合後に小島が三沢にシングルマッチでの対戦を直訴して、三沢が4年ぶりに古巣に参戦。その後10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では武藤と三沢がタッグを組んだ。武藤の新日本脱退、全日本の社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため注目された。
  • 2005年8月と10月、「WRESTLE-1 GP」が開催。全日本からムタ、諏訪間(現:諏訪魔)、ノアからは三沢、小川良成、秋山が参戦したが両団体の選手が絡むことはなかった。
  • 2006年佐々木健介のデビュー20周年興行に全日本、ノアが協力。健介とのトークで出場した武藤と小島が、試合後に健介とタッグを結成した小橋とリング上で握手している。小島は小橋のことを今でも尊敬する人物の1人として挙げている。
  • 2008年、丸藤正道が参戦して土方隆司を破って世界ジュニアヘビー級王者になると近藤との試合では年間最高試合賞を獲得。
  • 2009年2月6日、カズとの選手権試合では興行史上初めてジュニアヘビー級の選手権試合がメインで行われた。その後、三沢が急逝。小島の呼びかけにより、小橋が古巣に参戦して対戦。その後、三沢追悼興行に武藤が参戦して田上明とタッグを結成して小橋&高山善廣組と対戦。
  • 2003年以降、新日本との交流を打ち出して2005年には新日本の提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になったが、5月に天山に敗れてIWGPヘビー級王座から転落。翌年には新日本プロレスG1 CLIMAX2006に、5年ぶり7度目の出場をしたが、決勝で天山に敗れて準優勝に終わった。その後、小島と天山は共闘することになり、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では、2003年1月4日以来のテンコジを復活させて優勝を果たした。
  • 2007年1月4日、新日本の東京ドーム大会に全面協力することを発表。IWGPヘビー級王座に太陽ケアが挑戦、また三冠ヘビー級王座に新日本の永田裕志が挑戦するタイトルマッチが行われた(双方王座防衛)。また武藤&蝶野組対天山&小島組という団体の垣根を越えた新旧世代のタッグマッチがあり、試合後、およそ8年ぶりのタッグを結成して勝利した武藤と蝶野が、闘魂三銃士の同胞だった橋本真也の生前の姿がスクリーンに映されトレードマークだった白い鉢巻を掲げるセレモニーがあった。
  • 2008年1月4日、東京ドームでグレート・ムタが参戦して後藤洋央紀と対戦。4月には武藤が中邑真輔に勝利してIWGPヘビー級王者になった。7月には欠場中の小島が新日本のリングに参戦して天山を救出。テンコジを復活する形になり、そのままG1に参戦を表明。
  • 8月31日、全日本の興行で初めてIWGPヘビー級選手権試合を開催。王者である武藤がG1 CLIMAX優勝者の後藤洋央紀に勝利して防衛に成功。小島と天山はその後、新日本のG1タッグリーグ戦、全日本の世界最強タッグリーグ戦でダブル優勝を果たした。
  • 10月に行われた蝶野のデビュー25周年記念試合で蝶野&武藤&小橋組対中西&小島&秋山組のメジャー3団体による豪華な6人タッグマッチが実現。
  • 2008年からは女子プロレスラーの参戦も主に地方巡業で見られるようになっている。一方で同じく横浜に道場を置いていたNEO女子プロレスに小島が参戦。
  • 2009年3月、新日本、全日本、ノアの3団体でプロレスラーの共通ライセンス構想を発行する構想も浮上するなど良好な関係を築いていたが、2010年6月に全日本が一方的に同構想から離脱したことに新日本とノアが反発して全日本は「ライセンス構想と選手の交流は別の話」、「鎖国しているわけではないので来る者は拒まず」との姿勢を打ち出しているものの以後、新日本とノアは態度を硬化させ、特にノアとの交流は一時完全に途絶えた[36]。一方で関西を地盤とする準メジャー団体のDRAGON GATEとは2011年に共通の放送局であるGAORAの開局記念番組として「スーパーファイト2011」を開くに至った。
  • 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震が発生したため、「被災者へのチャリティー目的などでメジャー団体が一致団結する必要がある」との認識から新日本、ノアとの関係が改善。4月のチャンピオン・カーニバルに新日本から永田裕志、ノアから秋山が参戦することが決定するなど、両団体との交流が復活。

2013年 - 2014年[編集]

  • 前述の通り白石伸生が自身のFacebookを通じて他団体に対して挑発的な態度を取り続けた結果、新日本プロレス会長の木谷高明、武藤らが猛反発をして木谷は東京スポーツのインタビューで全日本との絶縁を宣言。一連の騒動が後に分裂騒動に発展。またノアと決別する形で退団したバーニングの5人が全日本に所属したため、ノアとの関係も微妙なものとなり、交流は行われていない。他にプロレスリングZERO1、大日本なども白石の「鎖国」発言を機に交流相手をWRESTLE-1に鞍替えした。新体制移行後に交流している団体はDDT、DRAGON GATE、KAIENTAI DOJO、プロレスリングFREEDOMSIGFなどが挙げられる。その一方でフリー選手などが参戦して選手層を埋めている。なお、白石のFacebookは後に閉鎖されてブログへ移行。ブログへ移行後も新日本、ノア、WRESTLE-1、IGFへの挑発的な態度を繰り返していたが、白石のブログ自体は2015年5月以降更新が途絶えている。
  • 秋山体制に移行してからは曙が再びZERO1に参戦するようになったが新日本、ノアとの交流は再開せず、分裂時のいきさつからWRESTLE-1との交流も行われていなかった。
  • 2014年末、ユニオンプロレスから福田洋が半年間のレンタル移籍することになっていたが福田の怪我により一旦白紙に戻った。

2015年以降[編集]

  • 2015年、諏訪魔がIGFの藤田和之との対戦を熱望。IGFの大阪大会に諏訪魔単身で乗り込みアピールしたが、当のIGF側からは交流をはぐらかされた。また、大日本に関しては新日本やノアと同じく交流が途絶えていたが、2015年12月20日の大日本の興行に諏訪魔が出場して交流を再開。
  • 2016年、大日本とは再び交流を行っており全日本には関本、岡林、橋本和樹が参戦して大日本側には諏訪魔を筆頭に数名が参戦。さらには、両団体の若手主体興行を月1回、交互に開催している(全日本側の興行タイトルは「AJ PHOENIX」、大日本側は「D-RIZE」)。また自主興行の減少をカバーするため、過去のトラブルから交流が途絶えている新日本、ノア、WRESTLE-1を除く団体との交流が積極的に行われていた。
  • 2016年5月4日のWRESTLE-1後楽園ホール大会で、武藤が闘いたい相手として秋山を指名。8月11日のWRESTLE-1横浜文化体育館大会で武藤とタッグで対決。7月20日には、新日本とノアの共催による第6回「スーパーJカップ」に青柳優馬が出場している。これ以降、両団体の交流は無かったが、2017年4月13日のライオンズゲートに青柳優馬と岩本煌史が出場し、邪道&外道と対戦。新日本との交流が再開されている。
  • また、ノアとは直接的な交流がない状況が続いていたが、2018年のチャンピオンカーニバルに丸藤正道が出場し、流動的ではあるが交流が再開。これでほぼ全てのプロレス団体との交流が行われるようになった。

若手選手の育成[編集]

番勝負[編集]

将来有望な若手選手に、一流選手との対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いから、トップクラスの選手を相手にした「番勝負」が実施されることがある。

1976年から1979年まで3年がかりで行われた「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」に始まり、2代目タイガーマスク(三沢光晴)が1986年から1988年にかけて行った「猛虎七番勝負」等を開催。ほかにも小橋健太秋山準らも、この番勝負を経験してスターダムを駆け上がった。また、後に三沢が立ち上げたノアでも開催された。

武藤敬司が社長に就いてからも、本間朋晃諏訪間幸平が挑戦している。宮本和志は本間をパートナーにタッグマッチで挑戦。天龍源一郎は2003年に若手選手を鍛える目的のシングル七番勝負を行った。

2019年、大森北斗がデビュー一周年を記念し、地元の北海道で「大森北斗 北海道試練の三番勝負」を実施。若手の番勝負としては約15年ぶりの開催となった。

2020年、愛媛プロレス所属のライジングHAYATOが「ライジングHAYATO試練の3番勝負」を実施。他団体の若手に対しての実施は初[注 5]

あすなろ杯争奪リーグ戦[編集]

有望な若手選手が複数人所属する時期に、不定期で開催されるシングルリーグ戦。過去5回開催された。

なお基本的に優勝しても特典はない(第2回大会のみ優勝者にチャンピオン・カーニバルへの出場権が与えられた)が、若手にとってはあすなろ杯優勝が初の栄誉となることが多い。

AJ PHOENIX[編集]

2016年に開催していた若手主体興行。大日本プロレス主催の若手主体興行「D-RIZE」と隔月で交互に開催(奇数月が大日本主催、偶数月が全日本主催)[37]。12月20日の「AJ PHOENIX vol.6」をもって一区切りとすることになった[38]。試合会場は常時新木場1stRINGで行われた。

シリーズ興行名[編集]

  • ジャイアント馬場体制から定着だったシリーズ名が武藤敬司体制になってから一部で変更されている。単発興行(プロレスLOVEなど)は除く。
  • 正月と10月に開催する旗揚げ記念大会「ジャイアント・シリーズ」は馬場のリングネームである「ジャイアント馬場」に「シャイニング・シリーズ」は武藤の必殺技である「シャイニング・ウィザード」に、それぞれなぞらえている。
  • 武藤の退団後は武藤関連ワードのものは外されて原点回帰を掲げ「王道」を付け加えた興行名などに変更されている。
  • 1月 : 新春ジャイアント・シリーズ→新春シャイニング・シリーズ→ニューイヤーウォーズ
  • 2月 - 3月 : エキサイト・シリーズ
  • 3月 - 4月 : ホールドアウト・ツアー→ドリームパワー・シリーズ、チャンピオン・カーニバル
  • 5月 - 6月 : スーパーパワー・シリーズ→ライズアップ・ツアー→スーパーパワー・シリーズ、ダイナマイト・シリーズ
  • 7月 - 9月 : サマーアクション・シリーズ(パート1、パート2)→サマーアクション・シリーズ、サマーインパクト
  • 10月 : ジャイアント・シリーズ→シャイニング・シリーズ→アニバーサリー・ツアー
  • 11月 - 12月 : 世界最強タッグ決定リーグ戦

タイトルホルダー[編集]

全日本プロレスの王座
タイトル 保持者 歴代 防衛回数 次期挑戦者
三冠ヘビー級王座 諏訪魔 第63代 2
世界タッグ王座 諏訪魔
石川修司
第87代 3 宮原健斗
黒潮"イケメン"二郎
世界ジュニアヘビー級王座 岩本煌史 第53代 田村男児
アジアタッグ王座 木髙イサミ
宮本裕向
第109代 3 ゼウス
イザナギ
GAORA TV チャンピオンシップ ヨシタツ 第17代 8
全日本プロレスが開催しているリーグ戦、トーナメント戦
タイトル 覇者 年代
Jr. BATTLE OF GLORY 岩本煌史 2019年
チャンピオン・カーニバル 宮原健斗 2019年
Jr. TAG BATTLE OF GLORY 佐藤光留
岡田佑介
2019年
王道トーナメント ジェイク・リー 2019年
世界最強タッグ決定リーグ戦 諏訪魔
石川修司
2019年
あすなろ杯争奪リーグ戦 田村男児 2020年

所属選手・主要参戦選手[編集]

本隊[編集]

ヘビー級
ジュニアヘビー級

Evolution[編集]

陣 JIN[編集]

PURPLE HAZE[編集]

Enfants Terribles[編集]

健斗とイケメンとアキラとHAYATOの大冒険[編集]

ヨシタツ・キングダム[編集]

派生タッグチーム[編集]

暴走大巨人
  • 諏訪魔
  • 石川修司
ワイルドめんそーれ
  • 大森隆男
  • ブラックめんそーれ
ザ・ボンバー
  • ジョー・ドーリング
  • ディラン・ジェイムス

フリー・他団体参戦選手[編集]

※2020年に参戦した選手のみ

男子選手[編集]

フリー
岩国プロレスリング
愛媛プロレス
プロレスリングFTO
プロレス実験団GUYZ
新日本プロレス
大日本プロレス
ダブプロレス
プロレスリング・チームでら
2AW
DEP
DDTプロレスリング
道頓堀プロレス
鳥取だらずプロレス
DRAGONGATE
ドラディション
暗黒プロレス組織666
P.P.P.TOKYO
プロレスリング・ノア
プロレスリングBASARA
パンクラスMISSION
ボンサイブルテリア
MAKAI
松江だんだんプロレス
みちのくプロレス
LAND'S ENDプロレスリング

女子選手[編集]

フリー

外国人選手[編集]

フリー
ICW(Italian Championship Wrestling)
NGW(New Generation Wrestling)
PWR(Pro Wrestling Revolution)

スタッフ[編集]

名誉レフェリー[編集]

レフェリー[編集]

リングアナウンサー[編集]

PWF会長[編集]

第4代

選手会[編集]

選手会長[編集]

  • 諏訪魔(2019年6月 - )[39]

役員[編集]

オールジャパン・プロレスリング株式会社
  • 第2代代表取締役社長 : 福田剛紀(2019年7月 - )
    • 取締役副社長 : 五十嵐聡(2020年1月 - )
    • 社外取締役 : 十枝利樹(2019年7月 - )

歴代所属選手[編集]

歴代ユニット[編集]

歴代タッグチーム[編集]

歴代スタッフ[編集]

歴代PWF会長[編集]

歴代選手会[編集]

選手会長[編集]

副会長[編集]

歴代役員[編集]

全日本プロ・レスリング株式会社[編集]

  • 初代代表取締役社長 : 馬場正平(1972年10月 - 1981年12月)
  • 第2代代表取締役社長 : 松根光雄(1982年1月「日本テレビ」から出向 - 1989年3月)
    • 代表取締役会長 : 馬場正平
    • 専務取締役 : 村上義昭
    • 取締役 : 木村誠宏(経理部兼任)
  • 第3代代表取締役社長 : 馬場正平(1989年4月 - 1999年1月)[注 7]
  • 第4代代表取締役社長 : 三沢光晴(1999年5月 - 2000年6月)
  • 第5代代表取締役社長 : 馬場元子(2000年7月 - 2002年9月)
    • 取締役 : 馬場幸子、川田利明、渕正信、三橋祐輔
  • 第6代代表取締役社長 : 武藤敬司(2002年10月 - 2011年6月)
    • 取締役(2002年 - 2004年) : 川田利明、渕正信、和田京平、三橋祐輔、渡辺秀幸(2002年2月「新日本プロレス」から移籍)、青木謙治(2002年2月「新日本プロレス」から移籍 - 2005年10月)、高橋英樹(2002年2月「FMW」から移籍 - 2005年10月)
    • 取締役(2005年 - 2011年) : 内田雅之林和広
  • 第7代代表取締役社長 : 内田雅之(2011年6月 - 2012年11月)
    • 取締役 : 武藤敬司、林和広

全日本プロレスリングシステムズ株式会社[編集]

  • 初代代表取締役社長 : 内田雅之(2012年11月 - 2013年5月)
    • 取締役副社長 : 三阪輝(2012年11月「スピードパートナーズ」から出向)
  • 第2代代表取締役社長 : 白石伸生(2013年6月 - 2013年8月)
    • 取締役 : 三阪輝、井上博太(2013年6月「スピードパートナーズ」から出向)、佐藤智彦(2013年6月「スピードパートナーズ」から出向)
    • 取締役相談役 : 渕正信
  • 第3代代表取締役社長 : 井上博太(2013年9月 - 2014年6月)
    • 取締役 : 三阪輝、佐藤智彦
    • 取締役相談役 : 渕正信

オールジャパン・プロレスリング株式会社[編集]

  • 初代代表取締役社長 : 秋山潤(2014年7月 - 2019年7月)
    • 代表取締役副社長 : 笹原美喜夫(ケーブルテレビ山形
    • 取締役会長 : 吉村和文(ケーブルテレビ山形)
    • 専務取締役 : 諏訪間幸平(2014年7月 - 2015年11月)[23]
    • 取締役 : 曙太郎(2014年7月 - 2015年11月)、大森隆男(2016年1月 - 2019年7月)
    • 取締役相談役 : 馬場元子(2014年7月 - 2015年10月)
    • 取締役ゼネラルマネージャー : 秋山準(2019年7月 - 2020年1月)

故人[編集]

プロレスラー[編集]

スタッフ・役員[編集]

  • ジョー樋口(レフェリー)(2010年逝去)
  • 仲田龍(リングアナウンサー)(2014年逝去)
  • 馬場元子(代表取締役社長、取締役相談役)(2018年逝去)
  • 百田義浩(リングアナウンサー兼取締役)(2000年逝去)

来日外国人選手[編集]

プロレスラー[編集]

格闘家[編集]

来日外国人関係者[編集]

レフェリー[編集]

  • ウォーリー堤
  • ケン・ハーバー
  • ジミー・タナカ
  • ジョージ・マッコーリー
  • ダニー・ブレッチェス
  • ハル佐々木
  • リチャード・ムーディー
  • ルー・テーズ

マネージャー[編集]

プロモーター[編集]

マスコットキャラクター[編集]

応援大使[編集]

  • スルースキルズ
    • 2016年5月25日に就任。試合前にリング上でパフォーマンスを披露し会場を盛り上げた。グループの解散に伴い、2017年6月11日の後楽園ホール大会を最後に応援大使としての役目を終えた[44]
    • 解散後、元メンバーの有田ひめかがプロレスラーになるため全日本プロレスの道場に通って練習を積み、2017年12月24日Beginning新木場1stRING大会でプロレスデビューを果たした。2018年1月25日、全日本プロレス新木場1stRING大会で「有田ひめか全日本プロレスデビュー戦」として試合が行われた[45]

試合中継[編集]

放送中の番組
終了した番組

関連番組[編集]

放送中の番組
終了した番組

スポンサー[編集]

オフィシャルスポンサー
  • カーベル
  • ReOStaff
  • やっぱりステーキ
  • 早駒運輸
  • エールクリエイト
  • K.O.GYM
  • ステーキハウス寿楽
  • ガイアコーポレーション
  • 大隅興業
  • OfficeRADDY
  • CARO RESORT
  • Team AED

関連書籍[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 旗揚げ直前に百田家から力道山の所縁のチャンピオンベルトを贈与されて旗揚げ後しばらくは、このチャンピオンベルトの争奪戦が目玉カードになった。このチャンピオンベルトは後にPWFヘビー級王座のチャンピオンベルトになる。
  2. ^ 当時のポスターに掲載されていたのが大木金太郎高千穂明久(現:ザ・グレート・カブキ)のみであった。
  3. ^ 上田馬之助松岡巌鉄日本テレビとの3年契約が残っていたため、その間、日本の他団体に参戦することができずアメリカに活路を求める形となったが、ほどなく上田と松岡の間に亀裂が生じて松岡は廃業に追い込まれた[3]
  4. ^ 後の調査で河野真幸MAZADAは暴行に関わっていないことが明らかになったため6月30日付けで出場停止処分は解除された。
  5. ^ 同年1 - 3月に全日本プロレスの道場に住み込みながら継続参戦しており、一時的に所属選手同然の扱いとなっていた。
  6. ^ 2019年6月の急逝後も所属選手一覧に掲載されている
  7. ^ 馬場正平の没後は三沢光晴が代表取締役社長代理を務め、5月より代表取締役社長に就任した。

出典[編集]

  1. ^ a b c 会社概要 - 全日本プロレス
  2. ^ 『昭和40年男10月号増刊昭和プロレス大全』18Pより
  3. ^ 『プロレス醜聞100連発!!』140Pから141Pより
  4. ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.34
  5. ^ 全日買収!企業再生会社が新日に宣戦布告 - 日刊スポーツ 2013年2月26日
  6. ^ 全日が新役員体制発表 白石氏が新社長 - 日刊スポーツ 2013年6月1日
  7. ^ 武藤が全日退団 新団体旗揚げも - 東京スポーツ 2013年6月6日
  8. ^ ついに分裂…どうなる全日本プロレス!離脱・残留選手コメントまとめ - スポーツナビ 2013年7月1日
  9. ^ 全日本プロレス分裂へ 諏訪魔は残留宣言 - 東京スポーツ 2013年6月11日
  10. ^ 全日で後進育成「曙部屋」設立へ - 東京スポーツ 2013年9月7日
  11. ^ 全日本プロレスがPWF、UN、インターの3本のベルトを馬場家に返還すると発表!親会社もスピードパートナーズから変更に - バトル・ニュース 2013年8月9日
  12. ^ 全日本プロレスの社長が交代!白石前社長はオーナーとして今後も全日本を後方支援 - バトル・ニュース 2013年9月11日
  13. ^ 日本第5689521号
  14. ^ 全日本プロレス激震!秋山新社長で再出発へ - 東京スポーツ 2014年6月4日
  15. ^ 秋山が新会社設立し団体運営へ…どうなる「全日本プロレス」の看板 - 東京スポーツ 2014年6月5日
  16. ^ アクション - 白石伸生のブログ 2014年6月4日
  17. ^ 新会社 - 白石伸生のブログ 2014年6月4日
  18. ^ 全日本プロレス運営会社変更・事務所移転のご案内 - 全日本プロレス公式Facebook 2014年6月30日
  19. ^ 馬場イズム継承の秋山全日本が門出「二大メジャーの看板を取り戻す」 - スポーツナビ 2014年7月4日
  20. ^ a b また離脱者…秋山社長を直撃 全日プロに何が起きている?打開策は? - 東京スポーツ 2015年11月18日
  21. ^ 全日プロ激震!今度は金丸が退団 - 東京スポーツ 2015年11月20日
  22. ^ a b 今年初の全日本プロレスイノベーション取締役会 - 吉村和文ブログ 2016年5月14日
  23. ^ a b 全日プロ・諏訪魔が専務取締役を辞任「リング上に集中したい」 - 東京スポーツ 2015年12月16日
  24. ^ BS11 全日本プロレスイレブン放送開始!! - 全日本プロレス公式YouTube 2016年9月30日
  25. ^ 全日本プロレスイレブン#1 - 全日本プロレス公式YouTube 2016年11月17日
  26. ^ 全日本プロレスイレブン - BS11
  27. ^ 【全日本】秋山が社長退任でGM職に、新社長には福田剛紀氏が就任 全日本が新人事を発表 - プロレス格闘技DX 2019年7月10日
  28. ^ 全日本秋山準社長が退任しGM就任「令和の長州に」 - 日刊スポーツ 2019年7月10日
  29. ^ “【プロレス大賞授賞式】故青木篤志さんに功労賞 師匠・秋山「全日本にとっても最大の功労者」”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2020年1月17日). https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/1695696/ 2020年7月30日閲覧。 
  30. ^ “全日本プロレスの秋山準がDDTのゲストコーチに就任。「DDT TV SHOW!」にもレギュラー参戦【DDT】”. TOKYO HEADLINE (ヘッドライン). (2020年5月10日). https://www.tokyoheadline.com/496852/ 2020年7月30日閲覧。 
  31. ^ “【DDT】全日本・秋山準のレンタル移籍決定「僕の持っているすべてを伝えていければ」”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2020年6月27日). https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/ddt/1934586/ 2020年7月30日閲覧。 
  32. ^ “【DDT】レンタル移籍の秋山準 全日本プロレスの取締役とコーチから解任された事実を明かす”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2020年6月27日). https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/ddt/1934856/ 2020年7月30日閲覧。 
  33. ^ “【全日本】「脱・秋山」へ!諏訪魔が経営陣に面談要求”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2020年7月17日). https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/ajpw/1987440/ 2020年7月30日閲覧。 
  34. ^ “【全日本】諏訪魔が「リアル全日本」実現へ提言 経営陣と“ひとり団交””. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2020年7月22日). https://www.tokyo-sports.co.jp/prores/ajpw/2001792/ 2020年7月30日閲覧。 
  35. ^ 『Gスピリッツ Vol.16』P74(2010年、辰巳出版ISBN 4777808017
  36. ^ 東京スポーツ・2011年3月6日付 28面
  37. ^ 【大日本】若手主体興行『D-RIZE』を大日本と全日本で月イチ交互開催へ - プロレス格闘技DX 2016年1月12日
  38. ^ 【全日本】秋山社長がコメント 若手主体興行は12・20新木場で「一区切り」 - プロレス格闘技DX 2016年12月15日
  39. ^ 【全日本】諏訪魔が選手会長に就任 「選手が戦いやすい環境を」 - プロレス格闘技DX 2019年6月19日
  40. ^ 新王者諏訪魔が全日本の選手会長に就任 - 日刊スポーツ 2010年8月31日
  41. ^ 全日本プロレス公式Facebook 2014年7月12日
  42. ^ 【全日本】大森が取締役、青木が選手会長に就任、秋山社長が新人事を発表 - プロレス格闘技DX 2016年1月12日
  43. ^ 全日本プロレスイメージキャラクター募集コンテスト - pixiv
  44. ^ 全日本プロレス応援大使のアイドルユニットが解散!リング上でラストライブ! - バトル・ニュース 2017年6月12日
  45. ^ 元アイドル“ジャンボ”が全日本に!有田ひめか、プロレスラーへの道。 - Number Web 2018年1月29日
  46. ^ 全日本プロレス大会中継 - FIGHTING TV サムライ
  47. ^ プロレスクラシック - 日テレジータス
  48. ^ 全日本プロレスアーカイブス サイコー宣言 - FIGHTING TV サムライ
  49. ^ 全日本プロレスイレブン - BS11

関連項目[編集]

興行
リーグ戦、トーナメント戦
王座

外部リンク[編集]