伊東祐国

 
伊東祐国
時代 室町時代
生誕 享徳3年(1450年
死没 文明17年6月21日1485年8月1日
改名 祐隆→祐国
別名 六郎、左衛門尉、大和守
氏族 日向伊東氏
父母 父:伊東祐堯
兄弟 土持堯綱室、祐国島津立久室、祐邑
祐英祐円祐兄佐土原豊前守室、祐岑右松宮内少輔室、幻生、玉阿、大賢、
男子(出家)、一海法印、男子(出家)、祐具祐運長倉若狭守室、伊東美作守室、
佐々宇津近江守室、清武三郎室、
上別府尾張守室、清武兵部少輔室、
伊東河内守
正室:土持弥次郎是綱
尹祐祐梁祐武相良長毎
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伊東 祐国(いとう すけくに)は、室町時代武将日向伊東氏7代(伊東氏12代)当主。

父・伊東祐堯に従って各地を転戦した。文明12年(1480年)、佐土原を知行する。同年、折生迫島津氏との合戦となり、日高周防介の軍勢に大勝した。

文明16年(1484年)、父・祐堯が島津氏の内紛に介入。島津当主島津忠昌の方針に反発し、豊後国大友氏や父に助力を請い新納忠続の守る飫肥城を攻撃し忠昌に叛旗を翻した島津久逸を援助するべく父と共に飫肥城を攻撃したが、翌文明17年(1485年)に祐堯が出陣中に清武城で死去、祐国が家督を継承する。

同年、弟・祐邑と共に新納忠続の守る飫肥城に再び侵攻した。その時に率いた軍勢は、「都於郡、佐土原、宮崎、木脇、八代、三納、穂北、富田、財部、高城、塩見、日知屋、門川、山陰、田代、神門、入下、宇納間、水清谷、銀鏡、小河、雄八重、中ノ俣、鵜戸、曾井、加江田」の兵だったとされる(これは現在の宮崎市西都市国富町高鍋町日向市美郷町西米良村などに相当する地域である。)。

祐国・祐邑は国見峠を越えてたちまち飫肥城を包囲し島津方の援軍・島津伯耆守を討ち取ったが、飫肥城の守りは堅く、自ら軍勢を率いて出陣して来た島津忠昌と楠原で交戦するも、祐国は乱戦の最中に戦死を遂げた。享年35。