伊志嶺翔大

伊志嶺 翔大
千葉ロッテマリーンズ 
二軍外野守備兼走塁コーチ #81
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 沖縄県平良市(現:宮古島市
生年月日 (1988-05-12) 1988年5月12日(35歳)
身長
体重
179 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 2010年 ドラフト1位
初出場 2011年4月14日
最終出場 2018年8月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 千葉ロッテマリーンズ (2020 - )

伊志嶺 翔大(いしみね しょうた、1988年5月12日 - )は、沖縄県平良市(現:宮古島市)出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。

現在は、千葉ロッテマリーンズ二軍外野守備兼走塁コーチ。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学1年時にスポーツ少年団に入り野球を始める。野球の練習がない時は海に飛び込んで魚を捕まえていた野生児気質だった[1]。2年の時に宮古島キャンプに来ていたオリックス・ブルーウェーブの野球教室に参加し、そこでイチローからサインを貰ったことでプロ野球選手になりたいという思いが強くなる[2][3]。3年からは高校で陸上部の顧問をしていた父親に陸上選手としての指導を受け、代表選手として出場した宮古地区大会では新記録で優勝。中学時代は軟式野球部で主に投手を務め、内野手外野手も経験する。陸上では2年時に県大会の200mで優勝した。

2010年、世界大学野球選手権大会 神宮にて

高校進学にあたって陸上選手として複数校から勧誘されたが、野球選手の道を進むため沖縄尚学高に推薦入学する[3]。1学年先輩に比屋根渉、2学年後輩に東浜巨がいた。1年時4月のオープン戦で本塁打を放ち、打撃に目覚めたことで外野手に専念。夏にレギュラーとなったが秋にはその座を奪われ、翌春のセンバツ夏の甲子園では代打として1打席ずつの出場に終わる。秋は九州大会で敗退、3年時の夏も県大会準決勝で敗退し甲子園出場はならなかった。

大学は東海大学に進学。高校3年時の春に左肩を脱臼し、その後も繰り返していたため、進学前に手術を受けた[3]。入学後の3か月はリハビリに努める。同時にウエイトトレーニングなどをこなしていたことで復帰後の練習にも遅れることなく、2年春からレギュラーに定着し夏には第24回ハーレムベースボールウィーク日本代表に選出される。これがプロへ進むための評価を自覚するきっかけとなり、また人生の大きな分岐点になったという[3]。秋に首都リーグベストナインに輝き、同賞を通算4回獲得。大学野球日本代表で3年秋から、東海大では4年から主将を務める。4年時の全日本大学野球選手権大会では15打数9安打、世界大学野球選手権大会でも24打数11安打の成績を残したことでプロのスカウトからは「足はプロでもトップクラス」「大学ではナンバーワンの野手」との評価を受ける[3]。首都大学リーグ通算63試合出場、243打数79安打、打率.325、2本塁打、40打点。

2010年10月28日のプロ野球ドラフト会議千葉ロッテマリーンズオリックス・バファローズの2球団が1位指名し、抽選の結果ロッテが交渉権を獲得。契約金1億円、年俸1500万円で契約した[4]。背番号は、この年限りで引退した堀幸一が20年間着用していた「5」に決まった[5]

ロッテ時代[編集]

2011年、開幕一軍入りし、4月14日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦にて初出場。8回には初打席に立ち、プロ初安打となる三塁打を放った。5月頃には左翼手または右翼手としてスタメンに定着するようになり、6月・7月には月間打率が3割を超えるなど好調な打撃を披露した。8月半ばに扁桃炎によって一時離脱して以降調子を落としたが[6]、最終的にはその年の新人としては唯一、規定打席に到達した。また、新人としては2001年赤星憲広阪神タイガース)以来10年ぶり、パ・リーグおよび球団の新人としては1997年小坂誠以来14年ぶりとなる30盗塁も達成した。

2012年は、オープン戦で1番打者として固定されるなど期待されたものの、調子が上がらず開幕スタメンから外れ、その後は二軍に降格するなど2年目のジンクスを味わうシーズンとなった。しかし、二軍では最高出塁率と盗塁王を獲得した。

2013年は、開幕を一軍で迎え、4月16日の北海道日本ハムファイターズ戦で2年ぶりの本塁打を放つ。シーズン序盤は、主に左投手が先発の時にスタメンで出場するも荻野貴司の復帰後は守備固めでの出場が増える。

2014年は、89試合に出場したが、打率.220と不調に終わった。

2015年は、34試合の出場に終わった。

2016年は、右太ももを痛めた影響で3試合の出場に留まり、ヒットを打つことができなかった[7]。12月8日に背番号を「38」に変更することが発表された[8]

2018年は、7月10日に一軍に再昇格。はじめは代走や代打での出場だったが、20日のオリックス・バファローズ戦で「7番・中堅手」で出場し、シーズン初の猛打賞を記録。さらに22日のオリックス戦、24日の福岡ソフトバンクホークス戦で2試合連続マルチ安打を記録。18試合の一軍出場ながら打率.283を記録した。

2019年は、プロ入り後初めて一軍の試合に出場できないままシーズンを終え、二軍成績も82試合に出場して打率.192、1打点、5盗塁(3盗塁死)という結果に終わった[9]。10月3日、球団から翌年の契約を結ばないことが通告され、トライアウトを受けずに現役引退を示唆するコメントを残した。戦力外通告を受けるまでの数年は怪我に悩まされていたという[10]。一方で、翌10月4日に、千葉ロッテからコーチ就任要請があったほか、他球団から選手としてのオファーがあったことが明かされた[11]。10月13日、2020年より、一軍のコーチに就任することが発表された[12]。11月17日には、ファン感謝デーにおいて引退式が行われた[13]

現役引退後[編集]

2020年から、ロッテの一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐を担当[14]。背番号は81。その後、2022年まで同コーチを、2023年は育成野手コーチ兼二軍走塁コーチを務め[15]2024年からは二軍外野守備兼走塁コーチを担当する[16]

選手としての特徴[編集]

50メートル5.7秒、右打者ながら一塁到達4.09秒を記録する俊足[17]を生かした広い守備範囲が持ち味で、守備走塁に重点を置いているという[18]

打撃では強く柔らかいリストを生かし、広角に鋭い打球を放つ[19]

人物[編集]

主将を務めた世界大学野球でリーダーシップを発揮し、代表チームは周囲から「伊志嶺ジャパン」とも呼ばれた[3]。準決勝でアメリカに敗れた後榎本保監督は会見に一人で出席しようとしたが、自分も行くべきだと考えた伊志嶺も同席して記者の質問に答えている。伊志嶺について、大会の代表メンバーだった斎藤佑樹は「優しくて面白いが、野球に対する姿勢はとても真面目。気配りができる人物」。大石達也は「口ではなくプレーで引っ張るタイプ。信頼できる選手だった」と評している[3]

これまで対戦した中で一番すごいと思った投手には前田健太を挙げている[18]

東洋大学の高橋昭雄監督から、マイケル・ジャクソンに似ているため「マイケル」と命名され、そのニックネームで呼ばれることを希望した[20]

2歳下の弟・大地も翔大と同じく沖縄尚学高から東海大に進み、大学卒業後は千曲川硬式野球クラブに加入、翔大と同じ背番号5をつけている。

プロ野球人生の一番の思い出として、本拠地でプロ初本塁打を放った2011年6月12日の試合後、完成したばかりの自身の応援歌を、大勢のファンと共に初めて聴いたことを挙げている[21]。伊志嶺はこの応援歌を非常に気に入っており、引退セレモニーではファンに感謝を伝えている[21]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2011 ロッテ 126 492 422 52 110 16 6 2 144 21 32 6 27 0 30 0 13 77 3 .261 .329 .341 .670
2012 24 64 60 8 12 2 0 0 14 1 1 1 1 0 3 0 0 14 1 .200 .238 .233 .471
2013 102 161 137 28 32 2 0 3 43 11 8 5 6 0 16 1 2 27 4 .234 .323 .314 .636
2014 89 138 118 27 26 6 1 1 37 8 8 6 8 0 11 0 1 18 3 .220 .292 .314 .606
2015 34 109 86 10 25 3 0 0 28 12 5 0 11 2 10 0 0 10 0 .291 .357 .326 .690
2016 3 2 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2017 52 117 104 12 18 1 1 0 21 4 4 0 4 0 9 0 0 22 1 .173 .239 .202 .441
2018 18 57 46 8 13 2 0 0 15 2 1 2 3 0 6 0 2 10 0 .283 .389 .326 .715
通算:8年 448 1140 975 146 236 32 8 6 302 59 59 20 60 2 85 1 18 178 12 .242 .314 .310 .624

年度別守備成績[編集]



外野












2011 ロッテ 124 282 5 4 2 .986
2012 19 25 0 0 0 1.000
2013 82 91 1 2 0 .979
2014 75 80 0 0 0 1.000
2015 33 66 0 0 0 1.000
2017 33 41 0 0 0 1.000
2018 13 20 0 2 0 .909
通算 379 605 6 8 2 .987

記録[編集]

初記録

背番号[編集]

  • 5(2011年 - 2016年)
  • 38(2017年 - 2019年)
  • 81(2020年 - )

登場曲[編集]

参考文献[編集]

  • 節丸裕一『最強世代1988 田中将大、斎藤佑樹、坂本勇人、前田健太・・・・・・11人の告白』講談社、2011年

脚注[編集]

  1. ^ 『野球小僧』2010年10月号、白夜書房、雑誌18801-10、90-91頁。
  2. ^ ロッテ指名の伊志嶺選手「活躍して沖縄も盛り上がれば」」『朝日新聞』2010年10月29日。2024年3月31日閲覧
  3. ^ a b c d e f g 節丸裕一『最強世代1988 田中将大、斎藤佑樹、坂本勇人、前田健太・・・・・・11人の告白』講談社、2011年。ISBN 978-4-0629-5066-4 
  4. ^ 新人王へ意欲 伊志嶺がロッテと契約」『スポーツニッポン』2010年11月26日。2024年3月31日閲覧
  5. ^ ドラ1、伊志嶺“ミスターロッテ”継承に意欲」『スポーツニッポン』2010年11月21日。2024年3月31日閲覧
  6. ^ ルーキー1年目総括『週刊ベースボール』2011年12月26日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/26, 41頁。
  7. ^ ロッテ伊志嶺550万減「来年、見返すつもりです」」『日刊スポーツ』2016年12月7日。2024年3月31日閲覧
  8. ^ ロッテ 大嶺祐の背番号「11」から「30」に、伊志嶺は「5」→「38」」『スポーツニッポン』2016年12月8日。2024年3月31日閲覧
  9. ^ 2019年度 千葉ロッテマリーンズ 個人打撃成績(イースタン・リーグ)」NPB.jp 日本野球機構。2019年10月3日閲覧
  10. ^ ロッテ 10年ドラ1伊志嶺に戦力外通告、引退示唆 大嶺ら7選手にも」『Sponichi Annex』2019年10月3日。2019年10月3日閲覧
  11. ^ 【ロッテ】戦力外・伊志嶺に来季1軍入閣を要請…他球団から現役続行オファーも届く」スポーツ報知、2019年10月5日。2019年10月6日閲覧
  12. ^ 伊志嶺翔大氏 一軍コーチ就任のお知らせ」千葉ロッテマリーンズ、2019年10月13日。2019年10月13日閲覧
  13. ^ ロッテ伊志嶺翔大は、輝きは失わず。最後は笑顔のヘッドスライディング。」『Number Web』2019年12月2日。2021年12月21日閲覧
  14. ^ 2020年コーチング・スタッフのお知らせ」『千葉ロッテマリーンズ』2019年11月1日。2021年12月21日閲覧
  15. ^ ロッテ、来季のコーチングスタッフを発表」『BASEBALL KING』2022年12月14日。2022年12月14日閲覧
  16. ^ ロッテが来季のコーチ陣を発表 腰椎骨折の小坂誠氏は配置転換…引退の2選手が入閣へ」『Full-Count』2023年11月29日。2022年11月29日閲覧
  17. ^ 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰『プロ野球スカウティングレポート2011』廣済堂出版、2011年、2頁。ISBN 978-4-331-51519-8 
  18. ^ a b 『アマチュア野球』第29号、日刊スポーツ出版社、2010年、雑誌66835-98、15-17頁。
  19. ^ 2010ドラフト 有力候補選手一挙紹介 『アマチュア野球』第29号、日刊スポーツ出版社、2010年、雑誌66835-98、20-21頁。
  20. ^ 伊志嶺のお願い「マイケルって呼んで」」『日刊スポーツ』2010年10月30日。2024年3月31日閲覧
  21. ^ a b ロッテ・伊志嶺コーチがファン感で引退セレモニー「応援歌が大好きでした」」『SANSPO.COM(サンスポ)』2019年11月17日。2021年1月20日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]