伊地知幸介

伊地知 幸介
日露戦争頃の伊地知幸介
生誕 1854年2月3日
日本の旗 薩摩国
死没 (1917-01-23) 1917年1月23日(62歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1879年 - 1913年
最終階級 陸軍中将
墓所 青山霊園
テンプレートを表示

伊地知 幸介(いぢち こうすけ、安政元年1月6日1854年2月3日) - 大正6年(1917年1月23日)は、日本陸軍軍人日露戦争旅順攻囲戦では乃木希典の下で第3軍参謀長を務めた。爵位男爵、最終階級は陸軍中将[1]

経歴[編集]

薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる。御親兵(後の近衛兵)に選ばれて上京陸軍幼年学校を経て、明治8年(1875年)12月に陸軍士官学校に入校。明治10年(1877年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。明治12年(1879年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業(旧2期)。陸士旧2期の同期生には井口省吾大迫尚道田村怡与造豊島陽蔵長岡外史らがいる[2]

明治13年(1880年)にフランス、4年後にドイツ帝国に留学。この間にドイツ参謀総長大モルトケから彼の信頼する参謀将校デュフェ大尉を紹介され戦略戦術の指導を受けているが、これに乃木希典も講義を受ける事になり伊地知が通訳などの世話をしている[3]。 明治22年(1889年)11月、砲兵少佐に進級し、野戦砲兵第1連隊大隊長に就任。日清戦争時には第2軍参謀副長として出征した。その後、大本営参謀参謀本部第1部長、英国駐在武官を務める。

明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級。同年10月、再度参謀本部第1部長となり、以後野戦砲兵監京城公使館付などを歴任。明治37年(1904年)5月には第3軍参謀長に補され、日露戦争における旅順攻囲戦を戦う。明治38年(1905年)1月、旅順要塞司令官。明治39年(1906年)4月に東京湾要塞司令官に転じ、明治39年(1906年)7月、陸士同期生の先頭で陸軍中将に進級。

明治40年(1907年)9月、日露戦争の軍功により男爵を授けられる。明治41年(1908年)12月、第11師団長に親補される[注 1]。明治43年(1910年)11月に待命、明治44年(1911年)11月より病気により休職、大正2年(1913年)1月に予備役。4年後の大正6年(1917年)1月に死去。

日露戦争時[編集]

朝鮮駐在ロシア公使パブロフと伊地知
水師営会見での記念撮影。中央列の最右が伊地知

日露戦争開戦直前の明治37年(1904年)1月、野戦砲兵監であった伊地知は突然本職を免じられ韓国公使館武官となる。日露開戦にあたりロシア帝国の機先を制するため、参謀本部は有為の人物を韓国に派遣して情報任務や特別任務に従事させたが、この一員であった。開戦初頭の大陸進出を容易に行うため、韓国臨時派遣隊(木越旅団)の宿舎の準備などが行われ、臨時派遣隊の到着を翌日に控えた2月8日に晩餐会を開くといった欺瞞行為を実行した。翌日9日の仁川沖海戦の後、臨時派遣隊は無事上陸を果たした。開戦後に生じた、ロシア公使及び公使館付護衛部隊の処理という問題の解決についても、伊地知の尽力が大きかった。伊地知はフランス語が堪能であり、西洋の風俗習慣に精通していたことから、外国人間において特に信任を得ていたという。また当時日韓両国間での難問であった日韓議定書締結問題についても関与しており、2月頃に韓国内の反対派(李容翊)を排除することに成功している[4]。 伊地知の公使館付武官としての任期は二か月のみで、同年3月には帰国し、再度、野戦砲兵監に任じられる。

その後、旅順要塞攻撃のために編成された第3軍 (総司令官・乃木希典大将)の参謀長に就任した(旅順攻略戦の推移と状況は旅順攻囲戦の項を参照のこと)。

第3軍は、大連から遼東半島を西進してゆく過程でロシア軍の防禦陣地との戦闘を幾度も経験し、ロシア軍の防御が堅固であることを十分に認識していた為、伊地知は慎重な態度を取るようになった。

第3軍は7月30日にはロシア軍を要塞内へ追いやり包囲を完成させた。包囲後まもなくの8月4日、満州軍総司令部参謀・井口省吾少将が第3軍司令部を訪問をする[注 2]。 「旅順攻撃ノ時日を短縮スベキコト」を要請する参謀総長・山縣有朋からの書簡を手渡すためであった[5]。 大本営は出来るだけ早く旅順艦隊を処理し監視に拘束されている日本艦隊を自由にしたい、また第3軍を早期に北方戦線に加入させたいという思惑があり、また旅順要塞の攻略を楽観視していたため、「急襲速攻を主張」[6]した。しかし、遼東半島各地での戦闘でロシア軍の堅固な防御を実戦で経験し慎重な態度をとるようになっていた伊地知ら第3軍側は、「急進突撃一挙これを陥るる如きは必敗を免れざる」と頑として拒否した。「井口対伊地知両少将の旅順要塞攻撃意見は絶対に相違したるために、談論逐次激越に陥り、遂には腕力沙汰にも及びかねまじき勢いであったという」と伝えられる[注 3]。 この談論は、計画の時日より三日だけ早めるということで決着した。

包囲後、軍司令部は柳樹房なる場所に置かれた。ここもしばしば敵弾に見舞われる場所であったが、第一回総攻撃にあたっては戦闘司令所は激戦地となった東鶏冠山北堡塁から3kmという場所(団山子東北方高地)にまで進められ、主にここで指揮が取られた。総攻撃の攻撃方法は「強襲法」が選択された。この選択にあたっては、当時、「フォン・ザウエルの強襲戦法」なるものが兵学界を風靡していた事[注 4]が影響していると思われる[8]。旅順要塞は各保塁をコンクリート(当時は仏語のベトンと呼ばれていた)で囲い、堡塁間には塹壕を掘って鉄条網を敷いた防御線を3重に渡って施設した近代要塞で、機関銃、大砲、地雷をもって防禦されており、第一回総攻撃は大損害を被り東西盤龍山堡塁の確保という戦果に留まり失敗に終わった。

総攻撃中止後、柳樹房にて以後の攻撃方法が議論された。軍司令部側は強襲法を取りやめ、兵站参謀・井上幾太郎工兵少佐の提案する正攻法に切りかえる案を提案したが、実戦部隊である各師団代表は強襲法の継続を主張した。議論の決を採るべき立場の伊地知は採決を取ることができず、最終的に乃木の決断によって正攻法の採用で決着した[注 5]

内地では大口径砲を旅順戦に用いることが決定され、二十八糎榴弾砲6門が配属されることになった。これは9月上旬に到着し、10月初頭には試射が行われている。更に6門が増加配属され、中旬に更に6門が増加配属となり、合計18門が旅順攻囲戦に使用されることになった[注 6]

攻囲戦の途中、攻略が遅いことを理由に満洲軍総司令部大本営から第3軍司令部の人事刷新の意見が出されたこともあったが、明治天皇大山巌の反対により却下され、攻略戦の終結まで第3軍参謀長として任務を全うした。攻略戦後は旅順要塞司令官に任命され軍参謀長としての職務を終えた。日露戦争終結後の国内凱旋は、北方より帰還する第3軍司令部に同道した。

特科出身者の師団長就任に関する是非論[編集]

伊地知が東京湾要塞司令官であった明治40年(1907年)11月頃、師団長に転ずる事が取りやめられたことがある。この際に陸軍大臣・寺内正毅井口省吾少将との談話の中で「元来特科出身将官ヲ師団長ニ為シテ可ナルヤ否ヤニ就テハ未解決問題ニシテ他日ニ決セラレサル可カラス云々」と語ったということから、この是非論が持ち上がった。井口は当事者である伊地知を訪問し意見を聞き、また上原勇作川村景明長岡外史野津道貫奥保鞏らと意見交換したうえで山縣有朋の意向を尋ねている。

その後、「兵科ヲ選バズ適任者ヲ以テ補スルヲ可トスルハ勿論」という結論となるのだが、そもそも、寺内が特科出身者の師団長任命を避けたがっていたということ自体が大いに疑問であり、井口の一人相撲であった可能性が高いとされている[9]

評価[編集]

伊地知の評価には否定・肯定両論が存在している。

否定側の考えを代表するものとして、昭和40年代に新聞連載され後に単行化された司馬遼太郎小説坂の上の雲』での描写が挙げられる。この中では、伊地知は作戦・指揮能力に欠けた無能者として否定的に評価され、これが一般的に広く知られている。総じて、旅順要塞攻撃において融通の利かない硬直した作戦指揮を行い、損害を拡大させた点が批判されており、これは伊地知個人への批判に留まらず、このような人材を参謀長に据えたのは、閨閥・藩閥調整・情実等のお手盛り人事[注 7]の弊害であるという批判に拡大される事が多い。また、戦後に日露戦争の戦功により男爵となったことも総花的人事であると批判されている。また大将に昇進せずに中将で退役した点を挙げて、伊地知の評価はさほどのものではなかったとする指摘もある[10]

このような否定的評価は、2000年代以前の出版物で広く記述されていた[注 8]

近年の研究調査によって、上記のような否定的評価は、下記のように論拠を以って否定する意見も見られる。

  • 第3軍参謀長への任命に関して日露戦争勃発当時の伊地知の評価を客観的に見れば、英独仏への数度の海外留学を経験した人材であり、また砲兵科出身であり、日清戦争時の旅順攻略戦に於いて現地を踏んだ経験があり(当時第2軍参謀副長)、さらに欧州留学中に乃木希典と懇意であった。これら諸々を考慮すれば、伊地知が第3軍参謀長に任じられるのは何の不思議もない[13][注 9]
  • 2011年に伊地知の日誌など一次史料や未翻刻史料が研究されはじめると、伊地知は日露戦争時のみならず、日清戦争時にも情報将校として活動しており彼の報告が開戦への重要な材料となったことや、日露戦争開戦直前・直後期の韓国公使館付時代の役割などの功績を評価すれば、伊地知が男爵位をもらったことは妥当であると判断されている[14]
  • 旅順に於ける作戦・指揮能力の評価については、第3軍が要塞攻略に固執したことによって、旅順艦隊の無力化という目的も達成されていたことになる[15]
  • 当時は第6旅団長として勇戦し、後に第3軍参謀長となる一戸兵衛少将は戦後の述懐で、「終始軍司令官は何故情況に適せぬわからぬ命令を下達したものだろうかと疑ったが、後に第三軍参謀長に栄任後、機密作戦日誌などにより当時の事情を詳らかにし、初めて成程と氷解した」[16]と述べている[注 10]

伊地知の評判が悪かったのは、以下の要因が示唆されている。

  • 乃木希典が日露戦争後に軍神・聖将として祭り上げられたことから、乃木への批判も併せて参謀長であった伊地知に批判が集中したこと[10]
  • 旅順攻撃失敗の原因は弾薬の不足であるとして、総司令部や大本営に対して厳しく補給を請求したことが、陸軍内において、伊地知の評価を下げた。大正昭和に至るまで、日本陸軍は日露戦争の経験と第一次世界大戦の観察から、日本の貧弱な国力と工業力をもっては近代戦の莫大な消耗に到底耐え得ないという判断から、精神力を基盤とする白兵戦力、指揮官の意志力、統率の妙などの無形的戦力に大きな期待を寄せることになる[18]

軍参謀長としての評価であるが、優柔不断[19][注 11]な点が批判されている[20]

栄典・授章・授賞[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この少し前(明治40年(1907年)11月頃)に、特科出身者の師団長就任に関する是非論(後述)が持ち上がった。
  2. ^ 総司令部は既に北方に進んでおり、井口は病気のため大本営に残っていたのを総司令部に合流する途中に立ち寄った。
  3. ^ 後年、井口は大本営が早期攻略を迫った為に第一次総攻撃で大損害を被った事を大本営の誤りと認めている[7]
  4. ^ 「偕行社記事臨時第28号」(明治39年2月発行)には、「1885年地雷弾の世に現出せし以来、多数の戦術家殊に砲兵科将校の多くは、未来は砲兵の射撃と歩兵の勇敢なる突撃とにより要塞を陥落せしめ得べく、往時の如く対壕及坑道を掘開し徐々正攻を企つることを敢えて要せざるものと信ずるに至れり。就中フォン・ザウエル将軍の説に...」との記述がある。
  5. ^ これにより第二次総攻撃以降は第三軍の損害は著しく低下し露軍守備隊の方がそれを上回る様になった。完全包囲された旅順に対し消耗戦を仕掛ける事で徐々に追い詰めた第三軍は要塞正面への攻勢と、続く203高地を巡る戦いで露軍の予備兵力を枯渇させて反撃の手を奪い、要塞正面の突破に成功し降伏に追い込んだ。
  6. ^ 『機密日露戦史』(p.208-209)においては、当時参謀次長であった長岡外史は、総攻撃失敗ののち第3軍に「攻城用トシテ28センチ榴弾砲4門ヲ送ル準備ニ着手セリ、2門ハ隠顕砲架、2門ハ尋常砲架ニシテ9月15日頃迄ニ大連湾ニ到着セシメントス。意見アレバ聞キタシ」と電報したと記しているが、これは上記経過と相違する。更に長岡は、伊地知から、巨砲到底間に合わず送るに及ばずとの返電があったと記している。それに対したとえ不用になっても構わぬから送ると電報したところ、伊地知から「ソノ到着ヲ待チ能ワザルモ今後ノタメ送ラレタシ」との返電があったと記している。
  7. ^ 当時の四個軍司令官・参謀長の8人中6人が薩長出身者で占められ、満州軍総司令官・総参謀長も薩長出身者であった。
  8. ^ 例えば寺田近雄は、大連近くの剣山山頂において満州軍・第3軍・連合艦隊の首脳が集まり会議が開かれ、その席上で伊地知は海軍からの重砲提供を断ったと述べており[11]、上田滋は「大山元帥の甥の伊地知某という砲兵出身の男だが、これが石頭でおよそ近代兵学を知らない」としている[12]
  9. ^ また桑原は「平時ならばとにかく一国の存亡を賭けた大戦争で、一軍の安危を担う将帥の人事を、まるで自民党の派閥人事と同一視している司馬氏の浅薄な考えは、彼独特の偏見と独断から生まれたもので、ただ滑稽というより他に言いようはない」と藩閥調整人事であるという司馬の見方を厳しく批判している[13]
  10. ^ この述懐が「旅順戦の最中は司令部に疑問を持つこともあったが、参謀長になり作戦日誌を読み返して、当時の司令部の作戦指導は妥当だったと得心した」というように、『成程と氷解』を『妥当だったと得心』と変更して紹介されている[17]
  11. ^ 長南 2012, p. 109によれば、優柔不断の根拠として、次のような当時の関係者の見解が列挙されている。「気の長い人で、容易に決定を与えない」(井上幾太郎)「事に躊躇逡巡して決断力に乏しい」(佐藤鋼次郎)「伊地知等が優柔不断の説を講じ」(山縣有朋)。

出典[編集]

  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、123頁。 
  2. ^ 秦 2005, pp. 269–288「期別索引」
  3. ^ 歴史街道 & 2011-11, p. 41.
  4. ^ 長南 2011, pp. 62–65.
  5. ^ 原書房 1994.
  6. ^ 『長岡文書 書簡・書類篇』
  7. ^ 別宮 2005.
  8. ^ 『井上幾太郎伝』(昭和41年発行)より
  9. ^ 原書房 1994, pp. 54–55斎藤聖二「解題 ―井口省吾小伝-」
  10. ^ a b 歴史群像S59 1999, p. 104桐野作人記述
  11. ^ 成美堂出版 1998.
  12. ^ 歴史群像S24 1994.
  13. ^ a b 桑原 2000.
  14. ^ 長南 2011, p. 65.
  15. ^ 成美堂出版 1998, p. 88.
  16. ^ 『機密日露戦史』p.228
  17. ^ 歴史街道 & 2011-11, p. 49無記名コラム
  18. ^ 前原透『日本陸軍用兵思想史』(天狼書店、平成6年)405P
  19. ^ 長南 2012, p. 109.
  20. ^ 長南 2012.
  21. ^ 『官報』第261号「叙任及辞令」1884年5月15日。
  22. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  23. ^ 『官報』第3396号「叙任及辞令」1894年10月22日。
  24. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  25. ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
  26. ^ 『官報』第6707号「叙任及辞令」1905年11月06日。
  27. ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
  28. ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
  29. ^ 『官報』第1342号「叙任及辞令」1917年1月25日。
  30. ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
  31. ^ 『官報』第2376号「叙任及辞令」1891年6月3日。
  32. ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
  33. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  34. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  35. ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
  36. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  37. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  38. ^ 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
  39. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。

参考文献[編集]

(書籍)

  • 井口省吾文書研究会 編『日露戦争と井口省吾』原書房、1994年。 
  • 桑原嶽『名将乃木希典』中央乃木会、2000年。 
  • 長南政義 著「坂の雲に描かれなかった謀将 伊地知幸介」、ゲームジャーナル 編『坂の上の雲5つの疑問』並木書房、2011年。ISBN 4890632840 
  • 『日露戦争第三軍関係史料集-大庭二郎日記・井上幾太郎日記で見る旅順・奉天戦-』国書刊行会、2014年。ISBN 4336056382 
  • 長南政義 著「伊地知幸介」、歴史群像編集部 編『日露戦争兵器・人物事典』学研パブリッシング、2012年。 
  • 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』並木書房、2005年。 
  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 

(雑誌・ムック)

外部リンク[編集]

軍職
先代
柴野義広
野戦砲兵監
第4代:1902年5月5日 - 1903年1月22日
次代
豊島陽蔵
先代
-
旅順要塞司令官
初代:1905年1月9日 - 1907年4月1日
次代
税所篤文
先代
多田保房
東京湾要塞司令官
第10代:1907年4月16日 - 1908年12月21日
次代
内山小二郎
先代
土屋光春
第11師団
第6代:1908年12月21日 - 1910年11月30日
次代
依田広太郎
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
伊地知(幸介)家初代
1907年 - 1917年
次代
伊地知精