京谷昭夫

京谷 昭夫(きょうや あきお、1936年(昭和11年)1月6日[1] - 1996年(平成8年)5月6日[1])は、日本農水官僚水産庁長官、食糧庁長官、農林水産事務次官日本中央競馬会理事長。青森県出身2人目の事務次官[1]

人物[編集]

青森県八戸市生まれ[1]。八戸市立第二中学校、青森県立八戸高等学校東京大学法学部を経て1958年に農林省入省[1]。三重県農政課長、農林水産省畜産局長、水産庁長官、食糧庁長官などを経て1992年事務次官に就任。退官後、1995年日本中央競馬会理事長に就任。在任中には日本中央競馬会としてはじめての女性ジョッキーを誕生させるなどの功績を残した。また、スーパーオトメが厩舎から逃げ出して首都高速道路を走った問題などの収拾に追われた。中央競馬アラブ競走廃止などの大問題にも決着をつけた。だが在任中の1996年に入院、同年5月6日心不全のため千葉県鴨川市亀田総合病院で死去、享年60。護国寺にて中央競馬会葬が行われた[2]

1980年代の牛肉輸入自由化交渉を担当。タフネゴシエーターぶりを発揮し、「ダース・ベイダー」の異名をとった[3]。また、コメの輸入自由化問題でも日本側の中心的存在だった。

経歴[編集]

  • 1958年4月 農林省入省
  • 1973年5月 大臣官房参事官兼構造改善局
  • 1973年9月 内閣審議官兼任(国土総合開発推進本部部員)
  • 1974年2月 栃木県農務部長
  • 1976年11月 林野庁業務部経理課長
  • 1978年8月 畜産局食肉鶏卵課長
  • 1981年1月 大臣官房予算課長
  • 1984年6月 〃 審議官兼農蚕園芸局
  • 1985年8月 水産庁海洋漁業部長
  • 1986年6月 畜産局長
  • 1989年7月 水産庁長官
  • 食糧庁長官
  • 1992年 農林水産事務次官
  • 1994年 退官

著作[編集]

  • 「わが国捕鯨の進路」(「勇魚」1990年第2号)
  • 「業界再編整備し、経営基盤の強化を」 (「水産界」1990年1月)

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 東奥日報社 2002, 206頁.
  2. ^ 優駿』1996年6月号 通巻630号 4頁
  3. ^ キヤノングローバル戦略研究所

参考文献[編集]

  • 「真夜中のファクス 京谷昭夫さん」『現代農政の証言』(後藤康夫農林統計協会、2006年)
  • 東奥日報社 編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。ISBN 4885610656 
  • 「農林水産省名鑑」農林出版社,、1990年
  • 優駿』 1996年6月号 通巻630号、日本中央競馬会、1996年6月1日。