京姫

京姫(きょうひめ、1626年8月7日寛永3年6月16日) - 1674年9月22日延宝2年8月23日))は、尾張藩初代藩主・徳川義直の長女。広幡忠幸の正室。母は津田信益の娘であるおさいの方(貞松院)。幼名は鶴、後に岩、京。名は絲子(しこ)。法号は普峯院

生涯[編集]

1626年寛永3年)、名古屋城で誕生した。幼名はお鶴、ついでお京。不幸にも足がやや不自由であったが、母に似て美しく、和歌・管弦をよくし、書画にも巧みで、父義直から溺愛された。ために他国に嫁ぐことが極端にためらわれ、いたずらに婚期を逸していた[1]

1649年慶安2年)12月11日、八条宮智仁親王の三男でる幸丸と婚約する。翌3年(1650年)に父義直が没するが、その遺志により、1651年(慶安4年)、幸丸を名古屋に迎え、無事婚姻が成った。京姫は相次いで5人の女子を産んだ。長女・新姫は甥徳川綱誠の正室となった。次女以下4人は、皆兄徳川光友の養女となり、大名家に嫁いだ[2]

幸丸は結婚前に元服して忠幸を名乗っていたが、1663年寛文3年)、清華に列し、1000石を支給され、広幡忠幸となった。この時以降、忠幸は京に在って来宅しなかった。忠幸は京に愛人がおり、庶子をもうけたが、尾張家には報告しなかった。忠幸の死後にこれを知った光友は怒って、広幡家と義絶した[3]

忠幸が1669年(寛文9年)に没すると落飾し、普峯院と号した。1674年延宝2年)、死去。享年49。墓所は愛知県名古屋市政秀寺[4]

子女[編集]

次女以下は兄徳川光友の養女となる。

脚注[編集]

  1. ^ 『姬君の華麗なる日々』(朝日新聞社2005年
  2. ^ 『日本女性人名辞典』(日本図書センター1993年
  3. ^ 『歴史読本』(新人物往来社2009年
  4. ^ 『徳川諸家系譜』(続群書類従完成会1970年