井上仁吉

井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治元年11月4日[1][2])- 1947年(昭和22年)3月14日[1][2])は、日本の応用化学者。東北帝国大学総長、工学博士。号・青崖[2]

経歴[編集]

蘭方医・井上勤所の二男として京都に生まれる[2][3]。京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1892年(明治25年)第一高等学校を卒業[1][3]。1896年(明治29年)帝国大学工科大学応用科学科を卒業し[1][3][4]、横浜瓦斯に入社[2]。1899年(明治32年)東京帝大工科大学助教授に就任した。1903年(明治36年)ドイツのドレスデン大学に私費留学し、日露戦争のため1905年(明治38年)に帰国し東京帝大教授に昇任し応用化学第1講座を担任した[1][2][3]。1907年(明治40年)東京帝大から工学博士を授与された[1]

1913年(大正2年)東北帝国大学理科大学化学科の講師を兼任[3]。1918年(大正7年)東北帝大の兼任教授となり、翌年に工学部が新設されると化学工学科教授、初代工学部長に就任した[1][3]。「理魂工才」の教育理念によって授業、研究に取り組んだ[3]。1928年(昭和3年)6月、第5代東北帝国大学総長に就任し、1931年(昭和6年)6月まで在任し依願免官となり退官した[1][2][3][4]。翌月、東北帝大名誉教授となる[3]。その後、東京に移り、東京工業試験所で研究を続けた[3]。1933年(昭和8年)工業化学会(現日本化学会)の会長に就任した[3]

クリスチャンで1919年(大正8年)に死去した娘の影響により、日本聖公会の信徒となり、東京諸聖徒教会、仙台基督教会に所属した[2]。1928年5月、東北帝国大学基督教青年会(現:東北大学YMCA渓水寮)理事長に就任[5]。1933年7月、香蘭女学校(現香蘭女学校中等科・高等科)校長に就任[2]太平洋戦争中にミッションスクールに対する圧力を受け1944年(昭和19年)6月に校長を辞任した[2]

著作[編集]

  • 『工業瓦斯』〈工業叢書〉博文館、1906年。

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 『事典 日本の科学者』87頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本キリスト教歴史大事典』125頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『宮城県百科事典』62頁。
  4. ^ a b c 『大衆人事録 改訂13版』45頁。
  5. ^ 東北大学キリスト教青年会『東北大学キリスト教青年会七十五年誌』東北大学キリスト教青年会、2003年、25頁。OCLC 676617117http://worldcat.org/oclc/676617117 
  6. ^ 田岡典章『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

参考文献[編集]

  • 板倉聖宣 監修『事典 日本の科学者 : 科学技術を築いた5000人』日外アソシエーツ、2014年。
  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。
  • 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 改訂13版』帝国秘密探偵社、1940年 。