五日市鉄道

五日市鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
東京府西多摩郡五日市町館谷287番地[1]
設立 1922年(大正11年)5月7日[1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、砂利採取、不動産 他[1]
代表者 専務 山内武雄[1]
資本金 2,000,000円[1]
発行済株式総数 40,000株(内新株20,000)[1]
主要株主
特記事項:1940年(昭和15年)現在[1]
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五日市鉄道(いつかいちてつどう)は、東京府北多摩郡立川町(現在の立川市)と西多摩郡大久野村(現在の日の出町)及び同郡五日市町(現在のあきる野市)を結ぶため建設された鉄道路線及びその運営会社である。南武鉄道(南武線)と合併した後に国有化され、現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)五日市線となった。

歴史[編集]

前史[編集]

1889年(明治22年)甲武鉄道立川駅-八王子駅間を開業し、1894年(明治27年)に青梅鉄道が開業すると五日市地区の人々が都心へ向かうには一つは八王子駅まで約4里を馬車や人力車でいき甲武鉄道に乗る方法ともう一つは福生駅まで約3里を徒歩や人力車で途中多摩川の渡しを渡って青梅鉄道に乗り立川駅で甲武鉄道に乗り換える方法があった[2]。やがて五日市に鉄道を敷く計画が立案された。神王鉄道は1897年(明治30年)4月に設立され、路線は神奈川県神奈川-都筑郡川和村-南多摩郡八王子町-西多摩郡五日市町-同郡青梅町を予定していた[3]が、1898年(明治31年)6月に申請却下されている[4][5]。また地元有志による秋川流域の電気事業(のち秋川水力電気)は1903年(明治36年)に作成した仮契約書で発電所設置後5年以内に五日市町を起点とし八王子停車場に至る電気鉄道敷設工事に着手することがうたわれていたが[6]、本体の電気事業が日露戦争による事業中断や戦後不況などで計画が大幅に遅れていたため立ち消えとなった[7]。また1918年(大正7年)の五日市町役場会議録には八王子への鉄道敷設の請願が掲載されていた[8]。1920年(大正9年)3月に五日市町の石川虎一郎は五日市-八王子間で乗合自動車業(五王自動車[9]を開始し、続いて五日市より福生、大久野、青梅までの路線を開通させ、乗合馬車や人力車を駆逐した[10][2]

秋川水力電気と五日市鉄道[編集]

鉄道敷設申請、たび重なるルート変更[編集]

地元有志による秋川流域の電気事業計画は1916年(大正5年)に秋川水力電気株式会社を設立して[11]、12月に送電が開始された[† 1]。五日市町長岸忠左衛門[† 2]と増戸村の山林資産家の小机三造[† 3]が会社設立の推進役となり、織物買継商で五日市銀行頭取[12]の土屋常七[† 4]の積極的な出資によるものであった。電気事業は順調で予想を上回る申し込みがあり毎年増配を続けていた[13]

1919年(大正8年)4月に土屋常七の娘婿[14]であり秋川水力電気社長の紅林七五郎[15]ほかにより軽便鉄道敷設願を提出した。発起人15人のうち10人は立川-五日市間の沿線居住者で資産家層であった[16]。そのときのルートは中央本線立川信号所より分岐する専用鉄道(多摩川砂利木材鉄道[† 5])拝島終点埼玉街道付近を起点として北多摩郡拝島村、西多摩郡熊川村東秋留村西秋留村増戸村を経て五日市町までと増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至る路線であった。そして起点から多摩川砂利木材鉄道専用線、中央本線貨物支線を介して中央本線に乗り入れて立川駅に連絡することを希望していた。しかし鉄道院は実地調査した結果このルートに異議を唱え、青梅鉄道拝島駅に起点を変更するよう求めた[† 6]。その理由として最寄り駅である拝島駅にすれば建設費が軽減できること、青梅鉄道は余力があり輸送力は問題ないことをあげた。それに対し1920年(大正9年)3月に五日市鉄道が出した起点変更願いでは起点を立川駅に変更して青梅鉄道の南方を通るルートをあげており青梅鉄道を利用しないことに固執していた。しかし結局同年8月には鉄道院の指示通り起点を拝島駅に変更し、1921年(大正10年)7月に鉄道免許状が下付された[16]

資金難、会社存亡の危機[編集]

1922年(大正11年)5月に創立総会が開かれ五日市の名士である内山安兵衛[† 7][17]が取締役社長に就任。岸忠左衛門、小机三造、紅林七五郎ら秋川水力電気関係者が役員となった[18]。沿線町村長をはじめとして有力者を巻き込んだ運動により2万株の割当も応募申し込みが殺到するほどであった[19]。しかし実際に始めてみると起業目論見では用地買収費97,400円であるのに買収総額(1922年(大正11年)11月時点)は243,000円。難工事のため予算の1/4を計上した多摩川橋梁[19]は237,600円のところ石川島造船所で製造した橋桁代金だけで187,500円。土木費に至っては53,000円が380,000円となり当初の予算を大幅に超過した[20]。しかも1920年の戦後恐慌により株金の徴収[† 8]が滞っていた。やむなく発起人たちが未払いの株金を負担し1923年(大正12年)3月に工事に着手したものの9月に発生した関東大震災が追い打ちをかけた。小机らは土地売主に代金支払い遅延を詫びにまわり、資金調達に奔走するなどしたが、とうとう川崎銀行より融資10万円を受けるため一部の株主の反対を押し切り担保として秋川水力電気の全資産を提供することになった[20]

拝島-岩井間開業[編集]

浅野セメントの経営支配[編集]

1910-1920年代は日本のセメント生産が急増していた時期であった[21]。浅野セメント(浅野財閥)は関東地方に深川工場と1917年(大正6年)に操業開始した川崎工場を所有しており、川崎工場用の原料の石灰石は青梅鉄道沿線より調達していた[22]。しかし石灰石採掘販売を兼業していた青梅鉄道は諸般の事情[† 9]から採掘量が伸び悩んでいた。そのため浅野セメントは直営の石灰石採掘を決断し1920年(大正9年)に青梅鉄道より二俣尾の雷電山及び日向和田での採掘権を買収した。ところが主力採掘場としていた雷電山の石灰石の埋蔵量がさほどではないらしいことが判明したため[† 10]、やむなく代替の採掘場をさがすこととなった。そして大久野村の勝峰山の石灰石の埋蔵量が豊富であることを突き止めた。ただ勝峰山は青梅鉄道から離れており新たに輸送手段を確保する必要があった。そこで俎上に挙げられたのが計画中の五日市鉄道であった。そもそも勝峰山までの路線を計画したのは発起人たち自らで石灰石資源開発を目論んでおり[23]、発起人に浅野セメント関係者の名前はなかったが[24]、1922年(大正11年)12月の第一回株主総会で浅野泰治郎[25]が取締役に就任し泰治郎名義で1000株所有の大株主となった[16]

ところが資金不足で完成が危ぶまれていたにもかかわらず浅野セメントは小机らの再三の面会要請に応じなかった[26]。それは地元が石灰採掘権を手放すことに抵抗し土地を売らず、直営を目指す浅野セメントと対立していたためであった。そうしている間に秋川水力電気全資産を担保にするまで追い詰められてから、ようやく浅野セメントは援助をすることになった[27]。1924年(大正13年)1月に五日市鉄道と浅野セメントとの間で結ばれた契約は浅野セメントは総計3000余株を出資する。5万円を出資する。大久野駅、岩井駅から採掘場に至る引込み線の建設費用10万円を負担する。というものであったが、附帯条件として重役2名を送り込み、石灰山をふくむ大久野地区の土地買収の責任の一切を五日市鉄道が引き受けるという厳しい条件がつけられていた[26]。こうして浅野セメントは同年5月までに発行株式2万株中約5千株を取得、6月には金子喜代太(浅野セメント取締役)[28]と舟塚芳次郎[† 11]が取締役に就任した[23][29][† 12]。なおこの契約後の4月に小机が脳溢血のため死亡した[27]

ようやく資金の目処はつき、建設中止の危機は避けられたが、さまざまな困難が待ち受けていた。大久野村の土地買収では土地収用法の適用をうけることにしたが所有者が行政訴訟をおこしたため長い係争の末に五日市鉄道の主張は認められたが、武蔵岩井への開通は遅れることになった[30]。また雷電山及び日向和田での採掘権を売却した青梅鉄道は浅野セメントが勝峰山の石灰石採掘にシフトされると貨物輸送が減少するばかりでなく五日市鉄道が拝島から立川に延長する(後述)と勝峰山の石灰石輸送も得られなくなる可能性がでていた。そのため青梅鉄道は勝峰山の採掘予定地に隣接した未買収用地約4町2反を買収しそれを浅野セメントに転売する見返りに採掘した石灰石の輸送を青梅鉄道経由にするよう要求した。浅野セメントは要求を飲む代わりに割引運賃を求めることにし1925年(大正14年)7月に売買契約が成立したが将来も青梅鉄道に石灰石の輸送を担わせることの言及は避けた[31]

大株主の変遷
1922年下期 1923年上期 1925年下期 1927年上期 1929年上期 1933年上期 1937年上期
内山安兵衛△ 800 1,000 1,000 2,000 1,000 1,000
小机三造△ 800 1,000
小机武△ 500 1,000
岸右鉅△[† 13] 800 800
紅林七五郎△ 500
浅野泰治郎 1,000 3,245 12,735 2,000
金子喜代太 1,000 2,000 2,000 2,000
舟塚芳次郎▲ 1,000 2,000 1,000
浅野良三 1,000 2,000 2,000
浅野総一郎 2,000 2,100
浅野セメント▲ 2,125 10,860 12,760 25,420
総株数 20,000 20,000 20,000 40,000 40,000 40,000 40,000
株主数 246 246 271 272 272 259 257
  • △は西多摩郡在住▲は浅野セメント関係者
  • 「五日市鉄道における大株主の変遷」『日本の地方民鉄と地域社会』115頁より西多摩郡在住者と浅野セメント関係者のみ抽出

開業[編集]

五日市鉄道(武蔵岩井-拝島間)路線図
路線は桑畑の中を一直線に敷設され、秋川沿いにある集落からは離れていた

拝島停車場への連絡工事は用地買収に手間取り工事が遅れたため熊川寄り200mの雑木林の中に仮停車場を設置し1925年(大正14年)4月に拝島仮停車場 - 五日市間で旅客運輸営業を開始した[32][33]。5月になり拝島駅で青梅鉄道と接続し、9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。1日6往復(7月から7往復)運転であった[19]。路線は秋留台地上を東西一直線に敷設され、多摩川支流の秋川沿いにある集落からは遠く周囲は桑畑で囲まれていた[34][† 14]

鉄道開通は地元に変化をもたらした。秋川谷は林業が盛んでかつては大量の材木を秋川、多摩川を筏で下り六郷で陸揚げしていたがそれがなくなった[35]。教育面ではそれまで金持ちの子息は東京市内や近郊に家を借りてそこから学校にかよわせ一般の人たちは高等小学校どまりだったのが鉄道開通後は府立二中(現在の東京都立立川高等学校)に通えるようになった[36]。工事の際に多数の土器が発見されたが、その後の考古学研究につながっていった[19]。また西秋留村牛沼の篤志家が私費で吉野桜を買い入れ東秋留から岩井の各駅に植え付け昭和20年代には盛大に咲き開いたという[19]。もっとも普段は乗客が少なく客車定員42人をもじってしじゅう2人といわれたが[37]、正月の拝島大師のときは参拝客を無蓋車に載せて多摩川の鉄橋を渡る時は冷たい風と溢れるような人混みの中しがみつきあったという[38]

勝峰山の開鉱着手は1926年(大正15年)2月からされ、浅野セメント川崎工場への石灰石輸送は1927年(昭和2年)3月より開始された[39]。五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれた[40]。営業成績は不況の影響により芳しくなく政府補助金を受けながら毎期赤字を計上していた[41]。その赤字の補填は内山、小机武、池谷精一の山持ち重役らの個人補償で補われていた[42]。また1926年(大正15年)3月に岸忠左衛門が脳溢血で倒れ辞職した[36]

立川延長と南武鉄道連絡[編集]

立川延長出願[編集]

五日市鉄道は岩井-拝島間の免許状が下付された1年後の1922年(大正11年)11月に一旦は取り下げた拝島駅-立川駅間の延長敷設願いを提出した。それによると拝島駅で接続する青梅鉄道は現時点で輸送力が膨満状態であり、沿線の石灰山より採掘した石灰石、搬出した川砂利の輸送は日々増加している。五日市鉄道で輸送する勝峰山の石灰石や多摩川の砂利輸送を青梅鉄道に担わせることは不可能であり拝島駅-立川駅間に独自の路線が必要であると主張し[43]、「当線カ立川ニ於イテ直接省線ニ連絡スルハ秋川ノ水源地方ヨリ五日市ヲ通過シテ多摩川ニ達スル沿線地方ノ人民カ非常ニ熱望シ居ルハ勿論ニシテ拝島ヨリ立川ニ至ル沿道ノ住民モ亦非常ニ渇望シ居ル所ナリ」としてそれは明治時代の青梅鉄道建設に際し「鉄道ハ煤煙ノ為メ地方産業ニ有害ナリトノ迷執ニ捕ラワレ、線路ヲバ特ニ人家稠密ノ区域ヨリ遥カ後方ヘ駆逐去リシガ、今日ニ及ンデハ停車場ヘ達スルノ道遠クシテ不便極マリナキ為メ大イニ後悔シ[† 15]」として沿線住民は五日市鉄道が人家沿道を通ることを希望しているとしている[44][† 16]

しかし出願で述べている青梅鉄道の輸送力が問題ならば青梅鉄道の株主でもある浅野セメントが増資を負担し複線化[† 17]すれば解決できる話で、そのほうが建設費も抑えられる。あえて新線を敷設するのは浅野セメントが青梅鉄道の石灰石輸送に不満を持っていたとみられる[16]

さらに1923年(大正12年)12月に五日市鉄道と南武鉄道は立川駅で接続連絡したい旨の許可申請書を提出している。これは浅野泰治郎が筆頭株主である南武鉄道と接続できれば勝峰山から採掘した石灰石を川崎工場まで省線を使わずに一貫輸送できるからである[43]。1924年(大正13年)2月に五日市、南武両鉄道の鉄道免許状は同日に下付された[45][† 18]

開業[編集]

五日市鉄道(拝島-立川間)路線図、1935年
当初は拝島駅接続ではなく多摩川沿いの貨物線と接続し中央本線に乗り入れ立川駅へ行く計画であった

1929年(昭和4年)9月に工事に着手し、困難な工事もなく1930年(昭和5年)7月に拝島駅-立川駅間が開業した[44]。この区間は各集落ごとに駅を設けており駅間距離が短かった[46]。立川駅へは西側で中央本線を乗り越して南側にある南武鉄道線と直結する配線をとった[47]そして同じホームの南側を南武鉄道が、北側を五日市鉄道が使用した[44]。ガソリンカーが投入されスピードアップと増便がされた。なお開通に先立ち青梅電気[† 19]、五日市両鉄道は「立川拝島間運輸協同ニ関スル協定書」を結んでいる。「客貨ノ争奪ヲ避クル為メ協定運賃ヲ実施スル」として立川駅-拝島駅間の運賃は従来どおり16銭とする。またこの区間を通過するだけの乗客の運賃収入は青梅電気側9割五日市側1割と取り決めた。開業してみると青梅電気鉄道は旅客人員3割、同運賃2割減、貨物の数量7割減であった[48]

ところで1927年(昭和2年)より開始した石灰石の川崎工場への輸送は早くも方針の転換がされることになった。それは関東大震災後の需要増を期待していたところ復興事業が低調のうえ業者間の競争により供給過剰になりセメントの価格が下落、コスト引き下げが求められる事態が発生。最終的には勝峰山の隣に最新設備を備えた西多摩工場を建設することになった[† 20]。この工場は1929年(昭和4年)5月より操業を開始し[49]、石灰石は採掘場からインクラインベルトコンベアで工場に運ばれるようになった[50]。そのため五日市鉄道の主な役割は石灰石輸送から製品であるセメント輸送と原料の石炭の搬入に移行することになった[51]。一方南武鉄道は1929年(昭和4年)12月に立川延長開業し、1930年(昭和5年)4月11日に浅野セメント川崎工場向け石灰石輸送を開始した[52]。さらに1931年(昭和6年)11月に青梅電気鉄道西立川駅接続し石灰石輸送体制を整備したものの、川崎工場がセメント連合会で協定された操業短縮の重点対象工場となり1930年(昭和5年)11月より大幅減産したため[† 21]南武鉄道は大打撃を受けることになった[† 22][53]

砂利輸送[編集]

発送貨物(トン)[54]
年度 多摩川
→武蔵多摩川
拝島多摩川
1926 1,720
1927 4,535
1928 10,101
1929 2,530
1930 80
1931 125
1932 - 14,501
1933 162 10,974
1934 - 16,156
1935 15,283

東京や横浜向けの砂利の供給はほぼ関東一円の河川から採取される川砂利によったがとりわけ多摩川と相模川が群を抜いて大きかった[55]。東京周辺では1907年(明治40年)開業した玉川電気鉄道がはじめて砂利輸送を目的にした鉄道とみられ[55]、大正末期から昭和初期にかけて多数の砂利鉄道が開業した[† 23]。多摩川の砂利採取に深くかかわっていたのが重役の紅林七五郎であった。先代の徳五郎が甲武鉄道線の多摩川橋梁付近から福島村までの砂利専用線を敷設したのが紅林家と多摩川の砂利採掘業のはじまりでこの砂利専用線は甲武鉄道が買収したのち国有化され中央線の支線となった。七五郎は東京市の砂利採掘の委託をされ、さらに1918年(大正7年)に砂利専用線を出願しているが、のちの多摩川砂利木材鉄道であった[56]。五日市鉄道も多摩川の砂利輸送のため1926年(昭和元年)7月に多摩川東岸に多摩川駅(→武蔵多摩川駅)を[55]、1931年(昭和6年)12月に貨物線を敷設し拝島多摩川駅を開業した[21]。しかし不況により砂利の需要が落ち込み1930年(昭和5年)以降は関東の砂利業者は2/3に減少しており[57]、生産量の大きかった多摩川では乱掘のため川床の低下による橋脚崩壊の恐れや用水取り入れが不可能になるなど治水上の障害がおこったため1934年(昭和9年)に機械掘り禁止、1936年(昭和11年)新規採掘船禁止と採取制限が行われた[58]

行楽客輸送[編集]

当初ふるわなかった旅客輸送であるが、多摩地区には日帰り行楽客がみられるようになった。1935年(昭和10年)にオリンピックの東京開催が決定すると多摩の各地で選手村、競技場、練習場誘致運動が活発化し、外国人観光客目当てで多摩の景勝地にハイキングコースが新設された。また東京市がハイキングコースを選定し(東京市選定市民健康路)青梅電気鉄道御嶽駅、五日市鉄道武蔵五日市駅を起終点としたコース[† 24]が設定された。西多摩を訪れるハイキング客は急増し1937-38年にはピークとなった[59]。このころ100人乗りのガソリンカーを新製しさらに東京横浜電鉄から120人乗りガソリンカーを購入している。1940年(昭和15年)の運行状況は1日16往復(内10往復が武蔵五日市駅止まり)であった[60]

南武鉄道と合併、国有化へ[編集]

日中戦争が開戦し戦時体制のなか陸上交通事業調整法が1938年(昭和13年)8月に施行された。五日市鉄道は輸送の円滑化を図るためとして南武鉄道と合併することになり[43]、1940年(昭和15年)4月18日に合併契約を締結しこれは5月7日に双方の株主総会において承認されて5月17日に合併認可申請書を提出した[† 25]。そして8月30日認可を受け9月1日実施し南武鉄道五日市線となった[41]。旧五日市鉄道従業員は引継がれ、五日市鉄道は解散した[61]

その後戦争の激化に伴い南武鉄道青梅電気鉄道とともに石灰石、セメント輸送の重要性から国に買収されることになり[43](詳しくは戦時買収私鉄を参照)1944年(昭和19年)4月1日に国有鉄道五日市線となった。しかし並行した立川駅 - 拝島駅間については旧青梅電気鉄道は複線化工事中[† 17]で沿線には軍事上重要な施設があったことから残り[† 26]旧五日市鉄道線は不要不急線として休止となった[62]。軌条は撤去され福井県の金津駅-芦原駅間に転用された[43]。なお西立川駅から分岐して南武線に連絡するルート上にある立川駅-武蔵上野原駅間は撤去されず貨物列車直通に使用され青梅線の一部となった[63]

年表[編集]

  • 1921年(大正10年)7月15日:五日市鉄道(発起人総代紅林七五郎)に対し鉄道免許状下付(北多摩郡拝島村-西多摩郡五日市町間、西多摩郡増戸村-同郡大久野村間)[64]
  • 1922年(大正11年)5月7日:五日市鉄道株式会社設立(社長内山安兵衛)[65][18]
  • 1924年(大正13年)2月8日:鉄道免許状下付(北多摩郡拝島村-同郡立川村間)[45]
  • 1925年(大正14年)
    • 4月21日:拝島仮 - 五日市駅間開業[66]
    • 5月15日:拝島駅 - 拝島仮間開業[67]
    • 9月20日:武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間開業[68]
  • 1926年(大正15年)7月1日:拝島駅-東秋留駅間に多摩川駅(貨物駅、のち武蔵多摩川)設置[69]
  • 1929年(昭和4年)12月11日:南武鉄道分倍河原駅 - 立川駅間開業[70]
  • 1930年(昭和5年)
    • 7月1日:鉄道免許状下付(北多摩郡昭和村-拝島村間)[71]
    • 7月13日:立川 - 拝島間開業[72]
  • 1931年(昭和6年)
    • 11月15日:武蔵上ノ原駅-青梅電気鉄道西立川駅間開通(貨物運輸営業)、所属は南武鉄道[73][74]
    • 12月8日:武蔵田中駅 - 拝島多摩川駅間開業(貨物運輸営業)[75]
    • 12月16日:拝島駅構内で入換作業中の五日市鉄道の貨物列車と構内に進入してきた青梅電気鉄道電車が正面衝突し重軽傷者をだす[76]
  • 1937年(昭和12年)5月:立川自動車運輸(立川バス[77]を傘下にする[78]
  • 1940年(昭和15年)9月1日:南武鉄道と合併し、同社五日市線となる[79][† 27]
  • 1944年(昭和19年)4月1日:国有化され、運輸通信省五日市線となる[80]

国有化以降の歴史は五日市線#歴史を参照

駅一覧[編集]

立川 - 武蔵岩井間
駅名 駅間
キロ
営業
キロ
接続路線 所在地 備考
立川駅 - 0.0 鉄道省中央本線
南武鉄道
青梅電気鉄道
北   多   摩   郡 立川町  
武蔵上ノ原駅 0.9 0.9    
郷地駅 1.2 2.1   昭和村  
武蔵福島駅 0.7 2.8    
南中神駅 0.7 3.5    
宮沢駅 1.0 4.5  
大神駅 0.6 5.1    
武蔵田中駅 0.4 5.5 五日市鉄道:貨物支線  
南拝島駅 1.1 6.6   拝島村  
拝島駅 1.5 8.1 鉄道省:八高線
青梅電気鉄道
青梅電気鉄道へ業務委託[82]
熊川駅 1.3 9.4   西   多   摩   郡 熊川村  
(貨)武蔵多摩川駅 0.9 10.3   東秋留村 1931年1月28日多摩川駅より改称
東秋留駅 1.2 11.5    
西秋留駅 2.3 13.8   西秋留村  
病院前駅 1.4 15.2    
武蔵増戸駅 1.3 16.5   増戸村 1925年5月16日増戸駅より改称[83]
武蔵五日市駅 2.7 19.2   五日市町 1925年6月1日五日市駅より改称[84]
武蔵岩井駅方面は駅手前から分岐[85]
大久野駅 2.1 21.3   大久野村  
武蔵岩井駅 0.7 22.0    
武蔵田中 - 拝島多摩川間(貨物支線)
駅名 駅間
キロ
営業
キロ
接続路線 所在地
武蔵田中駅 - 0.0 五日市鉄道 北多摩郡 昭和村
(貨)拝島多摩川駅 1.6 1.6   拝島村
  • 武蔵多摩川駅の廃止は五日市鉄道「営業報告書」及び「鉄道省文書」には記載は見当たらないが、南武鉄道「営業報告書」添付の路線図には掲載されていないため、南武鉄道合併時には廃止されたとみられる[86]
  • 武蔵増戸駅には五日市鉄道時代の駅舎が2011年まで残っていた[87]

輸送・収支実績[編集]

年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1925 101,043 10,109 26,995 35,357 ▲ 8,362 雑損147 29,086
1926 181,083 25,114 49,599 82,242 ▲ 32,643 雑損3,134 48,796 108,043
1927 198,088 87,138 88,788 96,447 ▲ 7,659 雑損58 36,008 82,536
1928 274,178 234,189 193,908 143,590 50,318 14,185 67,463
1929 307,263 293,201 241,493 197,315 44,178 雑損255 678 76,471
1930 318,598 195,744 223,815 151,170 72,645 雑損5,161 36,775 78,353
1931 444,908 182,827 272,067 164,744 107,323 雑損1,969償却金5,000 57,223 63,360
1932 433,746 189,631 240,667 158,052 82,615 雑損3 69,463 82,783
1933 449,173 254,874 301,523 199,092 102,431 雑損557 62,217 67,595
1934 443,792 220,893 263,002 180,306 82,696 雑損400 52,933 66,324
1935 436,876 247,856 286,076 192,185 93,891 雑損償却金55,094 46,094 48,348
1936 446,951 185,176 234,435 163,922 70,513 雑損償却金31,169 40,994
1937 512,258 262,765 316,341 185,045 131,296 雑損償却金45,531 37,041 4,041
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

車両[編集]

開業にあたり機関車2両(1・2、ドイツコッペル製)四輪三等客車4両(ハ51-54)、四輪三等客車手用制動機付2両(フハ91、92)(日本車輌製造製)、四輪有蓋貨車2両(ワム101、102)、四輪無蓋貨車8両(ト501-506、木材車チ1001-1002)が用意された[32][88][89]

1930年7月拝島-立川間開業とともにガソリンカーを導入した[37]

機関車[編集]

武蔵五日市駅-武蔵岩井駅間には急勾配があり後押し用機関車つきで運用され[19]、重量貨物機関車を保有していた[21]。当初は混合列車であったが、1929年にガソリンカーが投入され1930年度中に貨物専用になった[90]

客車[編集]

在籍していたのは開業時に日本車輌で新製した4輪客車6両のみ。ガソリンカーの登場により主役を譲り団体などで使われるようになった[95]。開業時は四輪三等客車4両(ハ51-54)、四輪三等客車手用制動機付2両(フハ91-92)。1925年度にフハ91-92を三等手荷物車合造車に改造しハニ2001-2002に改番[96][88]、1927年度にハ53-54に手用制動機を取り付けフハ153-154に改番[97][98]、1930年度にハニ2001-2002の手荷物室を廃しフハ91-92に改番している[99]。南武鉄道を経て6両とも三菱水島の専用鉄道(水島工業都市開発→倉敷市営→水島臨海鉄道)へ譲渡された[92]

ガソリンカー[編集]

2軸車は非力で西秋留をでた坂道でストップしてしまいその時は下まで戻って再び登り始めたこともあったという[95]

貨車[編集]

開業時は10両だったが合併直前には69両になった。有蓋貨車ワム101、102、301、302、ワブ305、306、700、テム200-203ほか1両、無蓋貨車ト1201-1204、トム501-506、701-708、902、903、1205-1211、フト801-806、リ1700-1716、リブ1600-1602、チキ3000ほか3両[92]

土運車リ1700-1716(→国鉄リ2100-2116)、リブ1600-1602(→国鉄リフ2050-2052)がいるのは工場近くでセメント原料の粘土を採掘しておりそれを輸送するため。大久野駅構内で使用していた[101]

車両数の変遷[編集]

年度 機関車 ガソリンカー 客車 貨車
有蓋 無蓋
1925 2 6 2 8
1926-1927 3 6 3 16
1928 5 6 3 46
1929 6 3 6 3 61
1930-1935 6 5 6 8 61
1936 6 7 6 8 61
1937 6 7 6 10 59
1939 6 9 6 12 57
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版

廃線跡[編集]

立川-拝島間は戦中の休止直後に線路が撤去されているが古くから廃線跡のレポートが発表されている[102][103][104][105][106]。1963年のレポートによれば各駅のプラットホームや建物の基礎部分、八高線交差部前後の切り通しなどが残っていたが[102]、やがて都市化の波が押し寄せ廃線敷は拡幅され道路となり周辺は宅地へとかわっていった[104][† 32]。1991年3月30日、昭島市の土地開発公社は市域に残っていた五日市鉄道の廃線跡の敷地を国鉄清算事業団から取得、本格的な再開発に着手し、2000年3月に大神駅跡付近にホーム、レール、台車などのモニュメントと同駅について述べた説明板を備えた公園が設置された[107]。なお当時の大神駅は切り通しで地表より2 - 3m下にあり[106][† 33][† 34]、近くにある桜の木は当時の姿とは違うが戦前からあるものだという[112]、五日市鉄道と交差していた八高線の鉄橋(跨線橋)は2001 - 2002年頃までは残っていたが撤去され地下道が作られた。2005年1月1日、昭島市は廃線跡に整備した道路を「五鉄通り」と命名した[107]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 供給区域は五日市町、増戸村、戸倉村、明治村、三ツ里村、大久野村、平井村、小宮村、桧原村、多西村『電気事業要覧. 第13回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 明治元年生まれ、1899年(明治32年)以降西多摩郡会議員、1910年(明治43年)五日市町長、1919年(大正8年)府会議員立候補のため町長辞任、1921年(大正10年)五日市町長死亡により兼務、1924年(大正13年)町長辞任『五日市町史』844頁
  3. ^ 小机家住宅は東京都指定文化財一覧に指定
  4. ^ 1920年に死亡『五日市町史』855頁
  5. ^ 1918年に紅林七五郎らが専用鉄道敷設免許を得ていたが1921年に安藤組社長の安藤徳之助により会社が設立されている。『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)『立川駅百年』101頁では浅野セメント子会社としているが根拠が明らかでない。なお沿線最大の砂利採取業者である浅野セメント系列の浅野石材の工場が大神にあり貨車積み込みホッパー (鉱業)を持っていた。三村章「多摩川砂利木材鉄道」『多摩のあゆみ』No.70
  6. ^ 鉄道院は既存の鉄道と並行するような出願はほぼ一貫して却下していた。『浅野セメントの物流史-近代日本の産業発展と輸送』222頁
  7. ^ 逗子に隠遁していた内山を岸らが説得して1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で当選させていた『五日市町史』855頁
  8. ^ 株金50円は分割払いで、申込証拠金2円50銭、第1回払込(大正11年4月)2円50銭、第2回払込(大正11年6月)2円50銭、3回4回5円としていた。『五日市町史』857頁
  9. ^ 第一次大戦期の好景気にあたり採掘、積込み労働者不足、貨車の不足、さらに労働運動による怠業など『浅野セメントの物流史-近代日本の産業発展と輸送』195-197頁
  10. ^ 石灰石枯渇により1929年11月に採掘を中止した『日本の地方民鉄と地域社会』141頁、『浅野セメント沿革史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 職業不明『浅野セメントの物流史-近代日本の産業発展と輸送』222頁
  12. ^ のちに「浅野セメントの傍系会社というよりも寧ろ浅野セメントの別働隊」といわれるようになる。『財閥研究. 第1輯』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 青梅の岸右鉅は浅野の意を受けて出資したとされる『五日市町史』860頁
  14. ^ 集落沿いのルートも検討されたが曲線が多く、距離も長くなり、踏切も多く設置しなければならず、さらに多摩川の架橋も長くなり、拝島駅との接続も直角となり接続か難しい、建設費が高額になるなどデメリットが多い。『日の出町史 通史編 下巻』441-442頁
  15. ^ そういわれているだけで、集落から離れているのはできるだけ直線で結ぶことを優先に敷設したため(鉄道忌避伝説)『日の出町史 通史編 下巻』448-449頁
  16. ^ 当時青梅鉄道拝島駅-立川駅間には中神駅のみであった
  17. ^ a b 青梅線の立川駅-拝島駅間の複線化は1944、1946年に実施されたが実際には1927年に複線化工事施工認可申請がされ土地買収も始められていたが経済的事情により中断している。『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達 立川の昭和史 第2集』242-246頁
  18. ^ 南武鉄道が1920年に立川延長を出願していたのに対し五日市鉄道は出願からの認可までの期間がきわめて短かった。『浅野セメントの物流史-近代日本の産業発展と輸送』222頁
  19. ^ 1929年に改称『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 1927年1月建設地決定、1928年1月工事着手、1929年4月竣工『浅野セメント沿革史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  21. ^ 川崎工場生産高は1930年以降急減している『浅野セメント沿革史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ セメント需要減退収入ニ大影響(南武鉄道営業報告書昭和5年下期)『南武鉄道物語』26頁
  23. ^ 多摩川では京王電気軌道多摩鉄道青梅鉄道、南武鉄道、国鉄下河原線『日本の地方民鉄と地域社会』94-95頁
  24. ^ (御嶽神社・養沢鍾乳洞コース21.8キロ)御嶽駅-御嶽神社-七代の滝-養沢鍾乳洞-怒田畑-十里木-武蔵五日市駅
  25. ^ 添付された東京、神奈川両知事連名による進達書には「事業統制並びに沿線開発上適切なる企画」と記されている。『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達 立川の昭和史 第2集』262頁
  26. ^ 西立川駅-立川陸軍航空廠陸軍航空技術研究所中神駅-陸軍航空工廠、昭和前駅(昭島駅)-昭和飛行機工業株式会社、拝島駅-陸軍多摩飛行場(現在の横田基地)(『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達 立川の昭和史 第2集』267-268頁)
  27. ^ 書物によって合併の期日はまちまちであり理由は不明であるが、「合併認可申請書」の認可日が昭和15年8月30日であり、昭和16年1月21日に提出された五日市鉄道の営業報告書に添付された文書に9月1日合併致候と記載されていることから、合併日は9月1日と判断される。『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達 立川の昭和史 第2集』262-265頁
  28. ^ 震度6強により桜木町駅は倒壊、その後発生した火災により線路際のライジングサン石油とスタンダード石油の石油槽に引火し大爆発を起こし横浜駅、桜木町駅は焼失した。内田宗治『関東大震災と鉄道』新潮社、2014年、177-184頁
  29. ^ 工場は京義本線馬洞駅の西方二粁にあった『浅野セメント沿革史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  30. ^ 戦前の西秋留駅とガソリンカーの写真『東京府史. 行政篇 第4巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  31. ^ 中島航空機田無製作所という名称は見当たらない。中島航空金属田無鋳鍛工場と運転工場が現在の西東京市谷戸にあり1944年に専用線が武蔵野鉄道(西武池袋線東久留米駅まで敷設されている。1945年4月12日の空襲により工場は壊滅的被害を受けている(名取紀之「東久留米駅構外線と中島航空金属」『鉄道ピクトリアル』No.884
  32. ^ ただ、戦後早くから武蔵上ノ原駅 - 郷地駅間の線路跡が道路として整備された立川市域と比べ、昭島市域では線路跡地で野菜を作る者がいたり、不法投棄の目立つ箇所もあり[107]、特に大神駅跡前後の切り通し部分は1980 - 90年代に至っても草木が覆い茂っていたりゴミが投棄されていたり[108][109]、西側の武蔵田中駅跡へ向かう線路跡には廃車体が投棄されているような状態だった[110]
  33. ^ 『保存版 立川・昭島今昔写真帖』には1963年当時の大神駅跡、宮沢駅跡、戦前のキハ2停車中の大神駅の写真が掲載されている[111]
  34. ^ 線路跡の再開発の際にホーム跡も含め埋め戻されている[109]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『株式会社年鑑. 昭15年版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b 『秋川谷交通小史』40-44頁
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  4. ^ 『鉄道局年報. 明治31年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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  65. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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  110. ^ 大神・武蔵田中間が最短距離”. 昭島市デジタルアーカイブズ/あきしま 水と記憶の物語. 『昭島消えた五つの鉄道』. 昭島市・昭島市教育委員会・TRC-ADEAC株式会社. p. 46. 2023年10月22日閲覧。
  111. ^ 『保存版 立川・昭島今昔写真帖』郷土出版社、2009年、72,73頁。 
  112. ^ 「郷土の歴史に目向けて」『読売新聞』多摩販2000年4月7日付朝刊

参考文献[編集]

  • 歴史
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    • 石井道郎「五日市鉄道の誕生」『多摩 鉄道とまちづくりのあゆみ2』 (財)東京市町村自治調査会、1995年
    • 石井道郎「秋川谷交通小史」『多摩のあゆみ』No.11、1978年
    • 池田昇「五日市鉄道と西多摩」『多摩の鉄道史3』多摩地域史研究会、2015年
    • 今尾恵介『多摩の鉄道沿線古今御案内』けやき出版、2008年
    • 原田勝正『南武線いまむかし』多摩川新聞社、1999年
    • 野田正穂・原田勝正・青木栄一編『多摩の鉄道百年』日本経済評論社、1993年
    • 三村章「拝島駅を巡る鉄道史」『多摩の鉄道史』多摩地域史研究会、2008年
    • 渡辺恵一『浅野セメントの物流史-近代日本の産業発展と輸送』立教大学出版会、2005年
    • 『秋川市史』1983年
    • 『五日市町史』1976年
    • 『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達 立川の昭和史 第2集』立川市教育委員会、1999年
    • 『立川駅百年』立川駅開設100周年記念イベント実行委員会、1989年
    • 『鉄道とまちづくりのあゆみ 資料編』(財)東京市町村自治調査会、1996年
    • 『日の出町史 通史編 下巻』2006年
    • 『福生市史 下巻』1994年
    • 『第十門地方鉄道及軌道ニ地方鉄道 五日市鉄道 巻一』(鉄道博物館蔵)
  • 車両
    • いのうえ・こーいち『図説 国鉄蒸気機関車全史』、JTBパブリッシング、2014年、240-241頁
    • 伊藤東作「南武鉄道及び五日市鉄道とその車両」『レイル』1979年1月号
    • 湯口徹『内燃動車発達史 上巻』、ネコ・パブリッシング、2004年
    • 和久田康雄「青梅電気鉄道・南武鉄道時代の車両」『鉄道ピクトリアル』No.568
    • 雄松堂 営業報告書集成 マイクロフィルム版、4R365(K2548)、5R634(T4608)
  • 廃線跡
    • 佐藤美知男「五日市鉄道跡立川-拝島間を歩いて」『多摩のあゆみ』No.11、1978年
    • 佐藤美知男「五日市鉄道廃線跡を訪ねて」『多摩のあゆみ』No.70、1993年
    • 『保存版 立川・昭島今昔写真帖』郷土出版社、2009年(ISBN 978-4-86375-036-4
    • 『資料館だより』第19号、立川市歴史民俗資料館、2015年3月
    • 山田俊明『東京の鉄道遺産 百四十年をあるく 下 発展期篇』けやき出版、2010年
    • 宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩く4』JTB、1997年

外部リンク[編集]