五大院宗繁
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 高繁、通称:右衛門太郎 |
官位 | 右衛門尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条高時→北条邦時 |
氏族 | 五大院氏 |
父母 | 五大院太郎右衛門尉? |
兄弟 | 宗繁、常葉前(北条高時側室) |
五大院 宗繁(ごだいいん むねしげ)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。五大院 高繁(ごだいいん たかしげ)とも呼ばれる。
生涯[編集]
元亨3年10月26日(1323年11月25日)、円覚寺で行われた9代執権北条貞時の十三回忌供養では禄役人の一人として「五大院右衛門太郎高繁」の名で参列した。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月の元弘の乱における幕府滅亡時に、妹婿である北条高時から嫡男の邦時(宗繁の甥にあたる)を託された[1]。『太平記』巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によると、宗繁は高時から長年にわたり恩を受けてきた人物であり、邦時を託される際に高時は「いかなる手段を使っても匿って守り抜き、時が来れば立ち上がって亡魂の恨みを和らげてほしい」と頼んだとされる[1]。
しかし、鎌倉制圧後に新田軍による北条の残党狩りが行われ、残党を捕らえた者に褒賞が与えられると知ると、宗繁はその褒賞目当てに甥であり主君である邦時を裏切ろうと考えた[1]。宗繁は邦時を言いくるめて別行動をとり、5月27日夜半に鎌倉から伊豆山へ向かわせると、自らは新田義貞執事の船田義昌に邦時の所在を密告した[1]。そのため、28日に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川で捕縛され、29日に鎌倉で処刑された[1]。
やがて宗繁の裏切りは人々に「不忠」として糾弾され、人々の声を伝え聞いた義貞が処刑を決めると、それを知った宗繁は逃亡した[1]。宗繁は逃亡を重ねるも、その所業を知った世の人々は誰も救いの手を差し伸べることはなく、旧友らにも一椀の飯すら与えられず見捨てられ、最期は乞食のようになり果てて路傍で餓死したとされる[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「北條貞時十三年忌供養記」(円覚寺文書)
- 「神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)」(神奈川県 1973))