丸川松隠

丸川 松隠(まるかわ しょういん、宝暦8年6月21日1758年7月25日) - 天保2年8月4日1831年9月9日))は、江戸時代後期の儒学者。名は茂延、字は千秋、通称は一郎、松隠と号する。

生涯[編集]

新見藩領である備中国浅口郡西阿知村(現在の岡山県倉敷市西阿知町)に生まれる。幼い頃から慧敏、13歳頃には態度物腰が成人のようだった。15歳になると亀山如水に朱子学を学び、君子たらんと志す。名の知れた儒学者がいれば会いに行き、赤松滄洲江村北海などと交流する。父が水騒動で江戸に行っている間に母が病気になり、その介護をした事が認められ、田畑の永年税免除と賞金を新見藩から贈られた。。中年になって大坂に赴き中井竹山に会い、竹山は試みに張載の『西銘』を講義させてみると、流暢で説明が要領を得ているので、松隠を門人とし懐徳堂に寄寓させた。この頃に大坂に塾を開いていた尾藤二洲古賀精里頼春水などと往来した。寛政の改革が始まり、松平定信が天下の賢士を集めていた際、松隠に招聘に応ずる意志があるかどうか問い合わせがあったが、「祖先は士籍を外れたが、藩主の旧恩は今も忘れたことはない」と断ったという。寛政6年(1794年)に新見藩主・関長誠に招かれ、藩校・思誠館の学頭となる。藩政改革にも参与し、致仕の後に故郷の西阿知に私塾・松下清斎を建てて子弟を教えた。門弟でもっとも有名なのは山田方谷三島中州である。松隠が没すると、生前交友のあった佐藤一斎が墓碑を撰し、門弟が孝敬先生と諡する。篆額揮毫近衛文麿。その碑は1928年(昭和3年)に従五位追贈[1]があったのを記念して作られ、市立思誠小学校内の丘に建っている。家も残っている。

松隠は躬行実践を宗とし、文芸を以て第二と考えた。特に忠孝を尊び虚名を好まなかった。そこで若干の詩文の草稿が家に伝えられたが、公刊されていない。

長男は26歳で病没し、次子の茂亮の子、茂義は1868年隊を率いて出兵したが、備中松山城明け渡しの翌日に自決した。

著作[編集]

  • 『型典』…新見藩主のために書かれた藩政指南書

テレビ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.57

参考文献[編集]

  • 逸見芳春『丸川松隠評伝』(備北民報社、2007年)