中村三郎
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1912年7月3日 |
没年月日 | 没年不明[戦死] |
身長 体重 | 173 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手、内野手 |
プロ入り | 1937年 |
初出場 | 1937年3月28日[1] |
最終出場 | 1940年11月29日[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について |
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日[3] - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。
来歴・人物[編集]
諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた[4]。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く[5]、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。
1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった[6])。春季シーズン終了後、1度目の応召。チーム名がライオンに変更した1938年に帰還し、秋季シーズンより復帰した。大東京~ライオン時代、親会社の共同印刷の専務だった大橋松雄は、地方遠征などでヒット1本打つごとに50銭の賞金を出していて、中村はよくこの賞金(通称ゲッポー【月俸】)を稼いでいたので、ゲッポーとあだ名がついた逸話も残っている[7]。
1939年に名古屋軍へ移籍。「投手三本柱」と呼ばれた、松尾幸造,村松幸雄,西沢道夫が相次いで故障し、先発ローテーションでは繁里栄しか残っていなかったため、大沢清と共に野手から投手へ急遽登板する事になった。実は前年の従軍時に 北京の陣内で開かれた軍隊対抗野球試合で投手として登板し、4試合連続勝利で優勝した事があり[5]、その実績を買われて投手に立つ事になった。全盛期の球威は無くなっていたが、9試合登板し、3完投、2勝3敗、防御率4.40の記録を残した。また、名古屋では内野のユーティリティプレイヤーとしても活躍した。
1940年11月28日に2度目の応召。翌日の金鯱戦(後楽園球場)が最後の出場になった[2]。この試合で本塁打を放ち、有終の美を飾った。鈴木龍二は自著[8]で当時の事をこう記している。「中村が召集令を知らされたのは。長野の旅館であった。犀北館という旅館で夕食をとっているとき「中村さん電話です」と呼び出された。その電話が赤紙、つまり召集令状が来たという知らせであった。その夜は送別会になった。翌日、名古屋との試合に出場した中村は、ホームランを打った。中村はホームランを打つバッターではなかった。その中村がホームランを打って大活躍をした。そうして郷里の諏訪へ帰っていった。」と。
その後プロ野球界に復帰する事はかなわず、ノモンハン(ノムンハーネイ・ブルド・オボーのこと。ノモンハン事件とは無関係[9]。)で戦死した[4](没年月日は不明)。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1937春 | 大東京 ライオン | 55 | 227 | 207 | 14 | 43 | 7 | 4 | 3 | 67 | 26 | 3 | -- | 2 | -- | 17 | -- | 1 | 46 | -- | .208 | .271 | .324 | .595 |
1938秋 | 31 | 112 | 91 | 11 | 18 | 2 | 0 | 2 | 26 | 10 | 1 | -- | 1 | -- | 18 | -- | 2 | 18 | -- | .198 | .342 | .286 | .628 | |
1939 | 名古屋 | 89 | 321 | 283 | 21 | 55 | 13 | 1 | 4 | 82 | 27 | 5 | -- | 3 | 1 | 33 | -- | 1 | 53 | -- | .194 | .280 | .290 | .570 |
1940 | 101 | 394 | 346 | 36 | 66 | 7 | 9 | 2 | 97 | 33 | 4 | -- | 4 | 4 | 39 | -- | 1 | 68 | -- | .191 | .272 | .280 | .552 | |
通算:4年 | 276 | 1054 | 927 | 82 | 182 | 29 | 14 | 11 | 272 | 96 | 13 | -- | 10 | 5 | 107 | -- | 5 | 185 | -- | .196 | .282 | .293 | .575 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大東京軍は、1937年秋にライオン軍に球団名を変更
年度別投手成績[編集]
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1939 | 名古屋 | 9 | 4 | 3 | 0 | 0 | 2 | 3 | -- | -- | .400 | 219 | 47.0 | 57 | 0 | 26 | -- | 2 | 15 | 0 | 1 | 29 | 23 | 4.40 | 1.77 |
通算:1年 | 9 | 4 | 3 | 0 | 0 | 2 | 3 | -- | -- | .400 | 219 | 47.0 | 57 | 0 | 26 | -- | 2 | 15 | 0 | 1 | 29 | 23 | 4.40 | 1.77 |
背番号[編集]
脚注[編集]
- ^ 1937年大東京スタメンアーカイブ
- ^ a b 1940年名古屋スタメンアーカイブ
- ^ 鎮魂の碑(野球殿堂博物館)
- ^ a b 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館)
- ^ a b 職業野球!実況中継 投手・中村三郎
- ^ 打撃各部門最高記録の推移3(塁打・犠打・三振・四死球・併殺打)-MS-DATABASE SPORTS DATA INDEXのページ
- ^ 坪内道典著『風雪の中の野球半世紀』、ベースボール・マガジン社、1987年より抜粋。
- ^ 鈴木龍二著『鈴木龍二回顧録』、1980年
- ^ ノモンハン事件が起きたのは1939年5月~9月であり、中村が出征した1940年12月以降とは時期的に符合しない。
- ^ 松竹ロビンス 背番号7 - 背番号Maniax -
- ^ 松竹ロビンス 背番号4 - 背番号Maniax -
- ^ 中日ドラゴンズ 背番号16 - 背番号Maniax -