中島登

中島登

中島 登(なかじま のぼり、天保9年2月2日1838年2月25日) - 明治20年(1887年4月2日)は、新選組隊士(伍長)。

略歴[編集]

天保9年2月2日(1838年2月25日)、武州多摩郡小田野(現在の東京都八王子市西寺方町)の農家に長男として生まれる。幼名は峯吉、後に登一郎。父は中島亦吉、母は中島イチ。

安政3年(1856年)9月頃、19歳で天然理心流山本満次郎に入門。安政4年(1857年)、同郷の安藤マスと結婚。長男・歌吉(後、登一郎)が生まれる。その後、八王子千人同心に所属したが、同僚の1人と衝突して斬殺した為、親戚家(井上益五郎家)に逃れる。

元治元年(1864年)、新選組に入隊。近藤勇の命で武州・甲州相模の地理調査等を秘密裏に行っていたといわれる。慶応3年(1867年)、新選組伍長に就任。慶応4年4月3日1868年4月25日)、流山で近藤が新政府軍に投降した際には、同行役の薩摩藩士・有馬藤太を追尾したが、監視は厳しく虚しく帰った。

土方歳三島田魁ら数名の新選組隊士らと共に、大鳥圭介ら旧幕府軍と合流して宇都宮の戦い日光口の戦い会津戦争に転戦(登は、会津戦争で重傷を負った彰義隊隊士・大島清慎を救護所まで運んだと言う)。仙台で更に榎本武揚ら旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡る。箱館戦争では弁天台場第2分隊嚮導役となった。

明治2年5月15日1869年6月24日)、降伏。弁天台場で謹慎後に青森に送検され、同6月9日7月17日)に弘前藩7月21日8月28日)、青森へ戻り、3ヶ月謹慎。10月24日11月27日)、弁天台場に戻り、約5ヶ月謹慎した。明治3年(1870年)5月上旬、静岡藩お預けになり、中旬には赦免。多摩に帰還する。

静岡藩の開墾に尽力し、自分の田地を人々に譲渡した。また、浜松にて元彰義隊隊士、当時浜松裁判所・登記所代書だった大島清慎と再会している。浜松に定住し、明治12年(1879年2月19日、長男・登一郎を浜松に呼び寄せる。明治15年(1882年)、魚屋沢木半平の長女・ヨネと再婚している。

この頃は商売をいくつか始めており、はじめ旧幕臣と協力して質屋を経営するが失敗する。明治14年(1881年)、趣味で栽培していた葉蘭に偶然新種が誕生し、品評会にて「金玉廉」と名付けられて爆発的な売れ行きとなるが、馬が親株を食べてしまった為商売終了。明治17年(1884年)には「鉄砲火薬売買人」免許を取得し、中島鉄砲火薬店を開業した。

明治20年(1887年)4月2日、浜松にて死去。享年50。墓は浜松市中区下池川町天林寺。戒名は隆慶院孝庵義忠居士。

辞世の句[編集]

登は、明治20年(1887年)1月1日に以下のような辞世の句を残した。

  • たかくとも 五十(いそ)の峠をやすやすと 越ゆれば御代の 春ぞのどけき

中島家の家訓[編集]

登は、以下のような家訓を残している。

  • 一、食物の事につき一切好き嫌いを云うな。
  • 一、碁、将棋など勝負事は一切やるな。
  • 一、質屋、金貸しは孫子の代までやるな。

資料[編集]

新選組関係資料として『戦友絵姿』や『中島登覚え書』などを残している。

関連項目[編集]