中島半次郎

中島半次郎
中島半次郎

中島 半次郎(なかじま はんじろう、1872年2月1日明治4年12月23日[1])- 1926年大正15年)12月21日[2])は、日本教育者

経歴[編集]

熊本県出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科を卒業し、東京高等師範学校(後の東京教育大学筑波大学の前身)研究科を修了した[2]。『教育学術界』『教育時論』などの記者となったが、1900年(明治33年)に東京専門学校教授となり、東京高等商業学校(後の東京商科大学)講師も兼ねた[2]

明治末にヨーロッパに留学し教育学を学んだ[3]。帰国後、早稲田大学高等師範部長早稲田大学高等学院長を歴任した[2]

教育学説として人格的教育論を唱えた[4]

著作[編集]

  • 『普通教育学要義』(開発社、1900年)
  • 『戦後の教育』(目黒書店、1905年)
  • 『東洋教育史』(早稲田大学出版部、1910年)
  • 『独逸教育見聞記』(目黒書店、1914年)
  • 『人格的教育学の思潮』(同文館、1914年)
  • 『人格的教育学と我国の教育』(同文館、1915年)
  • 『独仏英米国民教育の比較研究』(教育新潮研究会、1916年)
  • 『教育学』(早稲田大学出版部、1917年)
  • 『教育の改造』 (早稲田大学出版部、1919年)
  • 『教育思潮大観』 (東京堂書店、1921年)
  • 『教育の本質』(教育研究会、1927年)

脚注[編集]

  1. ^ 20世紀日本人名事典 2004.
  2. ^ a b c d 日本現代教育学大系 第7巻 pp.1-2 1927.
  3. ^ 読売新聞1910年12月4日別刷1ページ 中島半次郎の伯林通信「十月3日の夜,伯林文教会が来遊中の谷本博士の歓迎を含めFriedrichstrasse Keiserkellerで開き申候.出席者は武内大造,辻高衡,中島半次郎,山岸光宜,阿部秀助,坂口昇,斎藤斐章,廣政幸助,森外三郎等の九君に,賓客を併せて十人,旅行談やら,故国の文学教育に関する話やらにて,十二時近くまで賑ひ申候」
  4. ^ 伊藤裕『昭和三年度 現代教育思潮批判一斑』、呉市、1928年。

参考文献[編集]

  • 大日本学術協会編『日本現代教育学大系 第7巻』モナス、1927年。 
  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。 

外部リンク[編集]