中原悌二郎

『若きカフカス人』(1919年)彫刻の森美術館

中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 - 1921年1月7日)は、大正日本を代表する彫刻家の一人。

略歴[編集]

北海道釧路市の生まれ。1897年に母とともに旭川市に移り、母方の叔父の養子となる[1]1902年に忠別尋常高等小学校高等科(現・旭川市立日章小学校)を卒業し北海道庁立札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)に入学する[1]

医師を目指していたが、美術教師の林竹治郎に影響を受けて17歳の時に画家を志し、3年生のとき落第したのを機に札幌中を中退して上京、白馬会研究所太平洋画会研究所洋画部で学び中村彝と親交を結ぶ。その後荻原碌山の感化によって彫刻に転じ、太平洋画会研究所彫塑部で新海竹太郎に師事。1910年第4回文展に「老人の首」が初入選した。1912年、当時日本でもまだその名が知られ始めたばかりだったロダンの実作に初めて触れて、深く啓発される。1916年日本美術院の研究会員に転じ、佐藤朝山石井鶴三らとともに研鑽を重ねた。同年の第3回院展に発表した「石井氏の像」で樗牛賞を受けて院友となり、以後も同展に「行乞老人像」「若きカフカス人」「憩える女」などの作品を次々と発表する。その作風は写実に基づきながらも堅牢な構築性を示し、内面表現にも優れた。1919年の「平櫛田中像」を遺作として32歳で没した。墓所は函館市東本願寺函館別院船見支院。

晩年の芥川龍之介が講演先で中原の「若きカフカス人」を見て『この中原氏のブロンズの「若者」に惚れる者はないか。この若者はまだ生きているぞ』と発言したことはよく知られている。

著作文集『彫刻の生命』(中央公論美術出版、1969年)があり、度々再刊されている。

中原悌二郎賞[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 中原悌二郎の生涯 - 富貴堂

関連項目[編集]

外部リンク[編集]