三重県護国神社

三重県護国神社
140405 Mieken-gokoku-jinja Tsu MIe pref Japan02s3
所在地 三重県津市広明町387
位置 北緯34度43分58秒 東経136度30分31秒 / 北緯34.73278度 東経136.50861度 / 34.73278; 136.50861
主祭神 国事殉難者
社格 内務大臣指定護国神社・別表神社
創建 1869年(明治2年)
例祭 4月22日
10月22日
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神紋である桜を施した御朱印帳

三重県護国神社(みえけんごこくじんじゃ)は、三重県津市にある神社護国神社)である。禁門の変戊辰戦争から第二次世界大戦までの三重県関係の戦歿者6万3百余柱を祀る。これらの祭神は靖国神社の祭神と基本的に重なるが、護国神社が独自で招魂したものであるから、靖国神社とは本社分社の関係にはないとされる。

近年では、三重県の守り神、子供の神様として県内外から篤い崇敬を集めている。社紋は桜紋であり、靖国神社や護国神社の多くは社紋に桜を用いている。刊行物に『三重護国』があり、現在は春秋の年2回発行されている。創刊は1960年(昭和35年)10月である。創刊号は16頁にも及び、三重県知事田中覚、三重県議会議長小久保久吉、津市長角永清、三重県町村会長西浦清乃助、神社本庁統理佐々木行忠神宮大宮司坊城俊良、靖国神社筑波藤麿、三重県遺族会会長斎藤昇ら各界の著名人が寄稿している。

歴史 –明治時代–[編集]

三重県護国神社の歴史は1869年明治2年)、第11代津藩主であった藤堂高猷が、戊辰戦争で戦死した藩士の霊を祀る小祠を津八幡宮の境内に建て、「表忠社」と称したのに始まるとされている。これは幕末の長州藩薩摩藩らが国事殉難者、戦没者の御霊を祀るために招魂場を設けて招魂祭を営んでいた事が淵源となっている。幕府のみならず、朝廷においても1868年(慶応4年)5月10日の太政官布告「癸以来唱義精忠国事ニ斃ルヽ者ノ霊魂ヲ慰シ東山ニ祠宇ヲ設ケテ之ヲ合祀セシム」と「東山ニ一社ヲ建テ当春伏見戦争以来戦死者ノ霊魂ヲ祭祀セシム」とにより、1853年(嘉永6年)以来の国事殉難者と伏見戦争以後の戦死者を京都東山に建立した祀宇(霊山官祭招魂社、後の京都霊山護国神社)に合祀するなど、慰霊に対する気運が高まっていた事が分かる。

1874年(明治7年)3月17日の内務省達乙第22號によっていわゆる官祭となった。内務省達乙第22號の内容は「戊申己巳之際従軍殉國ノ者戦没ノ地及其他各所ニ於テ舊藩主或ハ人民共私設致シ候招魂場ノ儀ハ永ク忠士ノ魂魄ヲ御吊慰被為在候御趣意ヲ以テ自今其所在ノ地税ヲ免シ祭祀幷修繕共一切官費支給可致旨被仰出候ニ付此旨相達候事」であり、招魂場敷地の地租免除と祭祀や修繕にかかる費用には官費を支給すると明記されている。

翌1875年(明治8年)10月13日に出された内務省達乙第132號によって招魂社となった。内務省達乙第百132號の内容は「各管内ニ設置有之招魂社ノ儀従前其所在ノ地名等種々ノ社號ヲ附シ來候向モ有之候處自今種々ノ社號ハ都テ相廢シ一般招魂社ト相唱候様可致此旨相達候事」とあり、三重県のみならず東京都(当時の東京府)を除く全ての招魂社の名称を統一した。

東京にあった東京招魂社は1879年(明治12年)6月4日の「東京招魂社靖國神社ト改稱別格官幣社内務陸海軍三省管理祭典其他常務取扱區分」によって現在の社名である靖國神社と改称し、別格官幣社という社格に列せられた。

1886年(明治19年)6月28日に西南戦争戦没者の御霊の合祀祭申請が有志総代から提出された。以下は、その原文である。

台湾西南両役従軍殉難ノ霊ヲ招魂社ヘ合祀願

伊勢國安濃郡八幡町八幡神社境内ニ鎮祭スル招魂社ノ義ハ舊津藩藤堂家ニ於テ戊辰巳己ノ際摂州山﨑及奥羽ノ役ニ戦死ノ士卒ヲ祀リ 明治八年以来特ニ官祭ニ被列候モノニ有之茲ニ明治八年 王師台湾ニ向フテ罪ヲ問ヒ曁ヒ十年西南ノ賊ヲ討セラルルニ當リ縣下ノ士 民軍ニ従ヒ 王事ニ死スル者三百七拾八人奮テ王の愾ニ敵シ砲弾ヲ冒シ白刃ヲ踏ミ遂ニ其身ヲ致ス其忠勇壮烈縣下人民ノ㝡モ敬愛シ 㝡モ尊重スル所ニ有之候而メ此三百七拾八人ノ者ハ幸ニ靖國神社ニ合祀セラレ優渥ノ祀典ヲ享ルヲ得タリト雖モ縣地ノ東京ヲ距ル百 有餘里其父子親戚及縣下人民盛儀ヲ拝シテ敬愛尊重ノ意ヲ致ス能ハス誠ニ遺憾ノ至ニ御坐候就テハ前述招魂社ノ義ハ去ル十四年十月 中西南戦死ノ内合祀ヲ許サレタル者モ有之ニ付尚其他縣下人民ノ両役ニ戦死スル者ノ霊ヲモ合祀ノ義御許可相成候様仕度然ル上ハ歳 時祀典ヲ奉行シテ忠魂義魄ヲ慰メ敬愛尊重ノ誠ヲ致シ以テ一般各其尽ス所ヲ知ラシメント冀望仕候尤合祀者ニ係ルモノハ勿論私祭ノ 筈ニ付何卒至急御免許被下度別紙合祀者人名相添有志者総代連署ヲ以テ此段奉願候也

有志総代

伊勢國安濃郡八幡町

これを受け、同年7月3日に三重県令から内務大臣へ願出が出された。以下は、その原文である。

官祭招魂社へ合祭之義ニ付伺

伊勢國安濃郡藤方村字八幡町

郷社八幡神社境内

官祭招魂社

右ハ舊津藩士戊辰巳己之際戦死候者ヲ祀リタルモノニテ去ル十四年十月中経伺ノ上同社最寄郡内ノ西南ノ役ニ戦死候者ヲ合祭許可致置

候處尚又今般縣下ノ者ニテ征台及西南ノ役ニ戦死セシモノヲモ私費ヲ以テ合祭致度旨別紙之通願出候右ハ一般ノ奨励トモ相成風教ニ関 係不尠候ニ付御許可相成候様仕度此段相伺候也

明治十九年七月三日

三重縣令石井邦猷


 内務大臣伯爵山縣有朋殿

上記の申請に対して、同年8月12日に「書面伺之趣八月三日付上申之三拾四名ヲ除キ私費合祭之儀聞届候事」との回答をもらった後、合祀祭を斎行し、招魂社に祭神が増えていく契機となる。1901年(明治34年)には「招魂社墳墓ニ官祭官修ノ文字ヲ冠スルノ件」によって官祭招魂社と改称した。この官祭招魂社に指定されない招魂社は区別して私祭招魂社と呼ばれた。その後、1908年(明治41年)1月11日に郡市長会に於いて移転改築の決議がなされ、遷座の準備が始まる。翌年の1909年(明治42年)4月17日には改築移転の件について内務大臣の許可を受け、同月29日に地鎮祭を行い、同年6月10日に上棟際、9月17日に新殿祭、18日午後7時より正遷宮式を行い、翌19日午後7時より新祭神合祀祭を行った。

歴史 –昭和時代以降–[編集]

1939年(昭和14年)3月15日の内務省令第12號「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」により社名を官祭招魂社から三重縣護國神社へ改称し、同省令13號「護國神社例祭、鎮座際及合祀祭祭式及祝詞左ノ通定ム」により祭式と祝詞が規定されたが、これは前年1938年(昭和13年)12月15日に神社制度調査会会長水野錬太郎によって出された招魂社制度改善整備要綱がもとになっている。この要綱では6つの事項について提案がされている。以下はその内容である。

(一)社名及社格ニ関スル事項
 社名「招魂社」ハ之ヲ「護國神社」ト改稱シ、社格ハ従前ノ通之ヲ附セサルコト
(二)祭祀ニ関スル事項
 祭祀ニ関シテハ府縣社以下神社ニ関スル法令ノ適用ヲ明ニスルト共ニ、新ニ其ノ鎮座際及合祀祭ヲ大祭ニ加ヘ、且祭式及祝詞ヲ其ノ實状ニ適合セシムル様考慮スルコト
(三)神職ニ関スル事項
 現行受持神官ノ制度ヲ廃シテ新ニ左ノ区分ニ依リ府縣以下神社ト同様社司、社掌ヲ置クコト
 (1)内務大臣(外地ニ在リテハ其ノ長官)ノ指定スル護國神社
  社司 一人
  社掌 若干名
 (2)其ノ他ノ護國神社
  社掌 若干名
(四)神饌幣帛料供進ニ関スル事項
 現制ニ於テハ所謂官祭ノ制ヲ存シ、明治八年以降百四社に限リ毎年定額ノ國費ヲ給スルモ、右ハ其ノ儘之ヲ存置シ、別ニ地方公共団体ヨリ其ノ例祭、鎮座際及合祀祭ニ付神饌幣帛料ヲ供進シ得ルノ途ヲ開クコト
(五)財産及会計ニ関スル事項
 財産及会計ノ取扱ニ関シテハ府縣社以下神社ニ関スル法令ノ適用ヲ明ニシ、以テ財産ノ格護ト金銭ノ精確トヲ期セシムルコト
(六)護國神社ノ創立ニ関スル事項
 護國神社ノ創立ニ付テハ、市町村等ヲ其ノ崇敬区域トスルモノハ獨立神社タルト境内神社タルトニ拘ラス原則トシテ之ヲ認メサル様考慮スルコト

1939年(昭和14年)4月1日の内務省告示142號「明治二十七年勅令第二十二號第一條第一項ノ規定ニ依リ左記護國神社ヲ指定ス」によって指定護國神社となる。この時、指定護国神社に指定されたのは全国で北海道護国神社から鹿兒島縣護國神社までの34社で、以後必要に応じて追加指定され太平洋戦争末期までに51社が指定された。指定護国神社は1府県1社を原則として指定されたが、崇敬地域が広域であった北海道では3社が指定され、岐阜県・兵庫県・島根県・広島県は2社が指定された。また、国外にも内務大臣指定護国神社に相当する、樺太庁長官指定の樺太護國神社(豊原市)、台湾総督指定の台湾護國神社台北市)、朝鮮総督指定の京城護國神社(京城府)及び羅南護國神社(清津府)が存在した。 1945年(昭和20年)の空襲で本殿・神饌所以外の建物を焼失した。第二次世界大戦後には社名を「三重神社」に改称していたが、日本が主権を回復したことを機に1953年(昭和28年)に元の社名に復した。また、この年に県議会議長と知事宛てに「三重縣護國神社復興造営に関する請願」が出された。この請願は護国神社の存在意義を明らかにする面において極めて重要であるから、以下にその全文を引用する。

三重縣護國神社は縣下出身の全英霊を奉齋する本縣唯一の施設でありまして其の祭神は何れも身命を惜まず國家の至上命令に従って國難に殉ぜられた譽ある勇士であります 其の純忠の精神 報國の心魂は以て國民の範とすべく 平和國家の再建に際しても 最も尊ぶべき犠牲的精神の権化であり永遠に追慕景仰すべきであると考へます

然るに終戦後占領政策による壓迫は我が國の諄風美俗を悉く葬り去らんとする有様で殉忠至誠の英霊に報いる術もなく 骨肉の遺族をして血涙を絞らしめ洵に遺憾の極みでありました
幸にして昨年 待望久しかりし祖國独立の喜を迎へて以来 縣市町村の格別の配慮により本神社維持方策の確立を見るに至った事は洵に感銘に堪へない次第であります
翻って本神社の重要施設たる拝殿社務所其の他附属建物は昭和二十年七月の空襲により焼失の災厄に遭ひ辛じて難を免れた本殿も明治四二年の造営に係り既に四十有五年の歳月を経て腐朽甚だしく其の復舊造営は焦眉の急を告げている状況にあります 加ふるに境内狭隘にして祭祀執行に際し甚だしく支障を来している實状に鑑み之が拡張造営を要望する聲は今や巷に満ち溢れているのであります 申す迄もなく國家の礎石として一身を犠牲に供した縣下五萬英霊の冥福を祈り芳烈なる偉勲を顕彰して後昆に朽ちしめないことは吾々縣民としての義務であると共に将来國民精神作興の上にも寄与する所が多大であると思惟するものであります 即ち本神社の施設の充實と完璧を企圖することは最も喫緊の業であると深く信じて疑わぬ所であります
冀くは縣下遺族の念願と縣民多数の要望を容れられ實状充分御査覈御検討の上本請願を御採擇せられ速に適切なる復興計画を樹立せられんことを切望して已まない次第であります 茲に本縣民を代表して請願致します
 昭和二十八年十二月

各郡町村会長 署名捺印
各郡町村議会議長 署名捺印
三重縣遺族会会長 署名捺印
各市郡遺族会長、婦人部長 署名捺印
神社総代 署名捺印

三重縣護國神社宮司 仲 公 捺印

三重縣議會議長 髙倉朝次郎殿
三重縣知事 青木 理殿

上記の請願を受けて、昭和29年3月に三重縣護國神社造営奉賛会が発足した。造営奉賛会の趣旨書は以下の通りである。

  三重縣護國神社造營奉賛會趣旨書
 阿漕の浦に鳴く千鳥聲はすれども姿は見えず、實に懐しく仰ぎまつる三重縣護國神社は戊申の役来の五万餘柱に及ぶ吾が郷土出身の御英靈をお祀りする本縣唯一の神社であります。
 これら御祭神の神々は何れも身を鴻毛の輕きにおき只管國運の隆昌と世界の平和とを祈りつつ國難に殉ぜられましたる靖國護郷の勇士でありまして平和國家の再建に努力しつつある吾々と致しましては片時も忘れることの出来ないところであります。
 殊に弓矢鞆の音聞かざる國とて誇る伊勢の護國の神として誠にうるわしく聖地三重縣民擧つて其の功績を稱え奉り永久に追慕景仰申上げたいと存じます。
 然るに其の社殿や諸施設は殆ど戰災に遭い辛うじて免れましたる本殿も腐朽甚だしく且境内も狭隘のため参拝者の方々に非常な御不便をかけて居るのでありますから私等崇敬者として洵に恐懼に堪えない次第であります。
 今回圖らずも神宮より東寶殿の古殿舎を下賜されましたので同志相寄り相議りまして本殿はもとより教化の講堂並に遺族會館等文化的施設をも附設して縣下崇敬者のみ靈の寄り所として立派な御社殿を一日も速かに完成し御神慮を慰めまつると共に大いに社會福祉の増進を圖り以て新時代の要請に應え得るよう熱願して本會を設立することになりました。
就いては全縣民崇敬者の皆様には何卒意のある所ををおくみ取り下さいまして何分の御賛助を賜るよう切に御願申上げます。
御崇敬者各位

趣意書文中に「戊申」とあるが、戊辰の誤りであろう。また、造営資金の造成にあたっては先んじて復興造営に着手していた他の護国神社に調査を依頼し、これを参考にしたようである。他の護国神社に調査を依頼した時の文章が残っている。

昭和三十年六月二十一日
     三重県護国神社 宮司 林 栄治
     同造営奉賛会事務局長 佐久間 安吉
        殿
拝啓 梅雨の候御社頭益々御隆昌の段 慶賀申上げます
扨当護国神社は戰災の為御本殿を除く總ての社殿が罹災致しましたが、先般造営奉賛会が組織せられ(会長 知事)近くこれが復興事業に着手する段取りと相成りましたが現状にては公費よりの造営資金拠出は相当な困難を伴ひますのでご当県に於ては一般募金にその總てを依存する事として各郡市を通じ募金依頼手續きを致しましたが何分募金目標額五千万円を達成する為には、県民一世帯当り約百二十円にもなりこれ又目標達成は極めて困難視せられるに至りまして 関係者一同憂慮致して居る次第であります
之につき誠に恐縮には存じますが 御造営に着手して居られる貴神社の実状を拝承し種々の資料を参考として今一度当神社の造営資金造成方法に検討を加へ度く存じますので別紙所要欄に御記入の上御教示賜りますれば甚だ幸と存じますので此段御願申上げます


請願から4年が経った1957年(昭和32年)に本殿も含めて新たに社殿を造営するに至った。

1960年(昭和35年)10月に合祀概了奉告臨時大祭を斎行した。臨時大祭に先立って同年8月26日午前9時30分より宮内庁一階講堂にて宮内庁長官から全国護国神社宮司へ幣帛料の伝達が行われた。

1975年(昭和50年)10月27日、第30回国民体育大会に出席するために昭和天皇香淳皇后が来県。行幸啓先の一つとなる[1]

1982年(昭和57年)に御造営事業が始まり、起工奉告祭を3月19日に行い、仮殿迂座祭(儀式殿から本殿へ移す)を同月23日、御造営工事協力会安全祈願祭を5月12日、御造営工事地鎮祭を6月6日、仮殿遷座祭を10月28日に斎行した。

1983年(昭和58年)には本殿の改修工事、社務所の新築工事を完工し、3月17日午後7時に本殿遷座祭を斎行した。

2019年(令和元年)には御創祀150年を迎え、社務所屋根の葺き替え工事、駐車場整備工事などの記念事業工事を完工した。

『津市小観』と『東宮行啓記』に見えたる官祭招魂社時代[編集]

1912年(明治45年)刊行「東宮行啓記」

1901年(明治34年)5月6日に関西図書株式会社から発刊された『津市小観』(三重県総合博物館所蔵)神祠と佛刹の「八幡神社附招魂社」の項に記述がある。以下はその引用である。

「招魂社は、その境域の内八幡社の東に在り、藩主藤堂高猷の建つる所。關ヶ原大阪の二役、明治戊辰の東征の軍、津藩戦没士卒の忠魂を祀り、初て表忠社となす。後官祭となり招魂社と改め、更に明治十年西南の役、縣下殉難の遺靈を合祀す。未だ殿宇奕々の壮勸なしと雖も、而かも毎歳祭享を絶たず、灸を捧げ腊を供し、鐘鼓其坎、恍として神の來格を覚え、競馬角觝の戯、亦以て聊かその靈を慰むるものあり。」

また、現在地(津市広明町)へ遷座して間もない1910年(明治43年)に東宮(後の大正天皇)より幣帛料を拝領している事が史料によって確認できる。『東宮行啓記』によると東宮は1910年(明治43年)11月12日から5日間に亘って三重県を行啓した。その2日目である11月13日には三重県庁、三重県立第一中学校、三重県師範学校、三重県立高等女学校、三重県立農事試験場、三重県勧業陳列館を視察し、御使を別格官幣社であった結城神社と官祭招魂社へ遣わし、幣饌を薦めた。以下は『東宮行啓記』第2章第7節御使差遣からの引用である。

「御使は午後二時官祭招魂社に著せらる社司拜迎し拜殿に於て神饌を授けらる社司神殿に昇り之を奠供し御使は階下に進み玉串を獻して拜禮あり畢て退出午後三時歸還せられたり(原文ママ)」

3日目には宇治山田市(現伊勢市)へ向かい、外宮、内宮を親拜し、その後、神宮皇學館、徴古館及農業館、三重県立第四中学校を視察した。

『三重縣史上編』に見えたる官祭招魂社時代[編集]

1918年(大正7年)刊行「三重縣史上編」

明治の一新によって神社や仏閣は大きく整理され、その余波は瞬く間に全国に広がった。三重県もその例外ではなく、抜本的変革を余儀なくされる状況であった事が本書に記されているが、その中でも招魂社の設立については大きく取り上げている。以下はその一部を引用したものである。

維新當時の神佛二教の變革は前項記するが如き大動揺を來したる中に在りて佛教は非常なる打撃を蒙りたりと雖も神教は國体上の關係より勢威を有するに至れるものあり、本縣に在りても自然信仰を增加し來れるは無論にして、縣官に在りては明治二年十一月伊勢國安濃郡津八幡町八幡神社境内に一社を建て、明治元年攝州高濱の役及び動燃函館の戰に戦歿する者三十七名の靈を以て、之を神に祀り名けて表忠社と云ひ、年々八月廿日を以て神式の祭典を行ふことに定め、後明治六年五月三日該招魂場(別に表忠碑あり阿拜郡上野農人町字社垣内にあり共に戊辰己巳東征戦死者三十七人の靈を祀る所なり、表忠社は津藩の築造、彰忠碑は同藩士渡邊德等の創立に係る)の地名を陸軍省に稟し、(彰忠碑は同年三月三十日 同省六年三月三日に因る)七年五月三十一日、又其祭祀及修繕費を錄して内務省に進達せしが(彰忠碑は六月廿五日 同省七年乙第二十二號達に因る)八年に至り經費を定め毎歳金四拾四圓廿五銭を以て額とす(彰忠碑は經費を付せず)同年八月二十日十三等出仕小野實光を遣し、神官と共に祭典を行はしむ、(九年に至り縣官の發遣を止め、祭典は毎歳此日を以て神官に於て行はしむ)るに至れり

さらに続けて現在地への移転、祭神数、当時の様子についても触れている。

明治四十二年、地を現在の偕樂公園下に移し、荘嚴なる社殿を造營して英靈を此處に遷し奉り、爾來中秋九月官祭により恒例祭典を執行し、陣歿者の英靈を祀ると共に、祭典當日には各遺族を招待して神酒直會を頒ち、又別に境内に表忠舘を設け、戰歿者の遺物を蒐集陳列して一般参拜者の縦覧に供する事にせり、始め同社に合祀する者戊申役に於ける戰死者三十七名なりしが、其後日淸、日露両役に於ける戰死者の外に臺灣蕃匪事件の犠牲者、近くは大正三年の役に於ける戰没者等を合祀し、更に元治元年の事變に陣歿せし古勇士の靈を迎へ奉りて、現今三千三百〇二名の多きに達せり、内譯左の如し

 戊申役 三十七、元治元年事變 三、西南役 三百四十六、二十七八年役 三百〇一、三十七八年役 二千五百八十三、大正三年役 十、臺灣蕃匪事件 十

現在同社の有する基本金壹萬貮千四拾八圓、其多くは縣より下附されたるものにして、年々の祭典費用は各郡市に於ける醵出金を以て之れに充て、祭典に奉仕する神官も各郡市に割當て之を行ふ事とせり、祭典當日には五十一聯隊の全部並に各學校生徒の参拜多く、津市に於ける年中行事の一として殷賑を呈するを常とせり(原文ママ)

文中に「戊申役」とあるが、これは戊辰役の誤りであろう。この記述を見ると、祭日には学校の生徒などが多く集まり、盛況であった様がうかがえる。また、国難を凌ぐごとに合祀、慰霊を行い祭神数も次第に増えていったようである。

『三重縣神社誌』と『津市郷土讀本』に見えたる官祭招魂社時代[編集]

1919年(大正8年)刊行「三重縣神社誌」

1919年(大正8年)に三重県全域の神社の詳細を記した『三重縣神社誌』が全四巻で発行された。発行者は三重縣神職會である。津市の神社として、別格官幣社結城神社、官祭招魂社、縣社八幡神社、縣社高山神社、郷社大市神社、村社小丹神社、村社比佐豆知神社、村社稲荷神社、村社市杵島姫神社、村社丸山稲荷神社の10社が掲載された。当神社は第一巻の22頁から23頁にかけて記述がある。以下はその内容である。

官祭招魂社 津市大字下部田字北羽所千三百九十五番ノ三外二十六筆
 一祭神
 明治維新前後三重縣出身殉國者
一由緒
 明治六年己巳年十一月舊津藩主藤堂高献安濃郡八幡町八幡神社の境内に小祠を建て戊辰の役官軍に從ひ戦死したる藩士の靈を祀り表中社と稱したりしか明治七年三月官祭に列せられ同八年十月招魂社と改稱す其後明治十四年西南の役に於ける本縣下出身戦死者を東京靖国神社に合祀せられたるも遺族の多くは遠隔の地にある同神社に参拜すること能はさるを憂へ明治十九年許可を受け本社に合祀し明治三十四年六月官祭招魂社と改稱す同三十五年明治三十七八年戰役及明治三十三年清國事件に於ける死歿者合祀の許可を受け明治四十二年津市大字下部田に移築し同時に明治三十七八年戰役及韓國是徒鎭壓事件死歿者を合祀す明治四十三年十一月十三日
聖上陛下東宮に在しゝ時本縣御駐輦の際東宮侍從田内三吉を差遣あらせられ幣饌料を献らる明治四十四年五月 昭憲皇太后神宮御参拜の際幣饌料御下賜あらせらる同年七月朝鮮暴徒鎭壓並臺灣土匪又は生蕃討伐に從事し死歿せる者を合祀し大正四年七月日獨戰爭並に臺灣蕃匪討伐事件及元治元年京都御所に於て戰死したる桑名藩士を合祀せり(原文ママ)
一建築物
 本殿 神明造檜皮葺 拜殿 玉垣 神饌所 社務所 表忠館 手水屋形 鳥居二基 灯籠六基 狛犬二基
一境内 二千四百坪
一祭日
 例祭 四月二十日

一基本財産
 金壹萬千参百圓 三重縣農工債券

由緒冒頭に「明治六年」(1873年)とあるが、後の干支が「己巳年」であるから「明治二年」(1869年)の誤りであろう。藤堂高猷の名が「藤堂高献」となっているが、史料によっては「高献」の字を使っていることもあるようである。また「明治四十二年」(1909年)のところに「是徒鎭壓事件」とあるが、これは「暴徒鎭壓事件」の誤りであろう。

1937年(昭和12年)に刊行された『津市郷土讀本』偕楽公園の項にも官祭招魂社時代を窺える史料がある。以下はその内容である。

(前略)園地に接して鎮座する三重縣官祭招魂社には、明治維新以來の戰事・事變に殉じた、三重縣出身者三千五百餘柱の英靈が合祀され、毎年、葉櫻の風薫る頃には、其の祭典が盛大に行はれる。

とあり、本文解説の欄には

招魂社 明治六年、藤堂高猷が、八幡神社境内に、明治維新の際の戰者を祀つた表忠社であつたが、明治八年招魂社と改稱し、同四十三年此處に移して、社殿を改造さる。昭和十二年現在の祭神は、三千五百餘柱である。

と付記されている。

この解説欄にも「明治六年」(1873年)が創祀とあるが、やはり明治二年(1869年)の誤りであろう。また、「同四十三年此處に移して」とあるが、広明町に遷座したのは「明治四十二年」(1909年)であるから、この箇所も誤りであると考えられる。

文化財[編集]

三重県護国神社は県の有形文化財「刀 銘(表)濃州御勝山住藤原永貞 (裏)萬延元年庚申八月吉日 於洞津鍛山田栄徳君佩刀松井治一郎」を所有している。刃長71.0㎝、反り1.7㎝、目釘穴1個。鎬造りで重ね厚く、庵棟で樋掻き通し、添え樋がある。鍛えは小杢目で、刃文は大乱れ、茎は生茎、栗尻、やすり勝手下りで、白鞘入りの拵えである。刀匠の藤原永貞は松井治一郎といい、文化年間(文化6年・1809年)に美濃国不破郡垂井(現在の岐阜県)で生まれている。先祖が伊勢から東本願寺の別格の寺院である平尾御坊附人として岐阜へ移住したもので、同寺と同派の寺が津及び田丸にあるため、当地での鍛刀が多くある。本刀は、永貞が伊勢に滞在していたおりに作刀したもので、伊勢打ちの傑作といえる。

年間祭事・行事[編集]

1月1日:歳旦祭
1月15日:どんど焼き
2月11日:紀元祭
2月17日:祈年祭
2月23日:天長祭
3月3日:おひなまつり
春分の日:春分祭
4月22日:春季例祭
4月29日:昭和祭
5月5日:子供武者参り
6月30日:夏越大祓式
8月13日:万灯みたま祭点灯式

みたま祭に掲げられる提灯

8月14日:式年みたま祭
8月15日:万灯みたま祭
8月15日:終戦の日英霊感謝祭
秋分の日:秋分祭
10月22日:秋季例祭
11月3日 明治祭
11月15日:七五三
11月23日:新嘗祭
12月31日:年越大祓式・除夜祭
※毎月1日・15日:月次祭※随時:御祭神慰霊祭

狛犬・常夜燈[編集]

  • 阿阿の狛犬
    口を開けた狛犬

    一般的な狛犬は、左右一方が口を開いた「阿」、一方が口を閉じた「吽」が一対として神社に置かれている のがほとんどであるが、三重縣護國神社の青銅製の狛犬は、左右とも「阿」「阿」と口を開けている。なぜ左右とも口を開けているのか、詳しいことは判っていないが、この狛犬が当神社に奉納された時に書かれた「狛犬由来記」などを手掛かりに想像すると、もともとこの狛犬は、「阿」「吽」二対が存在していたのではと考えられる。「狛犬由来記」の本文は以下の通りである。

 此の青銅狛犬は大東亜戦に應召せるも
疎開先にて終戦となり
 無傷のまま鍋吉工場に復員せり
 今回護国神社造営に際志
 英霊奉護の御使として卒先奉納さる
 寔に奇特の至りにて其の敬神篤志永く後昆に可傳
 昭和三十二年十月造営竣工記念

 三重縣護國神社 宮司 林榮治 記

やがて大東亜戦争が始まり戦局が厳しくなると、その二対の狛犬は物資となるべく戦争に召集されたが、戦地で傷つき、その後、疎開先で「阿」と「阿」だけが終戦を迎えたようである。1957年(昭和32年)の三重縣護國神社御造営に際し、その「阿」と「阿」の狛犬を一対として、桑名市の鍋吉鋳造所の鋳物師 伊藤軍市郎氏より当神社に奉納された。

  • 阿吽の狛犬
    鳥居前の狛犬
    阿吽の狛犬は1909年(明治42年)10月に三重縣會議員より奉献されたものである。
  • 常夜燈
    1983年(昭和58年)10月に常夜燈6基が奉納された。その一つ一つに万葉集の中の防人の詩が記され、これらの文字の揮毫は宇治土公宮司によるものである。
    内容は以下の通りである。

美豆等利乃 多知能已蘓岐尓 父母尓 毛能波須價尓氐 已麻叙久夜志岐
 水鳥の發ちの急きに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき
 水鳥の飛び立つような出立のさわぎに父母に別れの言葉も言わずに来て今こそ後悔されることだ
財団法人三重県遺族会

麻氣婆之良 寳米弖豆久礼留 等乃能其等已麻勢 波々刀自 於米加波利勢受
 眞木柱讃めて造れる殿の如いませ母刀自面変りせず
 真木の柱を讃めて作った御殿のように永く無事でおいで下さい。母刀自よ面変わりすることなく
財団法人三重県遺族会

和呂多比波 多比等於米保等 已比尓志弖古米知 夜須良牟 和和美可奈志母
 吾等旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむわが妻かなしも
 自分の旅はこれが旅というものだと思ってあきらめるけれども家に残って子供を持って痩せるであろう私の妻がいとしい
英霊にこたえる会三重県本部

佐伎牟理尓 多々牟佐和伎尓 伊敝能伊牟何奈流弊伎 已等乎 伊波須伎奴可母
 防人に發たむ騒きに家の妹がなるべき事を言わず来ぬかも
 防人に発つ騒ぎに家の妹の生業のことを言わないで来てしまったなあ
三重県敬神婦人連合会

阿米都知乃 可美乎伊乃里弖 佐都夜奴伎都久之乃之麻乎 佐之弖由久和例波
 天地の神を祈りて征箭貫き筑紫の島をさして行くわれは
 天地の神を祈って征箭を胡籙にさして筑紫の島をさして行く私は
自由民主党三重県支部連合会

阿母刀自母 多麻尓毛賀毛夜 伊多太伎弖 美都良乃奈可尓 阿敝麻可麻久毛
 母刀自も玉にもがもや頂きて角髪のなかにあへ纏かまくも
 母刀自も玉であって欲しい頭にのせて角髪の中に一緒に巻こうものを
津商工会議所

境内石碑・慰霊碑[編集]

  • 社号
    三重縣護國神社の社号碑

 表:三重縣護國神社
 裏:奉獻 昭和三十二年十月御造營記念改刻建立 萬古陶磁器工業協同組合

 表:百度石
 裏:奉納 昭和五十八年吉日 樋尾吉男外九十九名

 表:天皇陛下皇后陛下御親拜記念
 裏:昭和五十年十月二十七日當三重縣護國神社に行幸啓あらせられ親しく御拜を賜った
   この榮光を永く傳えるべく記念の碑を建立する
昭和五十一年十月二十一日


  • 母の象

 表:強くきびしくやさしかった母おかげで今私たちがあるお母さんありがとう
この像は先の大戦で幼くして父を失った県下の遺児達が戦後の母の労苦に感謝して偉大な母の姿を永遠に讃えると共に惨めだったその深い悲しみをくり返すことのないようにと世界の恒久平和を祈って建立致しました
昭和五十年十二月 三重県遺族会青壮年部

   

  • 大東亜戦争における主要戦域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図

 表:先の戦争でこんなに多くの尊い人命が失われました。われわれはこの皆さんに応えるため、世界の恒久平和と繁栄に努めることを誓います。お父さん、安らかにお眠りください。
   終戦50周年記念 平成7年5月建立 三重県遺族会青壮年部


  • 歩兵第百五十一聯隊慰霊碑
    歩兵第百五十一聯隊慰霊碑

     表:慰霊 歩兵第五十一聯隊
     裏:聯隊は明治三十八年創建、樺太等に出兵、爾後神都鎭護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。然るに大正十四年五月、軍縮により廢止せらる。昭和十三年七月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第十五師團の隷下に入り同年八月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戰に參加、赫々たる武勲を収む。大東亞戰急を告ぐるや、昭和十八年八月ビルマに轉進、インパール作戰に加はり眞に特攻精神を發揮す。昭和二十年八月十五日大命により終戰。此の間軍旗の下盡忠報国祖國繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた戰友は實に四千有餘柱に及ぶ。 茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め鎭魂の碑となす 昭和五十一年四月 歩兵第五十一聯隊(祭第七三七〇部隊)生存者一同
  • 歩兵第百三十三聯隊慰霊碑
    歩兵第百三十三聯隊戦没者慰霊碑

     表:歩兵百三十三聯隊 戦没者慰霊碑
     裏:慰霊碑銘

   歩兵第百三十三聯隊(嵐第六二一四部隊)は支那事変に際し昭和十三年五月久居町の屯營において編成 第百十六師團に属して同六月中國に出征し第十三軍に隷す 当初浙江省杭州府附近にいで安徽省銅陵県附近を戡定駐屯し楊子江警備に任じつつ江南江北に轉戦幾十度に及ぶ 特に十三年秋 武漢攻略戦には遠く漢陽に進撃し 十四年冬 敵十数個師による冬季大攻戦を迎えては之を陣前に撃摧 十五年四月春季皖南作戦には挺進して霊峰九華山の天嶮を突破 敵主力を補捉 榮の感状に輝き 十七年夏 浙贛作戦には浙江省衢州城外西北陣地帯を一擧に席捲 軍の衢州攻陥に轉じ常德殲滅作戦に参加 輻輳する水濠を連続突破して湖南省常德県城攻略に任じ力戦死鬪七晝夜 遂に之を完全占領し再度の感状に浴す

  十九年夏 大陸の精鋭三十六萬 湘桂打通に動くや勇躍ます汨水を血流と化してその堅陣を突破し湘潭を奪い湘郷に敵を圧し更に長駆衡陽県城攻略の主攻に任ず 蓋し衡陽攻略は湘桂作戦成否の焦点たり 七月一日クロ高地攻撃の初動より八月七日敵主陣地岳屏西方エビ高地を奪取して守備軍の死命を制するまで終始全軍の先陣に立ち白兵をもって奪取せる堅壘十数個 遂に敵牙城を抜く 感状三度燦として偉勲を讃う

   爾後第二十軍に属して寶慶附近を警備し 二十年春 湘西作戦起るや勇進して芷江敵航空基地全面に迫りたるも五月命により反轉 寶慶附近陣地に死守玉碎を期しつつ 八月 終戦の大詔を拝するに至る

   聯隊の戦陣に在ること八年に及び この間 鋒鏑疫癘に斃れたる戦友四千五百余柱を数う

   新生日本既に三十年 ここに慰霊碑を建て 祖國の安危に挺身 民族の榮光に殉じたる戦没戦友の遺烈を偲び 在天の英霊永しえに安らかならんことを祈る

   昭和五十一年四月

   一三三会建之

  • 歩兵第五十一聯隊慰霊碑
     表:歩兵第百五十一聯隊戦没者慰霊碑
      三重県知事 田川亮三謹書
     裏:慰霊碑銘

   歩兵第百五十一聯隊(安第一〇〇二二部隊)は 昭和十六年九月三重県久居町に新設され 昭和十八年十一月動員下令 昭和十九年三月ビルマ国へ出動した

   聯隊主力はインド国インパール攻略戦に 第一大隊は北ビルマ戦線に五月より参加した

   時あたかもビルマは雨期に入り 山中にて食糧その他の補給も無く 栄養失調と過労により身体は衰弱し マラリヤ 下痢等に悩みながらも勇戦奮闘した 十一月よりオークトウ マンダレー タウンタ付近の戦闘に参加し 優秀な装備の敵と交戦 戦場は惨烈苛酷をきわめた その後各地を転戦し 昭和二十年六月より雨期の泥沼の如きシツタン河口に於て 必死の攻防戦を展開中 八月終戦の大詔を拝するに至った

   風土の異なる遠き辺境に於いて 戦陣にあること一年五か月 この間連合軍 悪疫との戦に斃れたる戦友は二千九百余柱を数える 誠に痛恨の極みである

   ここに慰霊碑を建立し 祖国に殉じたる戦友の遺烈を偲び その功績を顕彰する 在天の英霊願わくは永久に安らかならんことを

   昭和五十五年十月

   歩兵第百五十一聯隊戦友会建之

  • 近衛兵第一聯隊碑
     表:近衛兵第一聯隊碑 平成21年4月建之 三重県近歩一会

石玉垣[編集]

三重縣護国神社の石玉垣

境内の一部外周には玉垣がめぐらされており、これは1985年(昭和60年)10月に完成したものである。石玉垣の碑文は以下の通りである。

終戦四十周年にあたり玉垣の整備を計画し森田清氏の篤志により森田基金を主体として本事業を完成した
 昭和六十年十月二十一日
  宮司宇治土公貞幹
  責任役員西口喜太郎
   仝 松岡千明
   仝 乾 英夫
   仝 長谷公秀
   仝 宇野誠一
   仝 山本三千男

この碑文中に「森田基金」という語が出てくるが、これはおぼろタオルの社長であった森田清が神社へ吉田山の土地を寄進したが、この地への移転が1957年(昭和32年)造営の際に頓挫となったため、この地を市役所に譲渡したときに得た資金が基になっている。次の資料は惜しくも移転が中止となった際に神社から森田に送った感謝状の写しである。

  感謝状
貴殿は先考庄三郎氏の遺志を継承され當神社の移転敷地として吉田山の土地弐千有餘坪を曩に献納せられたが、其の後移転取止めと決定したので其の處置を懇談申上げた處公共事業に転換利用せられるならば異存はないと云ふ御諒解の下に津市役所に譲渡し金五壱拾萬圓也を神社基本金とし森田基金と稱して永く積立てることになりました是全々貴殿の崇敬の念慮と公徳精神の發露であり寔に他の垂範と千載不朽に称すべきであります茲に其の美徳を頌する一端として野呂介石画伯作品天香書閣の畫圖壹幀を贈呈し聊か感謝の微意を表します
昭和三十二年五月末日
   三重県護国神社宮司 林榮治
  森田清殿

伊勢の神宮との関係[編集]

周辺[編集]

地図

交通[編集]

  • 車:津インターより約5分
  • JR・近鉄・バス:津駅西口より歩いて約5分

関係団体[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、145頁。ISBN 978-4-10-320523-4 

外部リンク[編集]