三河中島藩

三河中島藩(みかわなかじまはん)は、三河国額田郡(現在の愛知県岡崎市中島町)に存在した。藩庁は中島陣屋。「明暦四年武鑑」松会開板、明暦4年(1658年)刊では、1万8千200石で、藩主は板倉主水(板倉重矩)。

概要[編集]

三河深溝藩主(1万5000石)であった板倉重昌は、島原の乱鎮圧のために幕府軍総大将として島原城総攻撃を行ったが、戦果を挙げることができなかった。このため、幕府は老中松平信綱を総大将とした増援軍を派遣したが、重昌は信綱がやって来るまでに城を落とさなければ面目が丸つぶれとなることを恐れて功にあせり、寛永15年(1638年)正月1日に戦死した。このとき、重昌の嫡男重矩も父と共に島原に従軍し、その後にやって来た信綱の下で功を挙げたが、幕府は戦死した重昌の不手際などを嫡子である重矩に問い、重矩は処罰として謹慎を命じられ、家督相続も許されなかった。重矩の謹慎は寛永15年12月晦日に解かれ、家督は翌年6月に継ぐことを許されている。

重矩は家督相続のとき、5000石を弟の板倉重直に分与している。さらに重矩が藩庁を深溝から中島に移し、三河中島藩が立藩した。

重矩は万治3年(1660年)11月に大坂定番に任じられて功を挙げたことから、1万石を加増された。寛文5年(1665年)12月には老中に栄進したことから、翌年には上野国武蔵国内などにおいて2万石を加増された。寛文8年(1668年)には京都所司代に転任し、寛文10年(1670年)には老中に再任されるなど、要職を歴任したことから寛文11年(1671年)2月に三河・上総国内などでさらに1万石を加増された。寛文12年(1672年)閏6月3日、重矩は三河中島から下野烏山藩に移封され、三河中島藩は廃藩となった。

なお、重矩は幕閣として対外に出ることが多かったことから、藩政は重臣の池田新兵衛が執行した。池田は有能かつ善良な人物で、藩政の基礎は池田によって固められたと言われている。

歴代藩主[編集]

板倉家

譜代。1万石→2万石→4万石→5万石。

  1. 板倉重矩(しげのり)