三教会同

三教会同(さんきょうかいどう)は、1912年2月25日に、内務次官の床次竹二郎が主導して、神道(13人)、仏教(51人)、キリスト教(7人)の代表、計71人を華族会館に呼び、行われた会同。集まった代表を前に内務大臣の原敬が挨拶した[1]。国家による宗教利用の頂点と位置づけられており、政教界の大問題となった。その契機は第2次西園寺内閣の内務次官床次竹二郎幸徳事件後の社会情勢に打った手であるとされている[2]

決議案[編集]

原文[編集]

吾惰、今日三教合同を催したる政府当局者の意志は、宗教本来の権威を尊重し、国民道徳の振興、社会風教の改善のために政治、教育、宗教の三者各其分界を守り、同時に互いに相協力し以て皇運を扶翼し時勢の推運に資せんとするにあることを望む。吾儕宗教年来の主張と相合致するものなるか故に、吾惰は其の意を諒とし、将来益々各自信仰の本義に立ち、奮励努力国民教化の大任を完了せん事を期し同時に政府当局も亦誠心鋭意此の精神の貫徹に努められん事を望む。左の決議をなす[2]

現代語訳[編集]

私達、今日において三教合同を催すことにした政府当局者の意志は、宗教本来の権威を尊重し、国民の道徳への振興、社会へ徳をもって教えを広める事への改善のために、政治、教育、宗教の三者は、それぞれその領分をわきまえ、同時に互いに相互協力して皇運を助け時代の推運の向上に資する事を望みます。

私達宗教者が、年来の主張と相互に合致するものであるが故に、私達はその意志を真実とし、将来において益々各自の信仰の本義に立ち、より努力を行うことで国民を教化する大任を完了する事を期して、同時に政府当局者もまた誠心鋭意この精神の貫徹に努められる事を希望します。左の決議を行う。

決議[編集]

原文[編集]

  1. 吾等ハ各其教義ヲ発揮シ、皇運ヲ翼賛シ国民道徳ノ振興ヲ図ランコトヲ期ス[3]
  2. 吾等ハ当局者ガ宗教ヲ尊重シ、政治宗教及教育ノ間ヲ融和シ、国運ノ伸長二レンコトヲ望ム[3]

現代語訳[編集]

  1. 私達はおのおの教義を発揮して、皇運を力を添えて助け国民道徳の振興を図ろうとする事をいたします。
  2. 私達は当局者が宗教を尊重し、政治宗教及び教育の間を融和し、国運の伸長の助けとなることを望みます。

神道[編集]

宗派神道(教派神道)十三派は、キリスト教や仏教と同一視されるのは反対という意見が強く、当初は積極的な協力姿勢を示さなかった。だが、1912年1月23日で行われた神道懇話会の臨時総会から、わずか数日後の1月27日の神道十三派の代表者会合では意見が一致し、三教会同への出席が決まっている[4]

この会合への出席となるに至ったのは、1906年第一次西園寺内閣が発した神社合祀政策により、約20万社あった神社は約半数に激減するという事態が生じていた。こうした神社制度の整備で国家の祭祀としての体裁を法制度上は整えられるようになったのであるが、実際には府県社以下神社のいわゆる民社の維持は困難で、他宗教と変わらない宗教的活動をして神社維持を図らなければ存続できない状態にあった[5]

よって、教派神道は参加するに至ったが、神社神道は参加を拒んだためである。

仏教[編集]

政府当局の趣旨には賛成しつつも、反キリスト教感情や仏教のキリスト教に対する特権意識、祖先崇敬や神社崇拝の項目削除などから、仏教界の三教会同への反対機運は強かった。しかし、明治維新の際に明治政府が没収した寺領地の無償交付を期待する、曹洞宗浄土宗真言宗智山派真言宗豊山派日蓮宗が会同出席に協力したことが契機となり、後には政府当局者を越える熱量で会同に備えた[6]

これの前提となる議論が、1910年から1911年にかけて行われた幸徳事件直後の第27回帝國議会において、1911年3月10日に村松恒一郎らによって「危険思想防止策」に関する質問が出され、これに対して桂太郎首相、平田東助内相、小松原英太郎文相は1911年3月18日に

宗教が国民の徳性を涵養するに力あることは、政府に於ても凪に認む所なるを以て、神仏二道に対しても之が監督と指導とに依り、益々其の振興を促し、教化の目的に副はしめんことを期す

と答弁している。神仏二道と言い、キリスト教を加えていないことが注目される[7]

キリスト教[編集]

キリスト教界では、日本メソヂスト教会本多庸一日本組合基督教会宮川経輝バプテスト千葉勇五郎日本基督教会井深梶之助日本聖公会元田作之進カトリック教会本城昌平日本ハリストス正教会石川喜三郎が出席。内村鑑三柏木義円はこれに反対した[8]

日本におけるキリスト教会は、憲政史上始めて公的な塲で神道・仏教と対等に扱われたものとして歓迎する教派の人々も居たが、無教会派の人々を中心にして政府主導の宗教政策に乗ることは政教の癒着を来し宗教の主体性を失わせるものだという見解から批判的な人々も居た[9]

神社神道内務省管理下の官幣神社)が招かれていない事について、本多庸一だけが「何、或人は神道を宗教に入れていない?そりゃ不可んよ。あれだって一つの立派な宗教ぢゃないか」と述べ三教合同といわず将来神道も入れたらよいと述べ、問題を多少とも意識していたようである[10]

脚注[編集]

  1. ^ 三教会同とは”. コトバンク. VOYAGE MARKETING. 2021年4月28日閲覧。(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『世界大百科事典』第2版より転載)
  2. ^ a b 吉田久一 2017, p. 155.
  3. ^ a b 鵜沼裕子『史料による日本キリスト教史』聖学院大学出版会、1997年6月10日、164頁。ISBN 978-4-915832-01-7 
  4. ^ 土肥昭夫「三教会同(1) ― 政治・教育・宗教との関連において ―」『キリスト教社会問題研究』第11号、同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会、1967年3月、90-115頁、doi:10.14988/pa.2017.0000008255ISSN 04503139NAID 120005636073 
  5. ^ 國學院大学日本文化研究所『縮刷版 神道事典』弘文堂、1999年5月15日、20頁。ISBN 4-335-16033-X 
  6. ^ 土肥昭夫 1967.
  7. ^ 吉田久一 2017, p. 154.
  8. ^ 鵜沼裕子 1997.
  9. ^ 鵜沼裕子『史料による日本キリスト教史』聖学院大学出版会、1997年6月10日、46頁。ISBN 978-4-915382-01-7 
  10. ^ 土肥昭夫 1967, p. 95.

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • E.E.ケアンズ、『基督教全史』、いのちのことば社(聖書図書刊行会)、2016年。ISBN 978-4791200405
  • 中村敏、『日本キリスト教宣教史』、いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4264027430
  • 土肥昭夫、『日本プロテスタント・キリスト教史』、新教出版社、1998年。ISBN 978-4400306528

関連項目[編集]