一条実孝

一条実孝

一条 実孝(いちじょう さねたか、旧字体一條 實孝1880年明治13年)3月15日[1] - 1959年昭和34年)12月3日[1])は、明治から昭和期の日本海軍軍人政治家貴族院公爵議員。最終階級は海軍大佐。旧名・大炊御門重孝[1]

経歴[編集]

一条実孝

大炊御門師前(第27代大炊御門家当主家信の子)の長男(庶子)[1][2]一条実輝養子[1][3]

4歳の時に父が大炊御門家を廃嫡されたために苦しい生活を送り、実孝も普通の小学校(現在の新宿区立花園小学校)で学んでいた。また、父と共に山岡鉄舟の下で剣術を学んでいる。1907年(明治40年)に一条家の養子に入る事になり、従五位が授けられた[4]。養父の死去に伴い、1924年(大正13年)8月15日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任した[1][5]

1900年(明治33年)12月13日、海軍兵学校28期)を卒業[6]。さらに、1910年(明治43年)11月29日、海軍大学校甲種8期を卒業[7]横須賀鎮守府参謀軍令部参謀、第三艦隊参謀、フランス大使館付武官兼造船造兵監督官、大喪使祭官長などを歴任[8]。強い国家主義者的な考えを持っていた。 この頃には「華族中の華族」としての立場となり、日本温泉協会初代会長、日本善行会初代会長。東京修道館名誉会長など多くの役職を引き受けた[9]

1946年(昭和21年)5月8日、貴族院議員を辞職した[10]。同年9月、公職追放となった[11]

栄典[編集]

位階
勲章等

親族[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 中宮寺門跡となり、茶道・華道教室の若草塾を開いたが、35歳のとき、15歳年下の弟子と駆け落ちし、還俗して平松陽子に戻り結婚した[19][18]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 霞会館 1996, p. 149.
  2. ^ 大炊御門幾麿『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、122頁。 
  4. ^ 松田敬之『次男坊たちの江戸時代-公家社会の〈厄介者〉-』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー246、2008年) ISBN 978-4-642-05646-5 P39-53 「「公卿剣客」として再起した厄介」
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
  6. ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』93頁、96頁。
  7. ^ 秦郁彦 2005, p. 645.
  8. ^ 衆議院 & 参議院 1990, p. 7.
  9. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、248頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  10. ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日。
  11. ^ 『朝日新聞』1946年9月26日一面。
  12. ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
  13. ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
  14. ^ 『官報』第848号「叙任及辞令」1929年10月26日。
  15. ^ 『官報』第4701号「叙任及辞令」1942年9月9日。
  16. ^ 『官報』第1846号「叙任及辞令」1918年9月27日。
  17. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  18. ^ a b 一条尊昭(読み)いちじょう そんしょうコトバンク
  19. ^ 河原 敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』(講談社、2004年)奈良・中宮寺の尼門跡、大学生との恋の逃避行―一条尊昭門跡の章

参考文献[編集]

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 上田正昭 『コンサイス人名事典日本編』 三省堂書店、1976年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4
  • 衆議院、参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
  • 霞会館平成新修旧華族家系大成』 上巻、吉川弘文館、1996年。 
  • 秦郁彦『日本陸海軍総合事典』(2版)東京大学出版会、2005年。 

関連項目[編集]

日本の爵位
先代
一条実輝
公爵
一条家第2代
1924年 - 1947年
次代
華族制度廃止