ヴェルチェッリ

ヴェルチェッリ
Vercelli
ヴェルチェッリの風景
カヴール広場 (Piazza Cavour)
行政
イタリアの旗 イタリア
ピエモンテ州の旗 ピエモンテ
県/大都市 ヴェルチェッリ
CAP(郵便番号) 13100
市外局番 0161
ISTATコード 002158
識別コード L750
分離集落
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
地震分類 zona 4 (sismicità molto bassa)
気候分類 zona E, 2571 GG
公式サイト リンク
人口
人口 46,362 [1](2020-01-01)
人口密度 580.6 人/km2
文化
住民の呼称 vercellesi
守護聖人 Sant'Eusebio di Vercelli [2]
祝祭日 8月1日
地理
座標 北緯45度19分 東経08度25分 / 北緯45.317度 東経8.417度 / 45.317; 8.417座標: 北緯45度19分 東経08度25分 / 北緯45.317度 東経8.417度 / 45.317; 8.417
標高 130 (116 - 147) [3] m
面積 79.85 [4] km2
ヴェルチェッリの位置(イタリア内)
ヴェルチェッリ
ヴェルチェッリの位置
ヴェルチェッリ県におけるコムーネの領域
ヴェルチェッリ県におけるコムーネの領域 地図
イタリアの旗 ポータル イタリア
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ヴェルチェッリイタリア語: Vercelli ( 音声ファイル))は、イタリア共和国ピエモンテ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約4万6000人の基礎自治体コムーネ)。ヴェルチェッリ県県都である。

トリノミラノの中間、ポー平原セージア川河畔に位置する都市である。

名称[編集]

イタリア語以外の言語では以下の名称を持つ。

地理[編集]

ヴェルチェッリ県概略図

位置・広がり[編集]

ヴェルチェッリ県南東部に位置するコムーネで、ノヴァーラから南西へ21km、ビエッラから南東へ39km、アレッサンドリアから北北西へ48km、ミラノから西南西へ62km、州都トリノから東北東へ64kmの距離にある[5]

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のPVはパヴィーア県、NOはノヴァーラ県所属を示す。

歴史[編集]

ヴェルチェッリは北イタリアでも最も古い都市の一つであり、紀元前600年ごろまで遡ると考えられる。ラテン語でウェルケラエ (Vercellae) あるいは Vercelum と記されたこの都市は、リグリア人 (Liguresの一部族であった Libici あるいは Lebecili と呼ばれる人々の首都であった。ローマのもとで、この都市は重要なムニキピウムとなった。この都市の付近では紀元前101年ウェルケラエの戦いが行われ、ガイウス・マリウス率いるローマ軍がキンブリ族テウトネス族を打ち破った。

その500年後、マギステル・ミリトゥムスティリコは、ゴート族をこの地で全滅させた。ヒエロニムスの時代には、この都市の半ばは廃墟と化していた(olim potens, nunc raro habitatore semiruta (1, 3.1))。ランゴバルド族が侵入すると、この地はイヴレーア侯国の属地となった。885年からは神聖ローマ帝国の聖界諸侯たる司教領となった。

1120年、ヴェルチェッリは独立したコムーネ(都市国家)となった。ヴェルチェッリは第1次および第2次のロンバルディア同盟に参加した。その法令は、中世の共和国の中で最も興味深いものの一つとされる。1228年には、パドヴァにあったウニヴェルシタス(教師と学生の集団。のちのパドヴァ大学)がヴェルチェッリに移転して来た。ウニヴェルシタスはヴェルチェッリに1372年まで所在したが、特に目だった隆盛は示していない。ただし、その後も法科大学のみが維持された。

1307年には、異端とされたドルチーノ派の指導者フラ・ドルチーノが、当地で火あぶりの刑に処せられた。

13世紀には、都市をさまざまな問題が襲い、ミラノのデッラ・トッレ家英語版(1263年)、モンフェッラート侯国(1277年)、ヴィスコンティ家のマッテオ1世 (Matteo I Visconti(1290年–1299年)が当地を支配した。その後、1301年から1334年まで、ギベリンのティッツォーニ家 (Tizzoni) とゲルフのアヴォガドリ家 (Avogadri) が都市の主導権を争った。ゲルフはたびたび追放され、1328年にはモンフェッラート侯国がヴェルチェッリを手に入れた。1334年には、自ら進んでミラノのヴィスコンティ家の庇護下に入った。1373年には、司教ジョバンニ・フィエスキ (Giovanni Fieschi) はヴィスコンティ家を追放したが、マッテオ・ヴィスコンティは都市を再征服した。ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの兄弟争いによって利益を得た傭兵隊長のファチーノ・カーネ (Facino Caneは、1402年にヴェルチェッリを支配下に収めたが、1404年にモンフェッラート侯テオドーロ2世 (Theodore II, Marquess of Montferratによって追放された。1427年、ヴェルチェッリはモンフェッラート侯からサヴォイア公国に譲渡された。

ヴェルチェッリは、1499年と1553年にフランスによって、1616年と1678年にスペインによって占領された。 1704年、フランス軍は要塞を破壊することに失敗し、ヴェルチェッリは長い包囲戦に耐えた。以後のヴェルチェッリは、サヴォイア家(1720年以後はサルデーニャ王国)と運命をともにしている。1821年には、憲法制定を求める蜂起が発生した。

行政[編集]

分離集落[編集]

ヴェルチェッリには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Bivio Sesia, Brarola, Larizzate, Carengo, Cascine Strà, Montonero

社会[編集]

教育[編集]

姉妹都市[編集]

スポーツ[編集]

サッカー[編集]

プロサッカークラブのFCプロ・ヴェルチェッリが本拠を置く。ホームスタジアムはスタディオ・シルヴィオ・ピオラ。スタジアム名は、20世紀の名選手であるシルヴィオ・ピオラがヴェルチェッリで選手生活を始めたことを記念する。

人物[編集]

著名な出身者[編集]

ゆかりの人物[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]