ロペ・サントス

ロペ・K・サントスLope K. Santos, 1879年9月25日 - 1963年5月1日)はフィリピンタガログ語作家である[1]。作家であったことを別にしても、彼は弁護士、政治家、評論家、労働運動指導者でもあり、“フィリピン国語と文法の父”とみなされた[2][3]

生涯[編集]

文学の分野[編集]

サントスはフィリピン、リサール州パシッグ市(現在はメトロ・マニラの一部)でLope C. Santosとして、共にリサール州民のラディスラオ・サントスとビクトリア・カンセーコ(V. Canseco)の間に生まれた。彼はナショナリズムを示すために、ミドルネームにCansecoに代えてKansekoを用いた。彼の時代にはCの文字はタガログ語のアルファベットには含まれなかった。サントスは普通高等教員養成学校(Escuela Normal Superior de Maestros)と法律学校(Escuela de Derecho)で学び、そしてコレヒオ・フィリピーノ(Colegio Filipino)で文学士の学位を得た。彼は、よく似た競技だがより短い演説で行われるバラグタサン(balagtasan)と比べられる、ドゥプルハン(dupluhan、彼の若いころによく知られていた詩の討論試合)のエキスパートになった。

1900年、彼はムリン・パグシラン(再生)や彼が設立したサンパギータなどのタガログ語出版物の編集者として働いた。フィリピン大統領マヌエル・ケソンによって、彼は国語研究所(Surian ng Wikang Pambansa)所長に任命された[4]

政治活動[編集]

サントスは1910年から1913年までリサール州知事、1918年から1920年までヌエバ・ビスカヤ州知事に就任した。第5フィリピン議会の間、彼はナショナリスタ党のもと第12区の上院議員としても務めた[4]

私生活[編集]

1900年2月10日、サントスはシメオーナ・サラサールと結婚し、彼らは5人の子供に恵まれた。彼は肝疾患のため一度手術を受けたが、後に死去した。彼の死の床での最後の望みは、タガログ語をフィリピンの国語にすることだった[4]

作品[編集]

サントスの作品には以下のものがある[4]

  • バラリラ・ナン・ウィカン・パンバンサ(Balarila ng Wikang Pambansa, 国語文法)
  • バナアッグ・アット・シカット(Banaag at Sikat)、小説

脚注[編集]