ロブ・デューシー

ロブ・デューシー
Rob Ducey
基本情報
国籍 カナダの旗 カナダ
出身地 オンタリオ州トロント
生年月日 (1965-05-24) 1965年5月24日(58歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1984年
初出場 MLB / 1987年5月1日
NPB / 1995年4月1日
最終出場 MLB / 2001年7月22日
NPB / 1996年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導歴
国際大会
代表チーム カナダの旗 カナダ
五輪 2004年
殿堂表彰者
選出年 2013年

ロバート・トーマス・デューシーRobert Thomas "Rob" Ducey , 1965年5月24日 - )は、カナダオンタリオ州トロント出身の元プロ野球選手外野手)。右投げ左打ち。

経歴[編集]

プロ入りとマイナー時代とブルージェイズ時代[編集]

1984年トロント・ブルージェイズと契約を結んだ。

1987年5月1日にメジャーデビュー。初の地元出身選手となった。

エンゼルス時代[編集]

1992年シーズン途中にカリフォルニア・エンゼルストレードされた。

レンジャーズ時代[編集]

1992年オフにテキサス・レンジャーズに移籍した。

1994年に退団した。

日本ハム時代[編集]

1995年日本ハムファイターズに入団。主に1番打者として活躍。1番でありながら本塁打をよく放つ姿から恐怖の1番打者の異名をとる。本塁打・打点の成績と選球眼は、助っ人外国人として上々なものの打率は低かった。このような成績や後述の乱闘騒ぎを起こしたことから、当初はこの年限りでの退団が濃厚だったが、新しい外国人が見つからなかったことやデューシー自身の「もう手は出さない」と球団に固く誓ったことから、翌年も残留が決まった。その言葉通り翌年は退場をはじめトラブルを起こすことはなかった。

1996年、この年も主に1番打者を務めたが、5月26日のダイエー戦では史上6人目の1試合5三振を記録。リーグ最多四球を記録したものの、打率が前年と変わらない2割4分台に終わりこの年限りで退団した。

マリナーズ時代[編集]

1997年シアトル・マリナーズと契約を結んだ。3年振りにメジャーに復帰した。

1998年に退団した。

フィリーズ時代[編集]

1999年フィラデルフィア・フィリーズと契約を結び、プレーした。

ブルージェイズ復帰[編集]

2000年7月26日にトレードでトロント・ブルージェイズへ移籍した。8年振りに古巣に復帰した。

フィリーズ復帰[編集]

2000年8月7日にミッキー・モランディーニとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ復帰した。翌2001年6月8日に退団した。

エクスポズ時代[編集]

2001年6月12日にモントリオール・エクスポズと契約。7月22日の試合がメジャー最後の出場となった。

その後[編集]

2002年に独立リーグノーザンリーグのアディロンダック・ランバージャックスでプレーしたのを最後に引退。

エクスポズ傘下のAA級ハリスバーグ・セネターズでコーチをしていた2004年には、アテネオリンピックのカナダ代表に選手として復帰。当時39歳で、野球競技に出場した8ヶ国・191選手の中で最年長だった。日本との3位決定戦にも代打で出場した。

その後、ニューヨーク・ヤンキース傘下のA-級スタテンアイランド・ヤンキースの打撃コーチを務めた。

2006年1月にブルージェイズのスカウトに就任。3月にはこの年から開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のカナダ代表のコーチを務めた。

2009年10月に解雇された。

2011年タンパベイ・レイズのスカウトに就任[1]

2013年カナダ野球殿堂入りを果たした。

2015年10月20日に第1回WBSCプレミア12のカナダ代表コーチを務めることが発表された[2][3]

2020年、台湾プロ野球の富邦ガーディアンズの打撃コーチに就任した。登録名の漢字表記は「杜西」[4]

選手としての特徴[編集]

日本ハム時代は前述の通り、低打率に喘いだため2年で退団してしまったが、意外にも選球眼は非常に良く、出塁率が高かった。1996年は、四死球数がリーグトップの88であった。また、外国人としては珍しく俊足であったため、低打率ながらも1番打者として起用され続けた(しかし盗塁数は少なかった)。

カナダ人で、カナダのトロントに本拠地を置くトロント・ブルージェイズ、かつてモントリオールに本拠地を置いていたモントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)の両チームに在籍した経験を持つ選手の一人(デューシーの他には、ショーン・ヒルデニス・ブーシェマット・ステアーズがいる)。

退場処分[編集]

気が短く、1995年に当時のプロ野球タイ記録の1シーズン3回の退場処分を受けている。

  • 5月7日の対近鉄戦の8回表、1アウト1、2塁の場面でセカンドゴロを放ち併殺打。アウトになった際にヘルメットを地面に叩きつけ、良川昌美塁審に暴言を吐き退場処分を受けた。
  • 9月16日の対ダイエー戦の1回裏、3塁ランナーだったデューシーは日本ハム3番打者片岡篤史のファーストゴロの間にホームに突入し、余裕でセーフのタイミングにもかかわらずダイエー捕手の坊西浩嗣を吹っ飛ばしてホームイン。これを見ていたダイエーのケビン・ライマーが激怒し、ベンチを飛び出しデューシーに襲いかかり乱闘騒ぎを起こしたため、ライマーと共に退場処分。
  • 9月17日の対ダイエーの1回裏、先頭打者デューシーはダイエー先発の藤井将雄からいきなり初球で死球を受け、これを昨日の報復ととらえマウンドへ向かい、止めに入った坊西に暴行を働き、2日続けて乱闘騒ぎを起こし、2日連続で退場処分[5][6][7]。なお、坊西によると、このときの死球については監督と相談せずに選手とコーチで報復を決めてぶつけたということである[8]。ただし、西日本スポーツの2022年記事は、「もちろん藤井のデューシーへの死球は報復ではなかっただろう」と振り返っている[9]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1987 TOR 34 57 48 12 9 1 0 1 13 6 2 0 0 1 8 0 0 10 0 .188 .298 .271 .569
1988 27 63 54 15 17 4 1 0 23 6 1 0 2 2 5 0 0 7 1 .315 .361 .426 .787
1989 41 86 76 5 16 4 0 0 20 7 2 1 1 0 9 1 0 25 2 .211 .294 .263 .557
1990 19 62 53 7 16 5 0 0 21 7 1 1 0 1 7 0 1 15 0 .302 .387 .396 .783
1991 39 75 68 8 16 2 2 1 25 4 2 0 1 0 6 0 0 26 1 .235 .297 .368 .665
1992 23 21 21 3 1 1 0 0 2 0 0 1 0 0 0 0 0 10 0 .048 .048 .095 .143
CAL 31 65 59 4 14 3 0 0 17 2 2 3 0 1 5 0 0 12 1 .237 .292 .288 .580
'92計 54 86 80 7 15 4 0 0 19 2 2 4 0 1 5 0 0 22 1 .188 .233 .238 .470
1993 TEX 27 99 85 15 24 6 3 2 42 9 2 3 2 2 10 2 0 17 1 .282 .351 .494 .845
1994 11 31 29 1 5 1 0 0 6 1 0 0 0 0 2 0 0 1 1 .172 .226 .207 .433
1995 日本ハム 117 490 425 61 106 19 4 25 208 61 7 7 1 3 54 3 7 103 3 .249 .342 .489 .831
1996 120 519 427 68 105 17 5 26 210 59 3 3 1 3 86 6 2 90 5 .246 .373 .492 .870
1997 SEA 76 151 143 25 41 15 2 5 75 10 3 3 0 2 6 0 0 31 3 .287 .311 .524 .836
1998 97 250 217 30 52 18 2 5 89 23 4 3 0 1 23 2 9 61 4 .240 .336 .410 .746
1999 PHI 104 227 188 29 49 10 2 8 87 33 2 1 0 1 38 1 0 57 1 .261 .383 .463 .846
2000 70 127 106 16 20 3 1 6 43 20 1 0 0 1 20 0 0 36 1 .189 .315 .406 .721
TOR 5 15 13 2 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 2 0 0 2 0 .154 .267 .231 .497
PHI 42 56 46 8 10 1 0 0 11 5 0 0 0 1 9 1 0 11 0 .217 .339 .239 .578
'00計 117 198 165 26 32 5 1 6 57 26 1 0 0 2 31 1 0 49 1 .194 .318 .345 .664
2001 30 34 27 4 6 1 0 1 10 4 0 0 1 0 6 0 0 11 0 .222 .364 .370 .734
MON 27 59 46 6 11 2 0 2 19 8 0 1 1 1 10 0 1 14 0 .239 .379 .413 .792
'01計 57 93 73 10 17 3 0 3 29 12 0 1 2 1 16 0 1 25 0 .233 .374 .397 .771
MLB:13年 703 1478 1279 190 309 78 13 31 506 146 22 17 8 14 166 7 11 346 16 .242 .331 .396 .726
NPB:2年 237 1009 852 129 211 36 9 51 418 120 10 10 2 6 140 9 9 193 8 .248 .357 .491 .848
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

MLB

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 40 (1987年 - 1988年)
  • 20 (1988年 - 1992年)
  • 16 (1992年)
  • 40 (1993年)
  • 12 (1994年)
  • 20 (1995年 - 1996年)
  • 29 (1997年)
  • 20 (1998年)
  • 25 (1999年 - 2000年、2020年 - )
  • 22 (2000年)
  • 29 (2001年)
  • 2 (2001年)

代表歴[編集]

  • アテネオリンピック野球カナダ代表

コーチ歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 最年少15歳で阪神に指名と、その後。辻本賢人、再挑戦の日々に悔いなし。”. Sports Graphic Number (2016年11月10日). 2016年11月11日閲覧。
  2. ^ Baseball Canada announces roster for inaugural Premier12™ Baseball Canada (英語) (2015年10月20日) 2015年10月24日閲覧
  3. ^ 2015 Baseball Canada Premier 12 Roster Baseball Canada (英語) 2015年10月24日閲覧 (PDF)
  4. ^ 成員|富邦悍將棒球隊官方網站
  5. ^ 【9月17日】1995年(平7) 球界初 2日連続 しかも初回に退場になったデューシー
  6. ^ 2日連続退場、ベンチでボヤ騒ぎ…“暴れん坊助っ人”が起こした規格外の珍事件
  7. ^ 【王貞治監督大激怒事件】王さんが慶彦さんに激怒した事件の真相を語ります【金本知憲さん】【福岡ダイエーホークス】【高橋慶彦】【池田親興】 - YouTube
  8. ^ https://www.youtube.com/watch?v=imTPAfK_ozs
  9. ^ https://nishispo.nishinippon.co.jp/article/786021?rct=takaban_otto
  10. ^ カナダ国籍の選手で優秀な成績を残した選手に贈られる賞。デューシーの他にはラリー・ウォーカーケビン・ライマーライアン・デンプスターエリック・ガニエジェイソン・ベイジャスティン・モルノーらが受賞。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]