レオポルト5世 (オーストリア公)

レオポルト5世
Leopold V.
オーストリア公
在位 1177年 - 1194年

出生 1157年
死去 1194年12月31日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
シュタイアーマルク公領、グラーツ
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア公国ハイリゲンクロイツ修道院
配偶者 イロナ・フォン・ウンガルン
子女 フリードリヒ1世
レオポルト6世
アグネス
家名 バーベンベルク家
父親 オーストリア公ハインリヒ2世
母親 テオドラ・コムネナ
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有徳公レオポルト5世

レオポルト5世Leopold V., 1157年 - 1194年12月31日)は、バーベンベルク家の第2代オーストリア公(在位:1177年 - 1194年)。有徳公(der Tugendhafte)と呼ばれた。ハインリヒ2世と妃テオドラ・コムネナの子。

生涯[編集]

第3回十字軍において、フリードリヒ1世率いる神聖ローマ皇帝軍に従軍した。フリードリヒ1世が行軍途上で溺死したため、残りの軍勢を率いてフランス軍、イングランド軍とともにアッコン攻略に参加、征服後に自身の功績を示すためにフランス王、イングランド王の軍旗に続いて自らの軍旗を掲げたが、その軍旗をイングランドリチャード1世に引き摺り下ろされたため、リチャード1世に対して恨みを抱くようになった[1]

この十字軍参加の折、敵の返り血を浴びて全身赤く染まったが、ベルトの部分だけは白く残ったという伝説が、上から赤・白・赤のオーストリアの国旗のデザインになったと言われているが、実際にこのデザインが紋章として用いられるようになったのは、レオポルト5世の孫フリードリヒ2世からである[1]

前述の経緯があって、第3回十字軍終了後にイングランドに帰還しようとしていたリチャード1世が領内を通行した際に逮捕し、その身柄を神聖ローマ皇帝であったハインリヒ6世に引き渡した。そして、莫大な身代金を受け取ることでリチャード1世を釈放している[2]

しかしサラーフッディーン(サラディン)と並び「獅子心王」とまで称される英雄リチャード1世[3]を逮捕したことは、ローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買うことになり、レオポルト5世は破門されてしまった[2]。そして1194年、落馬事故が原因であっけなく死去した。

遺体はハイリゲンクロイツ修道院の集会室に埋葬されている[4]。1188年に彼がこの修道院にもたらした聖十字架は現存しており、1982年に専用のチャペルに安置されて以来一般にも公開されている[5]

子女[編集]

1172年ハンガリーゲーザ2世の娘イロナと結婚、3人の子を儲けた。

脚注[編集]

  1. ^ a b ツェルナー、p. 100
  2. ^ a b ツェルナー、p. 102
  3. ^ 中世ドイツの詩人が君主に求めた徳は、勇敢さと気前良さ(物惜しみをしないこと)であるが、ドイツ中世盛期の詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、1198年9月8日マインツでドイツ王として戴冠したフィリップ・フォン・シュヴァーベンに向かって、王たる者は名声と尊敬をえるために「快く施しを」すべきと説き、その模範としてサラディンとリチャード獅子心王を挙げている。村尾喜夫訳注『ワルターの歌』(Die Sprüche und der Leich Walthers von der Vogelweide )三修社、1969年8月、16-19頁。
  4. ^ ハイリゲンクロイツ修道院はウィーンの森の神秘なる中心”. ハイリゲンクロイツ修道院. 2014年1月7日閲覧。
  5. ^ What is the Cistercian Abbey Stift Heiligenkreuz?”. ハイリゲンクロイツ修道院. 2014年2月1日閲覧。
  6. ^ Johann Christoph Allmayer-Beck: Das Heeresgeschichtliche Museum Wien. Das Museum und seine Repräsentationsräume. Kiesel Verlag, Salzburg 1981, ISBN 3-7023-0113-5, p. 29.

参考文献[編集]

  • エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社、2000年
先代
ハインリヒ2世
オーストリア公
1177年 - 1194年
次代
フリードリヒ1世
先代
オットカール4世
シュタイアーマルク公
1192年 - 1194年
次代
レオポルト6世