リンダ・ロンシュタット

リンダ・ロンシュタット
Linda Ronstadt
オランダ、スキポール空港にて
(1976年11月20日)
基本情報
出生名 Linda Maria Ronstadt
生誕 (1946-07-15) 1946年7月15日(77歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
アリゾナ州ツーソン
ジャンル ロック
ポップ
カントリー・ロック
職業 歌手
担当楽器 ボーカル
活動期間 1967年 - 2011年
レーベル キャピトル・レコード
アサイラム・レコード
エレクトラ・レコード
ヴァーヴ・レコード
共同作業者 ストーン・ポニーズ
ジョージ・マッセンバーグ
公式サイト ronstadt-linda.com

リンダ・ロンシュタットLinda Ronstadt1946年7月15日 - )は、アメリカ合衆国出身の女性歌手ミュージシャン

米西海岸を代表する音楽アーティストの一人。1970年代にソロシンガーとして開花し、1980年代までトップの地位を確立した。1990年代半ばからの病気による影響で、2010年代以降は引退を余儀なくされている。

2014年ロックの殿堂』入り。

バイオグラフィー[編集]

生い立ち[編集]

父方の曾祖父がドイツからの移民[1]。曾祖父はメキシコ人と結婚。リンダは4人兄弟の3番目。父親は金物店経営で成功したが、若い頃はラジオ番組やクラブにも出演した歌手だった[1]。父は子供たちに幅広く様々な音楽を聴かせた。母はギルバート&サリバン(アーサー・サリヴァンウィリアム・S・ギルバート)の大ファンで、リンダもラジオから流れる50~60年代のヒット曲に親しむ[1]。音楽的背景としてペギー・リービリー・ホリデイサラ・ヴォーンなどの女性ジャズシンガーが挙げられ[2]、最も影響を受けた歌手としてはメキシコのランチェーラ歌手・ローラ・ベルトラン英語版を挙げている[1]。中学時代から、かなりのツッパリ[3]。『タイム』のインタビューで「子供の頃からブリジット・バルドーが大好きで、どうしたらBBのようにセクシーになれるか、そればかり考えていた」などと話し[3]カトリック系の学校で、太ももに答えを書いてカンニングして、試験官の若いお坊さんが目をそらしている隙に答えを書いたりして、尼さんたちにずいぶん睨まれたという[3]1960年代初めにフォークブームが到来し、リンダはジョーン・バエズを愛聴し、兄と姉との3人組でツーソンのコーヒーハウスやクラブで歌い始める。地元のフォーク・シーンの中心人物だったのがボブ・キンメルで、14歳のリンダの歌声を聴いて、一世代に一人しか現れない歌声と認識したという[1]

下積み時代[編集]

一足先にロサンゼルスに移住していたキンメルに誘われ1965年、リンダはアリゾナ州立大学を1年で退学しLAに向かう[1]。そこでキンメルとケニー・エドワーズとリンダをボーカルとするスリーピース・バンド「ストーン・ポニーズ」を結成した[4]。LAのフォークロックシーンのメッカ的クラブで、新しい才能のショウケースの場になっていたウェスト・ハリウッドの「トゥルバドール」への出演をきっかけにキャピトルと契約[5]1967年1月にアルバム『The Stone Poneys』でデビューした。グループのリーダー、キンメルは、当初リンダをフィーチャーした5人編成を予定していたが、グレイス・スリックをフィーチャーしたジェファーソン・エアプレインが「あなただけを(Somebody to Love)」のヒットを放って脚光を浴び、さらに女性ヴォーカルをフィーチャーしたスパンキー&アワー・ギャング(Spanky & Our Gang)がデビュー、といったように他のグループに先行され、当初の5人編成のプラン変更を余儀なくされた。このバンドは当時、一世を風靡していたママス&パパスラヴィン・スプーンフルの流れを汲む、カントリー&ウェスタンの要素が取り入れられたフォーク・ロックのグループであった。

『The Stone Poneys』は売れなかったが、同年6月のセカンド・アルバム『Evergreen Vol. 2』からのリカット・シングル「悲しきロック・ビート」が、1968年になって全米13位を記録し一躍注目を浴びた[6]。「悲しきロック・ビート」は、当時人気絶頂だったモンキーズマイク・ネスミスの作品[6]。しかし、その後はヒットは出せず、バンドは解散した[7]。愛くるしいミニスカートに裸足という姿でステージに立ち、精一杯歌うリンダは、誰の目にもナチュラル・ボーンな魅力に溢れたシンガーに映り、音楽ビジネス側の興味がリンダ一人に集中していたことは否めない[7]。「ストーン・ポニーズ」は次第にリンダのソロ・プロジェクトの色を濃くし「悲しきロック・ビート」には、他の二人は参加しておらず、1968年の3枚目のアルバム『Linda Ronstadt, Stone Poneys And Friends,Vol.III』は、実質的にリンダのソロ作となり、制作途中にバンドは消滅した[7]

ソロ期[編集]

バンド時代から「レコーディングはリンダ1人で」と誘われることが多く1969年3月、すんなりソロ・デビュー。自ら作詞・作曲はせず、新曲でもない、ほぼ全曲、過去に世に出たカバー・ソングを歌う[8]カーラ・ボノフJ.D.サウザーなど、当時あまり売れていなかったミュージシャンの曲を取り上げ世に出したことでも知られる[4]。またロイ・オービソンバディ・ホリーは、リンダのカバーがきっかけで、1970年代の若者に偉大な先人として改めて紹介された[1]

ソロ二枚目の1970年のアルバム『Silk Purse(シルク・パース/旧邦題:ロング・ロング・タイム)』は、ジャニス・ジョプリンからの紹介でエリオット・メイザーがプロデューサーとなり、ナッシュビルで録音された[7]。ソロ・シンガーとして注目されはじめるのは、このアルバムからのシングルカット「ロング・ロング・タイム(Long Long Time)」のヒットからで[9]、同年のグラミー賞にもノミネートされた[6]。この頃から1970年代のウエストコースト・サウンド・ムーブメントの中心で活躍する女性シンガーとして次第にその名を知られるようになる。ジョニー・キャッシュにも気に入られ『ジョニー・キャッシュ・ショー』(ABC)には番組が続いた1971年まで計4回出演した[7][10]。1972年の3枚目のアルバム『Linda Ronstadt』では、友人のジャクソン・ブラウンの尽力で[6]、バック・バンドのメンバーとして集められたドン・ヘンリーグレン・フライバーニー・レドンランディ・マイズナーが、リンダのサポート後イーグルスとして独立した[11]

バンド時代とソロ2枚目あたりまではカントリー・フォーク中心の曲構成だったが、徐々にロック色を強め、バックバンドを務めたイーグルスのナンバーやオールディーズナンバーをロック的なボーカルスタイルに変えて、佳作を発表した。イーグルスの名バラード「ならず者 (Desperado)」を最初にカバーした[12]。また、ニール・ヤングの「孤独の旅路」(1972年)のバック・コーラスもつとめ、1973年にはニール・ヤングのツアーでオープニングアクトを務めている[8]

1973年アサイラム移籍第一弾『Don't Cry Now』は、当時の恋人J.D.サウザーがプロデューサーだったが、2曲のみピーター・アッシャーが担当。ジェームス・テイラーを時代の寵児にしたアッシャーがそれ以降のリンダのプロデューサー兼マネージャーを引き受け、リンダを大きな成功に導いた[1][13]

成功[編集]

オランダ・スキポール空港にて(1976年)

存在が広く知られるようになったのは、契約の関係でキャピトルから1974年に発売されたアルバム『悪いあなたHeart Like a Wheel)』からのシングルカット「悪いあなたYou're No Good)」が全米1位を記録してからである[1]。本曲はソウルシンガー・ベティ・エヴェレット1963年ヒット曲のカバー。ここから人気に火がつき、以降、TOP40ヒットを21曲、TOP10アルバムを10作品を世に送り出す[8]。日本でもこの頃から人気が出始めた[2]。続いてシングルカットされた「いつになったら愛されるのかしら」も全米2位を記録。アルバム『悪いあなた』は選曲も抜群だったが、リンダの歌唱が格段に増し、声量豊かな歌唱に微妙な抑制を加えて繊細な表現力が増した[1]。またバンドにアンドリュー・ゴールドが参加し[4]、ビートルズ好きな彼がカントリー・ロックに絶妙な匙加減でポップな味覚を加えた[1]

1975年の『哀しみのプリズナー(Prisoner In Disguise)』、1976年風にさらわれた恋(Hasten Down the Wind)』、1977年夢はひとつだけ(Simple Dreams)』、1978年『ミス・アメリカ(Living in the U.S.A.)』、1980年『Mad Love』は、いずれも発売直後にプラチナムアルバムと認定され大ヒットした[1]。『夢はひとつだけ』、『ミス・アメリカ』は、全米No.1アルバムヒットを記録。特に前者は、RIAAからトリプルプラチナムを認定されたが、実際にはアメリカで500万枚、全世界で700万枚を売り上げたといわれる[1]

グラミー賞は、1975年度最優秀女性カントリー・ボーカル、1976年度は最優秀女性ポップ・ボーカルを獲得[14]。『タイム』1977年2月28日号のカバーストーリーにも取り上げられた[14][15]。シングル・ヒットとしてはロイ・オービソンの「ブルー・バイユー」、バディ・ホリーの「イッツ・ソー・イージー」などが知られる。アリーナやスタジアムでコンサートを行うようになった最初の女性歌手で[1]、1970年代後半までではロック/ポップ界で最も成功した女性歌手であった[1]

1979年に初来日し3月1日から6日の間に日本武道館2回を含む横浜、大阪で計5回の公演を行った。1970年代に日本で人気を博した女性シンガーといえば、オリビア・ニュートン=ジョンカレン・カーペンターカーペンターズ)が挙げられるが[14]、彼女たちに比べると来日が遅かった。

自身のソロ活動だけでなく、イーグルスやニール・ヤング、ジェームス・テイラー、ジャクソン・ブラウン、J.D.サウザーなどのアーティストとも深い交流を持つ。恋多き女性として知られ[16]、影にいる男の存在抜きにリンダの音楽キャリアは語れないとまでいわれた[9][15]。付き合う男の服装の好みで格好を替えるため、ミック・ジャガーと噂があった際はホットパンツでステージに登場し、スタイルの良さを披露した。また、ミック・ジャガーが「君にはロックが足りない」と言うと、「あなたにはバラードが足りない」と言い返したという。イーグルスの代表曲の一つ「Witchy Woman」やローリング・ストーンズの「ダイスをころがせ(Tumbling Dice)」は、リンダのことを歌ったものであり、自身もカヴァーしたことがある。(曲自体はストーンズ70年代初頭のものであり、リンダがカバーしたのは78年で、ミックともステージで共演、交際はしているが、リンダの事を歌ったものとするには時系列的に無理がある)売れない時代の友人であったジム・モリソンとはただならぬ仲ともいわれた[9]。またカリフォルニア州知事ジェリー・ブラウン民主党)との交際も騒がれ[10]ジョージ・ルーカスとは婚約したが、結婚には至らなかった[8][10]。新しい恋の噂は絶えず、リンダは「新聞に書かれるほど、色んな男と寝れたらいいのに」と開き直った[3]

新たな領域[編集]

USAニューヘイブン公演(1978年)

1978年の『Living In The U.S.A.(ミス・アメリカ)』ではエルヴィス・コステロの「アリソン」を取り上げ、続く1980年『Mad Love(激愛)』では、コステロ作品を3曲収録し、パンク/ニュー・ウェイヴ時代のハード・エッジなバンドサウンドを取り入れファンを驚かせた。

USAアーリントン公演(1981年)

1980年代以降は、ポピュラー音楽史上、例のないほど、勇敢に広範な分野に踏み込む[7][8]1981年にはプロデューサーのジェリー・ウェクスラーの助けを借りて、ロック以前の時代の偉大なソングライターたちのスタンダードを録音[1]。しかし出来に満足できずこれをお蔵入りさせたが、1982年の『Get Closer』を挟んで、改めて挑みスタンダードに挑戦した三部作、1983年『What's New』、1984年『Lush Life』、1986年『For Sentimental Reasons』を発表、3枚合わせて米国内だけで800万枚を売り上げるベストセラーとなった[1]オーケストラを従えてのツアーも成功させた。この三部作によって、リンダは次々に登場したMTVのスターたちと競り合う必要のない歌手像を手に入れた[7]。自信を得たリンダは次々に新たなジャンルに踏み入っていく[8]1986年には、長編アニメ映画アメリカ物語」の主題歌「Somewhere Out There」をジェームス・イングラムとのデュエットで大ヒットさせ、1987年にはエミルー・ハリスドリー・パートンとの夢の競演アルバム『Trio』を発表、カントリーポップ両方のチャートでヒットし400万枚以上売り上げた[17]。同じ1987年のアルバム『Canciones De Mi Padre』は、表題通りに父から学んだメキシコのトラディショナル・ソングマリアッチ楽団の伴奏で歌った冒険作であったが、メキシコ系に熱狂的に受け入れられ200万枚以上を売り、グラミー賞を獲得した[1]

1992年にはボレロを歌った『Frenesi』など、スペイン語アルバムを発表し、2008年にラティーノの肯定的イメージに貢献した芸能人に贈られるALMA(アメリカン・ラティーノ・メディア・アーツ)賞を受賞した。1989年のアルバム『Cry Like A Rainstorm, Howl Like The Wind』からは、アーロン・ネヴィルとのデュエットで「Don't Know Much」が全米2位の大ヒットで、数々のデュエットナンバーを多く歌う切っ掛けとなるが、これがチャート上位に食い込んだ最後のアルバムとなった[1]。1970年代と1980年代に世界最高の売上げを記録した歌手ともいわれる[8]1990年代に入ると以前ほどの話題を呼ぶことはなくなった。音楽業界の変化もあるが、自身が私生活を優先し最低限のプロモーションしかやらなくなったこともある。独身のまま二人の子どもを養子に迎え、1996年には子守歌集『Dedicated To The One I Love』を発表している[8]

引退[編集]

また1990年代半ばに甲状腺の病気を患い、長年闘病生活を送った[18]2011年に故郷アリゾナの地元紙のインタビューで引退したことを明らかにした[19][20]

2013年8月、パーキンソン病を患っており、そのため歌手活動をやめたことが明らかに。同9月には、自伝『Simple Dreams』をSimon & Schusterより出版した(ただし、Simple Dreamsはすでに執筆を終えて印刷・製本作業に入っていたため、パーキンソン病については触れられていない)[21]

表彰・受賞など

ケネディ・センター名誉賞受賞式にて(前列左から2人目がリンダ)2019年

逸話・エピソード[編集]

  • 1979年3月初来日時のインタビューで「私は妻になるより"自立する女"でいたい」と話した[23]。初来日は当時の新しい男といわれたデイヴィッド・サンボーンともども来日予定だったが[3]、サンボーンの来日は中止になった[3]

ディスコグラフィー[編集]

アルバム[編集]

ストーン・ポニーズ[編集]

  • 1967 リンダ・ロンシュタット・アンド・ストーン・ポニーズ - The Stone Poneys featuring Linda Ronstadt (US #172)
  • 1967 エヴァーグリーンVol.2 - Evergreen Vol. 2 (US #100)
  • 1968 ストーン・ポニーズ&フレンズVol.3 - Linda Ronstadt, Stone Poneys And Friends,Vol.III

ソロ[編集]

  • 1969 ハンド・ソーン…ホーム・グローン - Hand Sown...Home Grown[注 1]
  • 1970 シルク・パース - Silk Purse (US #103)
  • 1972 リンダ・ロンシュタット - Linda Ronstadt (US #163)
  • 1973 ドント・クライ・ナウ - Don't Cry Now (US #45)
  • 1974 悪いあなた - Heart Like A Wheel (US #1)
  • 1975 哀しみのプリズナー - Prisoner In Disguise (US #4)
  • 1976 風にさらわれた恋 - Hasten Down The Wind (US #3)
  • 1976 Greatest Hits (US #6)
  • 1977 夢はひとつだけ - Simple Dreams (US #1)
  • 1977 A Retrospective (US #46)
  • 1978 ミス・アメリカ - Living In The U.S.A. (US #1)
  • 1980 激愛 - Mad Love (US #2)
  • 1980 Greatest Hits, Volume 2 (US #26)
  • 1982 ゲット・クローサー - Get Closer (US #31)
  • 1983 ホワッツ・ニュー - What's New (US #3)
  • 1984 ラッシュ・ライフ - Lush Life (US #13)
  • 1986 フォー・センティメンタル・リーズンズ - For Sentimental Reasons (US #46)
  • 1986 Round Midnight (US #124)
  • 1987 ソングス・オブ・マイ・ファーザー (カンシオーネス・デ・ミ・パードレ) - Canciones De Mi Padre (US #42)
  • 1989 クライ・ライク・ア・レインストーム - Cry Like A Rainstorm, Howl Like The Wind (US #7)
  • 1990 マス・カンシオーネス - Mas Canciones (US #88)
  • 1992 情熱 - Frenesi (US #193)
  • 1993 ウィンター・ライト - Winter Light (US #92)
  • 1995 フィールズ・ライク・ホーム - Feels Like Home (US #75)
  • 1996 愛の贈りもの - Dedicated To The One I Love (US #78)
  • 1998 夢見る頃を過ぎても - We Ran (US #160)
  • 1999 The Linda Ronstadt Box Set (4-CD Set containing Album Tracks And Some Rarities)
  • 2000 ア・メリー・リトル・クリスマス - A Merry Little Christmas (US #179)
  • 2002 The Very Best Of Linda Ronstadt (US #165)
  • 2004 Mi Jardin Azul : Las Canciones Favoritas
  • 2004 ハミン・トゥ・マイセルフ - Hummin' To Myself (US #166)
  • 2006 The Best Of Linda Ronstadt : The Capitol Years

コラボレーション・アルバム[編集]

シングル[編集]

1967年

  • Different Drum featuring The Stone Poneys (US POP #13)

1968年

  • Up To My Neck In High Muddy Water featuring The Stone Poneys (US POP #93)

1970年

  • Long Long Time (US POP #25)

1971年

  • (She's A) Very Lovely Woman (US POP #70)

1972年

  • Rock Me On The Water (US POP #85)

1973年

  • Love Has No Pride (US POP #51)

1974年

  • Silver Threads And Golden Needles (US POP #67)
  • You're No Good (US POP #1)

1975年

1976年

1977年

  • Lose Again (US POP #76)
  • Blue Bayou (US POP #3)
  • It's So Easy (US POP #5)

1978年

  • Poor Poor Pitiful Me (US POP #31)
  • Tumbling Dice (US POP #32)
  • Back In The U.S.A. (US POP #16)
  • Ooh Baby Baby (US POP #7)

1979年

  • Just One Look (US POP #44)

1980年

  • How Do I Make You (US POP #10)
  • Hurt So Bad (US POP #8)
  • I Can't Let Go (US POP #31)

1982年

  • Get Closer (US POP #29)
  • I Knew You When (US POP #37)

1983年

  • Easy For You To Say (US POP #54)
  • What's New and The Nelson Riddle Orchestra (US POP #53)

1984年

  • I've Got a Crush On You and The Nelson Riddle Orchestra
  • Sky Lark and The Nelson Riddle Orchestra (US POP #101)

1985年

  • When I Fall In Love and The Nelson Riddle Orchestra

1986年

  • When You Wish Upon A Star and The Nelson Riddle Orchestra
  • Somewhere Out There & James Ingram (US POP #2)

1987年

  • To Know Him Is To Love Him with Dolly Parton & Emmylou Harris
  • Telling Me Lies with Dolly Parton & Emmylou Harris (US POP #35)
  • Thoes Memories Of You with Dolly Parton & Emmylou Harris

1989年

  • Don't Know Much & Aaron Neville (US POP #2)

1990年

  • All My Life & Aaron Neville (US POP #11)
  • When Something Is Wrong With My Baby & Aaron Neville (US POP #78)

1992年

  • Frenesi
  • Perfidia

1993年

  • Heartbeats Accelerating (US POP #112)

1994年

  • Oh No Not My Baby

1995年

  • Blue Train
  • Walk On
  • A Dream Is A Wish Your Heart Makes (US POP #101)

1999年

  • After The Goldrush with Dolly Parton & Emmylou Harris

日本公演[編集]

3月1日 神奈川県立県民ホール、2日、3日 日本武道館、5日、6日 フェスティバルホール
9月11日 横浜スタジアム、13日 阪神甲子園球場
3月30日 日本武道館、3月31日 東京プリンスホテル鳳凰の間(ディナーショー、1名、50,000円)、4月1日 日本武道館(第13回東京音楽祭スペシャルゲスト)、4月3日 神奈川県立県民ホール、4月4日 NHKホール、6日 フェスティバルホール、7日 名古屋市民会館 ※公演は全てリンダ・ロンシュタット&ザ・ネルソン・リドル・オーケストラとして
12月 東京ドーム ジョン・レノン生誕50年記念コンサート

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本盤は1977年に発売された[14]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 五十嵐正「“カリフォルニアの歌姫”からあらゆるアメリカ音楽を歌う歌手へ」#rc20107、pp.82-86
  2. ^ a b 『Greatest Hits 』日本盤LPレコードライナーノーツ(執筆日不明 鈴木道子
  3. ^ a b c d e f g h 「3月初来日 ゲイシャ・ガールに憧れるリンダ・ロンシュタットの奔放な生き方 『男なんて日用品よ』」『週刊明星』1979年3月4日号、集英社、42-43頁。 
  4. ^ a b c 大友博 (2016年4月27日). “第17回 リンダ・ロンシュタットがはたした役割”. dot.. https://dot.asahi.com/articles/-/23466 2017年4月29日閲覧。 
  5. ^ 五十嵐正 (2015年1月10日). “リンダ・ロンシュタットとイーグルス〜はじまりの場所、トルバドゥール”. TAP the POP. http://www.tapthepop.net/story/23331 2017年4月29日閲覧。 
  6. ^ a b c d 『Don't Cry Now』日本盤LPレコードライナーノーツ(1973年10月26日執筆 山岸伸一)
  7. ^ a b c d e f g 宇田和弘「シンガー・ソングライターの時代からの多彩な活動を支えた幅広い人脈」#rc20107、pp.87-91
  8. ^ a b c d e f g h i キース・カフーン (2013年2月2日). “【キース・カフーン不定期連載】リンダ・ロンシュタット、ロックの殿堂入りは実現するか?”. barks. https://www.barks.jp/news/?id=1000087047 2017年4月29日閲覧。 
  9. ^ a b c 『Linda Ronstadt』日本盤LPレコードライナーノーツ(執筆日不明 小倉エージ
  10. ^ a b c 佐々木モトアキ (2014年1月11日). “ノーパンの魔女”. TAP the POP. http://www.tapthepop.net/story/4008 2017年4月29日閲覧。 
  11. ^ “イーグルスのグレン・フライをドン・ヘンリーが追悼「兄弟のような存在だった」”. RO69. (2016年1月19日). https://rockinon.com/news/detail/137507 2017年4月29日閲覧。 
  12. ^ 佐々木モトアキ (2014年6月22日). “Desperado〜あなたを諭してくれる歌〜”. TAP the POP. http://www.tapthepop.net/news/11215 2017年4月29日閲覧。 
  13. ^ 佐々木モトアキ (2016年11月9日). ““変化”を味方につけた恋多き歌姫〜リンダ・ロンシュタット 27歳〜”. TAP the POP. http://www.tapthepop.net/story/4014 2017年4月29日閲覧。 
  14. ^ a b c d 『Hand Sown...Home Grown』日本盤LPレコードライナーノーツ(1977年9月執筆 北中正和
  15. ^ a b 『夢はひとつだけ(Simple Dreams)』日本盤LPレコードライナーノーツ(1977年 執筆 鈴木道子/会田裕之)
  16. ^ 高浪昇「リンダ・ロンシュタット・ディスコグラフィー オリジナル・アルバム」#rc20107、pp.92-101
  17. ^ 大友博 (2016年7月27日). “ドリー・パートン、リンダ・ロンシュタット、エミルー・ハリスが残した至宝の数々が豪華仕様で登場”. TOWER RECORDS ONLINE. https://tower.jp/article/feature_item/2016/07/27/0104 2017年4月29日閲覧。 
  18. ^ http://www.shifrinmd.com/celebrities-with-thyroid-problems-2.html
  19. ^ https://tucson.com/entertainment/blogs/caliente-tuned-in/ronstadt-legacy-belongs-percent-to-nelson/article_17e2d7b2-6ca0-11e0-b37e-001cc4c002e0.html
  20. ^ http://members3.jcom.home.ne.jp/doricafe/LRvol2.html
  21. ^ Linda Ronstadt has Parkinson's Disease”. USA Today. 2013年8月24日閲覧。
  22. ^ Ako Suzuki (2014年7月30日). “リンダ・ロンシュタット、米最高峰の芸術賞を受賞”. barks. https://www.barks.jp/news/?id=1000106166 2017年4月29日閲覧。 
  23. ^ 「ハロー!!『リンダ』 初来日した"ミス・アメリカ"のセクシーな魅力」『週刊ポスト』1979年3月23日号、小学館、12-13頁。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]