ライン同盟規約

1806年7月12日のライン同盟規約、ナポレオンの署名のページ。ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国の抄本
ライン同盟首座大司教侯カール・テオドール・フォン・ダールベルクが規約に署名した場所であるヴェルト・アン・デア・ドナウ城ドイツ語版

ライン同盟規約(ラインどうめいきやく、ドイツ語: Rheinbundakte, フランス語: Traité de la Confédération du Rhin)は、1806年7月12日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの全権大使とドイツ諸侯16名の全権大使の間で合意された条約。批准は7月25日にミュンヘンで行われた[1]。条約により、ドイツ諸侯16名は神聖ローマ帝国を脱退、ライン同盟を成立させ、その原加盟国となった[2]

内容[編集]

(出典:[2]

条約の正文はフランス語で、その用語はドイツ語とは違うものであるため、ドイツ語版は法的に有効な条約ではない。

その後[編集]

ナポレオンが1812年ロシア戦役で大敗し、ロシア帝国プロイセン王国が1813年3月9日にドイツの人民にフランスへの対抗に立つことと、ライン同盟の解散を呼びかけるとき、ライン同盟からはメクレンブルク=シュヴェリン公国メクレンブルク=シュトレーリッツ公国しか支持を得られなかった。同年夏に対仏大同盟がフランスに数回勝利を挙げると、バイエルン王国リート条約でライン同盟から脱退した。ライプツィヒの戦いでフランスが大敗すると、ライン同盟は実質的には消滅した。

脚注[編集]

  1. ^ 規約の第40条による。
  2. ^ a b (日本語) ライン同盟規約(1806年7月12日)全文試訳. 一橋大学大学院法学研究科. (2004). https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/8726. 

関連項目[編集]