メジロパーマー

メジロパーマー
2002年9月4日撮影(アロースタッド)
欧字表記 Mejiro Palmer[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1987年3月21日[1]
死没 2012年4月7日(25歳没・旧26歳)[2]
抹消日 1994年9月22日[3]
メジロイーグル[1]
メジロファンタジー[1]
母の父 ゲイメセン[1]
生国 日本の旗 日本北海道伊達市[4]
生産者 メジロ牧場[1]
馬主)メジロ牧場[1]
調教師 大久保正陽栗東[1]
厩務員 山田一蔵[5][注釈 1][6]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀5歳以上牡馬(1992年)
JRA賞最優秀父内国産馬(1992年)
生涯成績 38戦9勝
中央競馬)36戦8勝
障害競走)2戦1勝[4]
獲得賞金 5億3674万2200円[4]
勝ち鞍
GI 宝塚記念 1992年
GI 有馬記念 1992年
GII 阪神大賞典 1993年
GIII 札幌記念 1991年
GIII 新潟大賞典 1992年
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メジロパーマー(欧字名:Mejiro Palmer1987年3月21日 - 2012年4月7日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1992年のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および最優秀父内国産馬である。同年の宝塚記念GI)と有馬記念GI)を優勝し、リユウフオーレルシンザンスピードシンボリイナリワンに続いて史上5頭目となる同一年春秋のファン投票実施競走独占、いわゆる「春秋グランプリ制覇」を果たした。その他の勝ち鞍に、1991年の札幌記念GIII)、1992年の新潟大賞典GIII)、1993年の阪神大賞典GII)。

2002年の京都ハイジャンプ(J-GII)を優勝したメジロライデンの父としても知られる。

デビューまで[編集]

誕生までの経緯[編集]

母メジロファンタジー[編集]

メジロファンタジーは、メジロ牧場で生産された父ゲイメセン、母プリンセスリファードの牝馬である[7]。日本における牝系は、フランスの競走馬ノーラックとその産駒を、シンボリ牧場代表の和田共弘メジロ牧場会長の北野豊吉が共同所有し、日本に連れ帰ったことから始まっていた[8]。ノーラックがフランスで産み落としたプリンセスリファードは、共同所有によりフランスで競走馬として走った。引退後は北野と和田の間で所有を分配する合意をしており、プリンセスリファードはメジロ牧場に割り振られた[8]。プリンセスリファードは繁殖牝馬に転用され、フランスでゲイメセンとの交配してから1980年11月に日本に渡っている。1981年2月、メジロファンタジーが誕生する[8]。メジロファンタジーは、メジロ牧場の所有と栗東トレーニングセンター所属の大久保正陽調教師の管理のもと、競走馬として4戦1勝。引退後は、メジロ牧場に戻り繁殖牝馬となった[7]。初年度はヤマニンスキーと交配して、初仔の牝馬を生産[9]。そして2年目にはメジロイーグルと交配する[9]

父メジロイーグル[編集]

メジロイーグルは、1975年にメジロ牧場で誕生した牡馬である。父のメジロサンマンは、北海道三石町本桐牧場生産の持込馬で、メジロ系列所有で競走馬となり、1967年の目黒記念(秋)優勝[10]。29戦10勝の成績で、種牡馬となった。ケガによって、左目失明右目弱視という状況に陥りながら繁殖活動を続け、産駒を残した[10]。母アマゾンウォリアーは、アメリカ産の繁殖牝馬で、メジロ牧場が「当時としては高値[10]」(横尾一彦)という1万9000ドル[注釈 2][10]で購入して導入[10]。後に次々と牝馬を産み、広がった牝系からは、メジロラモーヌメジロアルダンが生まれ、牧場の基礎繁殖牝馬の一つとなる[11][12]

そのような両親を持つメジロイーグルは、メジロ商事株式会社の所有と栗東の伊藤修司調教師の管理のもと、競走馬として19戦7勝[13]。1978年の京都新聞杯を始め勝利全てが逃げ切りであり、クラシックもすべて逃げて皐月賞4着、東京優駿(日本ダービー)5着、菊花賞3着、さらに有馬記念も3着の活躍[11][14]。特に東京優駿は、向こう正面で後続に20馬身差をつける大逃げの果てに5着[12]など「だれからも愛された逃げ馬[15]」(江面弘也)として名を馳せた。その後、球節の不安や繋靭帯炎で長期離脱を繰り返すなどしながら7歳、1年ぶりの復帰となった1981年札幌競馬場のタイムス杯で最下位入線[16]。これを以て引退するが、直後の検査で「種なし」状態だと判明した[17]。種牡馬入りした初年度の1982年は繁殖牝馬5頭に交配を試みるが、産駒を残すことができなかった[18]。メジロ牧場の武田茂男は、メジロイーグルが「未だに幼稚[17]」であると見抜き、当て馬を担わせるなど訓練させたところ、「その気」にさせることに成功[17]。2年目、1983年に交配した繁殖牝馬5頭のうち、1頭の仔が誕生した[18]。しかし、正しく種牡馬となったものの、横尾一彦によれば「血の魅力は合ったものの、GIタイトルがなく、馬格もなく、その上に馬産地日高から遠く離れていたため[10]」に種牡馬としての人気に乏しく、交配相手は「9割方は自家生産馬を付けている[19]」という状況だった。

3年目は、交配6頭のうち生産5頭、4年目は交配13頭うち生産4頭、を経た5年目の1986年[18]、メジロ牧場はメジロイーグルに注力する年と定めて、牧場の繁殖牝馬6頭をメジロイーグルに割り当てる[9]。その6頭に、メジロファンタジー(後のメジロパーマーの母)が選り抜かれていた[9]。この年のメジロイーグルの交配数は、全体でも16頭、産駒は9頭に留まっていた[18]

幼駒時代[編集]

1987年3月21日、北海道伊達市のメジロ牧場にて[15]、2番仔となる鹿毛の牡馬(後のメジロパーマー)が出産予定日よりも6日遅く誕生する[20]。2番仔には「輝峰」という幼名が与えられた[20]。この年のメジロ勢の同期は32頭おり、メジロ牧場産父アンバーシャダイの「輝光」と吉田堅牧場産父メジロティターンの「オーロラの62」に高い評価が与えられる中、輝峰は期待されていなかった[21]。牧場育成担当の古賀末徳は、競走馬として素質について、輝光を「乗ってみて、背中の感じがいい[22]」オーロラの62を「きれいな走り方をする[22]」と述懐している一方、輝峰については「小さい時から、軽い性格、ひょうきんって言うのかな。ちょろちょろ動いては、他の馬——それが牡でも牝でも——にチョッカイ〔ママ〕を出していましたね[22]」「性格は可愛いのですが…[22]」という印象で、当時の期待を思い出すことができなかった[22]。そのうえ、スムーズに出産、牧場でも病気に罹ることもなく[20]、牧場獣医師の田中秀俊は輝峰について「覚えていませんねえ[20]」「治療したという記憶がない[20]」と述べている。ただ活躍後に判明することだが、輝光やオーロラの62、その他すべての同期31頭で最も大きい「管囲」(前脚の太さ[注釈 3])を有していた[23][24][25]

メジロ牧場は、1987年産馬の命名パターンを「アメリカのヒーロー[26]」もしくは「外国の有名スポーツ選手[27]」に設定。輝峰にはアメリカのプロゴルファーであるアーノルド・パーマー[注釈 4]が割り当てられ、冠名の「メジロ」にアーノルド・パーマーから「パーマー」を抜き出し組み合わせた「メジロパーマー」という競走馬名が与えられる。3歳春、メジロパーマーは母メジロファンタジーと同様に大久保正陽厩舎に入厩する[24]。大久保は第一印象を「丈夫そうな馬だが、クビが高く乗る者は苦労するだろう[28]」とした。

競走馬時代[編集]

3-5歳(1989‐1991年)[編集]

デビュー2連勝、12連敗[編集]

1989年8月12日、函館競馬場新馬戦(芝1000メートル)に柴田政人が騎乗し、1番人気でデビュー。スタートで出遅れ[28]、逃げるゾウゲブネメガミの逃げ切りに遭い、6馬身差の2着[24][29]。2戦目の新馬戦も2着となるが、続く未勝利戦、コスモス賞(OP)では田面木博公とともに2連勝を挙げ、栗東に帰還した[24]。その後は、3歳限定のオープンに出走して2連続着外となった後に骨折して長期休養[30]。休養中に年をまたぎ、4歳となった1990年、6月のクラス再編では、2勝の身であったが、オープン競走勝利の経験から1500万円以下[注釈 5]に分類された[24][31]。6月に復帰し、古馬相手の1500万円以下とオープン競走の4戦は「中団からあっけなく後退という見どころのないレース[24]」(阿部珠樹)で、2度のブービー賞、1度の最下位など全て敗れた[32]

8月19日、函館記念GIII)で重賞初参戦となる。1988年阪神3歳ステークスGI)優勝馬ラッキーゲランがトップハンデとなる57.5キログラムの斤量を背負う一方、メンバー中唯一の4歳馬で実績のないメジロパーマーは、48キログラムのハンデを貰っていた[33]。これまでの中団追走から一転、スタートからハンデ差を活かす逃げに出た[33]。最終コーナーでかわされ後退するも、8頭には先着する7着[33]。陣営は、逃げ戦法に手ごたえを感じたものの、この直後に再び骨折し、戦線を離脱してしまう[24][31]

1991年3月、半年ぶりの復帰となった1200メートルの1500万円以下こそ5番手追走から12着となったものの、2戦目2400メートルの1500万円以下では逃げて3着、3戦目同距離の大阪城ステークス(OP)でも逃げて4着[34]。続いて4月の天皇賞(春)GI)に出走する。菊花賞優勝の「オーロラの62」改めメジロマックイーンクラシック三冠すべて3着以内および有馬記念2着の「輝光」改めメジロライアン単枠指定および1、2番人気に推される一方、メジロパーマーは18頭立て16番人気の支持だった[35]。2頭が後方に控える一方で、メジロパーマーは逃げ、やがて失速。優勝したメジロマックイーンに2.8秒後れをとる13着に敗れた[35]

復帰後4戦の1500万円以下、オープン競走では歯が立たなかったこの春、大久保はメジロパーマーの障害転向を決意する。試しにハードル飛越の練習をさせてみたところ、飛越がうまく良いタイムで走ることができていたためだという[30]。ところが6月のクラス再編にて、平地競走の500万円以下に降級することが判明したため[30][注釈 6]、一度転向を持ち越して、500万円以下での走りを確かめることになった[21][30]。前年に続いて夏の北海道に遠征し6月8日、札幌のニセコ特別(500万円以下)は、逃げて2着。続いて6月22日の十勝岳特別(500万円以下)は、単勝オッズ1.1倍の1番人気の支持。後方に10馬身以上差を広げる大差[注釈 7]で逃げ切った[34]。連敗を12で止め、約1年9か月ぶりの勝利、障害転向の危機から立ち直りに成功した[31]

札幌記念 - 障害競走参戦[編集]

調子が良かったことから連闘し、6月30日の札幌記念GIII)に格上挑戦する[30]。単勝オッズ8.5倍の4番人気に推された[36]。相手は、古馬混合オープン競走勝利経験のあるビーチハウスやミスターアロマック、重賞勝利経験のあるウィナーズゴールド、ナリタハヤブサがおり、それらが5番人気までを占めていた[36]。その4頭の斤量は、おしなべて実質54キログラム以上[注釈 8]に設定されていたが、メジロパーマーは、51キログラムのハンデを貰っていた[30]。騎乗する松永幹夫は、スタートから逃げようと考えていたが、2頭に遮られてしまい、結局好位を追走となった[30]。しかし、第2コーナー手前で、メジロパーマーが前に行きたがったことから方針転換。前の2頭をかわして、逃げに転じていた[30]。以後、先頭は譲らなかった。逃げ切り、後方待機から追い込んだ重賞優勝馬モガミチャンピオンに半馬身差をつけて重賞初勝利となる[37]

その後もオープン競走、重賞を走るが、出遅れて逃げることができなかったり、逃げても直線で伸びを欠いたりして3連敗。再び行き詰まったために一度持ち越していた障害に本格的に転向する。先だって障害試験をレコードタイムで合格した[31]。11月2日、京都競馬場の障害未勝利(3000メートル)でデビューし、6馬身差の勝利。続く阪神競馬場の障害400万円以下(3150メートル)は2着。この2着では飛越が低く、前脚を障害物にぶつけて腫れてしまっていた他[38]、体中に擦過傷を負っていた[39]。大久保は、メジロパーマーが障害を適当に飛んでいるので[39]、このままでは事故になると考え、メジロパーマーの障害での成り上がりを断念する[40]。休養した後に、平地へ再転向することとなった[41]

6歳(1992年)[編集]

新潟大賞典[編集]

3月29日のコーラルステークス(OP)で始動し4着。続く4月26日、天皇賞(春)では初めて山田泰誠が騎乗する。ここまで24戦は、9人が乗り替わっていたが、これ以降は引退まで、山田で固定されることになる[42]。スタートからハイペースで逃げたが[43]、第3コーナーでメジロマックイーンに先頭を譲り、7着となっていた[44]

5月17日、新潟大賞典GIII)に参戦する。11.4倍の7番人気だった。重賞複数勝利のレッツゴーターキンが58キログラム、皐月賞2着のシャコーグレイドが57キログラム、京阪杯勝利など重賞上位多数の牝馬イクノディクタスが55キログラムなどの斤量が課される一方、メジロパーマーは54キログラムのハンデでだった[45]。スタートからハナを奪って逃げ、後方勢の接近を許さなかった[46]。直線で脚を伸ばすと、後方との差を4馬身まで広げて入線、逃げ切り勝利で重賞2勝目となった[46]。この後について大久保は「このあとは宝塚記念に登録する予定でいます。出走できるかどうかについては皆さんの判断に任せるしかありませんね[46]。」と述べていた。ところが宝塚記念のファン投票は、1万1430票の36位[47]。出走権が与えられる上位から10頭には該当しなかった。それでも新潟大賞典の勝利が推薦委員会に評価され、推薦馬としての出走が実現する[40]

宝塚記念[編集]

6月14日、宝塚記念(GI)に出走する。天皇賞(春)で連覇を果たしたメジロマックイーンと、初めて敗退したトウカイテイオーの再戦の場と考えられていたが、両者共に骨折していた[48]。出走13頭のうちGI優勝経験があるのは、有馬記念優勝馬ダイユウサクマイルチャンピオンシップ優勝馬ダイタクヘリオスの2頭のみだった。『優駿』は13頭の面子を「GIとしては小粒なもの[48]」と評している。人気は、天皇賞(春)と安田記念連続2着から臨むカミノクレッセが2.0倍、ダイタクヘリオス5.9倍、重賞初勝利となった京阪杯から臨むミスタースペインが10.8倍、ダイユウサク11.5倍と続いた。そんな中メジロパーマーは、23.1倍の9番人気であった[49]

映像外部リンク
1992年 宝塚記念(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

8枠12番からスタートし「逃げ宣言」をしていたオースミロッチ、逃げてGIを制したダイタクヘリオスの主張を封じてハナを奪った。単騎の逃げで、以後独走する[27]。直線では失速したが、逃げ切りを果たした[48]。メジロパーマーを追う後続勢は、差を縮めようにも縮められなかった。第3コーナーで接近してきたダイタクヘリオス、カミノクレッセは直線で揃って失速した。また後方から追い上げたミスタースペインは、失速するダイタクヘリオスを捕えるのが限界だった[27]。メジロパーマーは、2着カミノクレッセには3馬身、3着ミスタースペインには7馬身、その他10頭には大差をつけてGI初勝利を挙げる[27]。デビュー4年目の21歳だった山田もGI初勝利となった[50]。山田は「3コーナーで手応えがなくなったものの、4コーナーでハミが掛かりまた馬が行く気を出してくれました。直線は止まりそうになったんで後ろを見ずに無我夢中で追いました。(中略)百点満点の騎乗だった[27]」と述懐している。夏はメジロ牧場で休養した[51]

有馬記念[編集]

秋は10月11日の京都大賞典GII)で始動、2番人気で出走する[52]。スタートから先行して逃げたが、有力馬の1頭に推されていたために他の馬のマークに遭っていた。ゆえに、楽に逃げられなかった[52]。最終コーナーに差し掛かる前にかわされてしまい、9着[52][53]。11月1日の天皇賞(秋)GI)では、藤田伸二に乗り替わり[注釈 9]、10番人気だった[55]。スタートから3番人気ダイタクヘリオスとハナを争い、前半1000メートルを57.5秒で通過するハイペースを演出してしまった[56]。直線では余力なく後退し、ブービー賞17着となる[56]。この連敗からジャパンカップを見送り、有馬記念に直行することとなった[57]。有馬記念のファン投票は、4万1116票の17位[58]。出走権利が与えられる上位から10頭には、またしても該当しなかった。宝塚記念と同様に、推薦委員会に選出された推薦馬として出走が実現する[59][60]

12月27日の有馬記念GI)では、山田が鞍上に舞い戻った。出走メンバーのうちファン投票10位以内は、骨折療養中のメジロマックイーン、跛行で休養のミホノブルボン、マイル路線を進むシンコウラブリイ以外の7頭が集結[58]GI優勝馬は、メジロパーマーやダイタクヘリオス、トウカイテイオー、ライスシャワー、レオダーバン、レッツゴーターキンの6頭が揃っていた[61]

出走馬の枠順と単勝人気、ファン投票順位の比較[注釈 10][47][62][63][58][64]
宝塚記念 有馬記念
8 ムービースター 21 1 7 ナイスネイチャ 4
14 ホワイトストーン 6
12 オースミロッチ 30 2 17 メジロパーマー 15
8 レオダーバン 12
2 ダイタクヘリオス 5 3 1 トウカイテイオー 1
11 レガシーワールド 5
11 バンブージャンボ 65 4 9 レッツゴーターキン 10
3 ミスタースペイン 29 6 ダイタクヘリオス 7
1 カミノクレッセ 3 5 20下 オースミロッチ 11
13 タニノボレロ 39 20下 フジヤマケンザン 8
5 ホワイトアロー 20 6 19 イクノディクタス 16
7 ヤマニングローバル 9 13 ムービースター 9
6 ナリタハヤブサ 26 7 15 サンエイサンキュー 13
4 ダイユウサク 6 4 ヒシマサル 3
9 メジロパーマー 36 8 16 ヤマニングローバル 14
10 メイショウビトリア 33 3 ライスシャワー 2
4頭[注釈 11] 10位内出走 7頭[注釈 12]
5頭 20位内出走 14頭

2.4倍の1番人気は、ジャパンカップで復帰後初GI勝利を挙げてから臨むトウカイテイオーだった。それから菊花賞でミホノブルボンの三冠を阻止したライスシャワーが4.9倍、ジャパンカップ日本勢3位の4歳馬ヒシマサルが6.9倍と続いた。一方のメジロパーマーは、49.4倍の15番人気。ブービー人気だった[64]。例えば、菊花賞優勝後1年の休養明けのレオダーバンや、重賞優勝止まりのその他大勢よりも軽視される低評価だった[64]

映像外部リンク
1992年 有馬記念(GI
JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
1992年 有馬記念(GI
関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから先手を主張し、後方との差を広げる大逃げを展開する。天皇賞(秋)で心中したダイタクヘリオスを避けて単騎で逃げて、ペースを落とすことに成功した[65][66]。前半の1000メートルを62.6秒で通過している[63]。しかし離れた2番手で馬群を率いていたダイタクヘリオスが、そのペースに耐えられずに進出を開始する。第2コーナーから向こう正面にかけて、メジロパーマーに接近して来た。第3コーナーで並ばれて、遂にはかわされていた。しかしメジロパーマーは、それに構わなかった。折り合いに専念してマイペースで進み先頭を譲っている。おかげでかからなかった。まもなくかかったダイタクヘリオスは「まるで故障したように[65]」(阿部珠樹)失速していた。それを最終コーナーでかわして、再び先頭を取り返した[65][67]。時を同じくして、100メートルほど後方に位置していた他の14頭も進出を開始していた[68]。直線では、メジロパーマー自身も失速しながら「二の脚」を発揮、逃げ切りを図った。後方勢からは、内からレガシーワールド、外からナイスネイチャやオースミロッチが台頭し、メジロパーマーに接近してきていた。それでも、これまでの貯金を切り崩しながら先頭を守った[68]。ゴール手前「残り10メートル[69]」(橋本全弘)で、3頭から抜きん出たレガシーワールドがさらなる末脚を発揮する。レガシーワールドがメジロパーマーに並びかけたところが、決勝線だった[69]。2頭の優劣は、目視では判別不能だった。写真判定に委ねられたところ、メジロパーマーのハナ差先着、逃げ切り勝利が認められた[69]

GI2勝目に加え、リユウフオーレルシンザンスピードシンボリイナリワンに続いて史上5頭目となる同一年の春秋、ファン投票により出走馬を選定する競走を独占[70]。広く呼ばれる「春秋グランプリ優勝[注釈 13]」を果たした[71]。それに加えて推薦馬による優勝は、1959年ガーネット、1960年スターロッチ、1973年ストロングエイト、1983年リードホーユー、前年1991年ダイユウサクに続いて史上6頭目であった[72]。山田は「向正面〔ママ〕でダイタクヘリオスが掛かって来た時でも、自分からハミを外して引っ掛かることなく、この馬のペースを維持できました。(中略)よく最後まで踏ん張ってくれましたね。本当に頑張ってくれました[69]。」と述懐している。

7戦3勝、GI2勝だったこの年のJRA賞では、全176票中92票を集めて最優秀父内国産馬[注釈 14]を、93票を集めて最優秀5歳以上牡馬[注釈 15]を受賞[59]。また12票を集めて年度代表馬の次点[注釈 16]となった[59]

7-8歳(1993-94年)[編集]

6歳での有馬記念優勝だったものの、種牡馬になるには「血統がすこし地味[65]」(阿部珠樹)、大久保厩舎所属馬が「やや手薄[65]」(同)、それに馬自身が元気だったことから、種牡馬入りを見送り、現役を続行する[65]。7歳となった1993年は、3月14日の阪神大賞典GII)で始動した。有馬記念で下したナイスネイチャが1.9倍の1番人気に推される一方で、4.3倍の3番人気となる[73]。スタートから先手を主張し、単騎の大逃げを展開した。2周目の第3コーナーで後続が接近して来た。そして直線では、タケノベルベットに並ばれたり、後方から追い込んだナイスネイチャも加わってきたりして、3頭での競り合いとなった[74]。山田は、後続の接近を待ってからメジロパーマーにスパートを指示した。すると、タケノベルベットやナイスネイチャの脚が次第に鈍って来た。まもなくそれらを差し返して、単独先頭を取り戻して入線[74]。タケノベルベットやナイスネイチャに半馬身差をつけていた、重賞連勝、重賞5勝目となった[74]。山田は「着差以上に強いレースだった[74]」と述懐している。

続く4月25日の天皇賞(春)ではメジロマックイーン、ライスシャワー、マチカネタンホイザに次ぐ4番人気で出走する。再び単騎の大逃げを展開した[75]。2周目の第3コーナー、坂の上り下りでライスシャワーとメジロマックイーンに並ばれた。直線でかわされたものの、失速せずに食い下がった[75]。ライスシャワーが抜け出す一方で、メジロマックイーンとは2着争いをゴール手前まで演じた。結局、メジロマックイーンには制されたが、4分の3馬身差の3着を確保していた[75]。その後は夏秋で、宝塚記念、京都大賞典、スワンステークスGII)、ジャパンカップ(GI)、有馬記念に出走し、いずれも着外となった[71]

8歳となった1994年も現役を続行する。1月23日の日経新春杯GII)でトップハンデ60.5キログラムを背負いながら逃げた。それでも粘り、前を譲ったのはムッシュシェクルのみの2着と復調を見せた[76]。しかしレース後に脚部不安が判明する。右前脚に屈腱炎をきたしておりメジロ牧場で長期休養となった[77]。夏を越えたが、完治する目処が立たなかった。8歳という年齢を考慮して復帰を断念する[77]。1994年9月22日付で競走馬登録を抹消、競走馬を引退する[3]

種牡馬時代[編集]

競走馬引退後は北海道のアロースタッドで種牡馬として繋養された[4]。初年度はピークとなる38頭の繁殖牝馬を集め、4年間は二桁の繁殖牝馬を集めていたが、5年目から4年間は一桁に終わった[78]2002年の種付けを最後に種牡馬引退。以後は故郷のメジロ牧場洞爺、改称したレイクヴィラファームで功労馬として余生を過ごした[4]2012年4月7日心臓麻痺のため25歳(現年齢表記)で死亡する[79]。産駒からは、メジロライデン(母父:エリモジョージ)は2002年の京都ハイジャンプ(J-GII)を勝利した(後述→メジロパーマー#主な産駒[80]

競走成績[編集]

以下の内容は、netkeiba.com[81]およびJBISサーチ[32]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム

(上り3F)

着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬) 馬体重

[kg]

1989. 08. 12 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 7 4 4 002.00(1人) 02着 01:00.1 (36.1) -1.0 0柴田政人 53 ゾウゲブネメガミ 452
08. 26 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 7 1 1 002.50(2人) 02着 00:59.2 (35.7) -0.2 0柴田政人 53 ゴールデンステラ 448
09. 09 函館 3歳未勝利 芝1200m(重) 9 8 8 001.90(1人) 01着 01:13.6 (39.2) -0.1 0田面木博公 53 (ポットミツルボーイ) 446
09. 23 函館 コスモス賞 OP 芝1700m(重) 7 5 5 002.50(1人) 01着 01:47.7 (39.7) -0.0 0田面木博公 53 (キングオブトラック) 452
10. 14 京都 萩S OP 芝1200m(良) 9 2 2 018.80(5人) 09着 01:11.9 (37.0) -1.7 0村本善之 54 ヘイセイトミオー 444
11. 25 京都 京都3歳S OP 芝1600m(良) 10 8 10 023.10(8人) 08着 01:38.2 (37.3) -1.7 0田島良保 55 ニチドウサンダー 446
1990. 06. 17 札幌 エルムS 15下 芝1800m(良) 6 2 2 025.60(5人) 05着 01:51.7 (39.5) -2.7 0河内洋 54 ユートタイム 444
07. 08 札幌 大雪ハンデキャップ 15下 ダ1700m(良) 6 1 1 011.40(6人) 06着 01:45.1 (38.6) -1.3 0松永幹夫 50 シンノーブル 438
07. 22 札幌 道新杯 OP 芝1800m(稍) 11 2 2 039.0(11人) 05着 01:49.9 (37.4) -0.8 0松永幹夫 52 ユートタイム 448
08. 05 函館 巴賞 OP 芝1800m(良) 9 2 2 019.20(7人) 08着 01:48.0 (36.0) -1.4 0松永幹夫 53 ラッキーゲラン 456
08. 19 函館 函館記念 GIII 芝2000m(良) 15 2 3 042.8(10人) 07着 02:00.4 (38.6) -0.9 0村本善之 48 ラッキーゲラン 450
1991. 03. 02 中京 鈴鹿S 15下 芝1200m(良) 16 1 2 039.8(13人) 12着 01:10.8 (36.7) -1.0 0角田晃一 56 ゴールデンリッカ 470
03. 24 京都 大原S 15下 芝2400m(稍) 14 8 13 043.6(11人) 03着 02:26.5 (37.2) -0.7 0村本善之 53 タイイーグル 466
04. 06 京都 大阪城S OP 芝2400m(良) 12 2 2 013.70(6人) 04着 02:27.2 (36.7) -0.4 0村本善之 51 エリモパサー 460
04. 28 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 18 5 11 158.3(16人) 13着 03:21.6 (38.9) -2.8 0松永幹夫 58 メジロマックイーン 458
06. 08 札幌 ニセコ特別 5下 芝1800m(良) 14 2 2 001.40(1人) 02着 01:48.7 (36.8) -0.1 0松永幹夫 57 スーパーシンザン 460
06. 22 札幌 十勝岳特別 5下 芝1800m(良) 6 5 5 001.10(1人) 01着 01:48.8 (35.4) -1.8 0松永幹夫 57 (ラージェスト) 460
06. 30 札幌 札幌記念 GIII 芝2000m(良) 16 5 10 008.50(4人) 01着 02:00.9 (37.0) -0.1 0松永幹夫 51 (モガミチャンピオン) 458
08. 04 函館 巴賞 OP 芝1800m(不) 14 6 10 004.50(2人) 06着 01:51.7 (38.4) -1.1 0松永幹夫 56 ツルマイナス 460
08. 18 函館 函館記念 GIII 芝2000m(良) 14 5 7 006.70(4人) 05着 01:59.8 (37.5) -0.7 0松永幹夫 54 メジロマーシャス 460
10. 06 京都 京都大賞典 GII 芝2400m(良) 7 2 2 023.10(6人) 07着 02:29.7 (38.7) -3.2 0角田晃一 57 メジロマックイーン 460
11. 02 京都 障害4歳上未勝利 障3000m(良) 9 2 2 001.30(1人) 01着 03:24.5 (42.8) -1.0 0押田年郎 59 (カルストンパーシア) 464
12. 01 阪神 障害4歳上400万下 障3150m(良) 11 5 5 001.90(1人) 02着 03:32.5 (40.6) -0.7 0押田年郎 59 アインカイゼル 466
1992. 03. 29 阪神 コーラルS OP 芝1400m(重) 13 4 4 015.90(7人) 04着 01:24.8 (37.5) -0.6 0安田隆行 56 バンブーパッション 464
04. 26 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 14 7 12 235.1(12人) 07着 03:22.9 (39.0) -2.9 0山田泰誠 58 メジロマックイーン 464
05. 17 新潟 新潟大賞典 GIII 芝2200m(良) 13 4 4 011.40(7人) 01着 02:13.4 (36.2) -0.7 0山田泰誠 54 (タニノボレロ) 468
06. 14 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 13 8 12 023.10(9人) 01着 02:18.6 (39.8) -0.5 0山田泰誠 57 カミノクレッセ 470
10. 11 京都 京都大賞典 GII 芝2400m(良) 14 2 2 005.30(2人) 09着 02:26.1 (37.1) -1.5 0山田泰誠 59 オースミロッチ 468
11. 01 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 18 2 3 032.5(10人) 17着 02:00.4 (39.0) -1.8 0藤田伸二 58 レッツゴーターキン 478
12. 27 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 2 3 049.4(15人) 01着 02:33.5 (37.3) -0.0 0山田泰誠 56 レガシーワールド 474
1993. 03. 14 阪神 阪神大賞典 GII 芝3000m(良) 11 5 5 004.30(3人) 01着 R3:09.2 (37.7) -0.1 0山田泰誠 59 タケノベルベット 474
04. 25 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 15 5 9 009.80(4人) 03着 03:17.6 (37.0) -0.5 0山田泰誠 58 ライスシャワー 472
06. 13 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 11 3 3 002.70(2人) 10着 02:21.5 (41.6) -3.8 0山田泰誠 56 メジロマックイーン 476
10. 10 京都 京都大賞典 GII 芝2400m(良) 10 3 3 014.00(3人) 09着 02:25.7 (38.3) -3.0 0山田泰誠 59 メジロマックイーン 468
10. 30 京都 スワンS GII 芝1400m(重) 16 3 5 010.00(3人) 11着 01:22.7 (35.8) -0.8 0山田泰誠 59 シンコウラブリイ 476
11. 28 東京 ジャパンC GI 芝2400m(良) 16 3 6 017.6(11人) 10着 02:25.4 (37.3) -1.0 0山田泰誠 57 レガシーワールド 480
12. 26 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 14 8 14 025.00(9人) 06着 02:31.9 (36.3) -1.0 0横山典弘 56 トウカイテイオー 482
1994. 01. 23 阪神 日経新春杯 GII 芝2500m(良) 16 2 3 004.70(2人) 02着 02:35.8 (38.0) -0.3 0山田泰誠 60.5 ムッシュシェクル 482
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

種牡馬成績[編集]

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[82]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1995 38 22 21 19 11 0 0.42
1996 10 7 7 7 5 0.17
1997 23 16 16 15 12 0 0.36
1998 18 9 9 7 4 0 0.12
1999 4 2 2 1 0 0 0.00
2000 2 1 1 1 1 0.77
2001 5 3 3 3 0 0.08
2002 2 2 1 0
合計 60 53 33 0 0.32 1.06

重賞優勝産駒[編集]

メジロライデン[編集]

メジロライデン(欧字名:Mejiro Raiden)[83] 血統 
[83] メジロパーマー
1987 鹿毛
メジロイーグル メジロサンマン
毛色 鹿毛[83] *アマゾンウォリアー
生年 1996年[83] メジロファンタジー *ゲイメセン
生産地 日本の旗 日本北海道伊達市[83] *プリンセスリファード
生産者 メジロ牧場[83] メジロハリアー
1984 黒鹿毛
エリモジョージ *セントクレスピン
馬主 有限会社メジロ牧場[83] パッシングミドリ
調教師 大久保正陽栗東[83] ドウヤアマミ シンオンワード
成績等 45戦6勝[83]
2002年京都ハイジャンプ(J-GII)優勝
2004年中山大障害(J-GI)3着
ヒサエ

メジロライデンは、母メジロハリアー、母父エリモジョージの牡馬、後に騸馬である[83]。メジロパーマー初年度産駒の1頭である[83]。父と同じようにメジロ牧場で生産、有限会社メジロ牧場が所有、大久保厩舎に管理された[84]。4歳となった1999年1月、ダート1200メートルでデビューから、平地競走を3戦するも3連敗。同年11月には、障害に転向し、翌2000年1月の障害3戦目で初勝利を挙げた[85]。その後障害で8連敗し、同年5月に平地に再転向。復帰4戦目までで3勝を挙げた。しかし、その後は平地11連敗。2002年10月に障害再々転向する[85]。初戦は11着に敗れるも、大久保は「スタミナがあるし、距離が延びたほうが良い[80]」と続戦し、京都ハイジャンプ(J-GII)に出走。4番手で直線に向き、最終障害飛越後に末脚を見せ5馬身差をつけて優勝。JRA重賞初勝利[86]。父メジロパーマーにとってもJRA重賞初勝利となった[80]。その後は再三再四、平地と障害に転向しながら、2003年のイルミネーションジャンプステークス(J-OP)優勝、中山大障害(J-GI)3着、京都ハイジャンプ3着、京都ジャンプステークス(J-GIII)3着となる[85]。通算成績45戦6勝(うち障害3勝)[83]

エピソード[編集]

花の62年組[編集]

1987年(昭和62年)に、メジロ系列所有の繁殖牝馬から産まれた「輝光」ことメジロライアン、「オーロラの62」ことメジロマックイーン、「輝峰」ことメジロパーマーは、3頭ともにGIタイトルに到達するなど活躍。その様子から「花の62年組[87]」と呼ばれた。

花の62年組の略歴
ライアン マックイーン パーマー
3歳 未勝利戦勝利
未勝利戦勝利 コスモス賞勝利
4下勝利 骨折休養
4歳 皐月賞3着 新馬勝利
東京優駿2着 条件戦2連勝 15下連敗
菊花賞3着 菊花賞勝利
有馬記念2着 休養
5歳 4着、天皇賞(春)勝利、13着
宝塚記念勝利、2着 札幌記念勝利
屈腱炎休養 天皇賞1位入線 障害
有馬記念2着
6歳 日経賞勝利 天皇賞連覇 新潟大賞典勝利
屈腱炎休養 骨折休養 宝塚記念勝利
引退 2連敗
アローS 有馬記念勝利
7歳 天皇賞2着、3着
宝塚記念勝利、10着
繋靭帯炎 連敗
引退
8歳 産駒誕生 社台SS早来 日経新春杯2着
屈腱炎休養
引退
アローS

4歳時のメジロライアンは、皐月賞3着および東京優駿(日本ダービー)2着、菊花賞3着。またメジロマックイーンは、菊花賞を優勝している一方で、同時期のメジロパーマーは1500万円以下で着外を繰り返していた[87]。格上挑戦で臨んだ5歳の天皇賞(春)では、最初で最後の3頭共演を果たしている[20]。メジロマックイーンとメジロライアンが1、2番人気を占める中、メジロパーマーは16番人気の支持。下馬評通り、メジロマックイーンが優勝しGI2勝目、メジロライアン4着、メジロパーマー13着となっていた[88]。その後、メジロパーマーが格上挑戦の札幌記念で、初重賞勝利を挙げた5歳6月の頃には、メジロライアンもGIタイトルに到達。障害を経由して6歳となり、新潟大賞典で重賞2勝目を挙げている間に、メジロライアンは既に戦線を離脱。引退に追い込まれる原因となった屈腱炎を発症していた。

メジロライアンを失ったメジロ勢は、宝塚記念に天皇賞(春)でGI3勝に到達したメジロマックイーンと、重賞2勝のメジロパーマーを送り込む予定であった。牧場からは、応援団を阪神競馬場に派遣することにして、ホテルや飛行機も予約[27]。しかし、出走1週間前の6月7日の調教中、メジロマックイーンの骨折が判明[48]。メジロマックイーンの回避と宝塚記念を回避、メジロパーマー1頭のみの参戦が決定すると、応援団の派遣を止め、予約もすべてキャンセル[27]。当日の阪神競馬場にはメジロ勢は1人、メジロ商事社長の北野俊雄しかいなかった[89]。しかも俊雄は、レースが終わり次第帰ることができるよう場外に車を待たせた状態での応援であった[89]。そしてメジロパーマーは9番人気で優勝、直後の俊雄は泣いてしまっていたという[90]。牧場とオーナーの関係者を多く欠いた表彰式後の記念写真撮影は、GI優勝にもかかわらず、収まる人数が少なかった[27]

メジロライアン、メジロマックイーンという一線級を相次いで失ったメジロ牧場にとって、メジロパーマーの宝塚記念勝利は、武田茂男は「救世主[91]」だったと述懐している。その後のメジロパーマーは、暮れの有馬記念にて、前々年にメジロライアンがオグリキャップの2着に敗れて、前年にメジロマックイーンがダイユウサクの2着に敗れて果たせなかった有馬記念勝利まで成し遂げた[69]。一方、骨折から明けたメジロマックイーンは翌1993年、前年に叶わなかった宝塚記念に出走し勝利[92]。メジロライアン、メジロパーマー、メジロマックイーンの順でメジロ勢が3連覇を果たした[92]。同世代で宝塚記念を3勝したことはレース史上初めてであり、それをメジロ勢が占めたことは「奇跡」(『優駿』)と呼ばれた[92]。花の62年組が活躍中にはメジロの育成牧場は休養馬用の厩舎と、屋内運動場を新築された[20]。田中によれば「屋内運動場を建ててくれたのはマックイーンとライアンです。そして、休養馬の馬房を建ててくれたのはパーマーです[93]」と語っている。メジロパーマー自身も休養の際にその馬房を利用した[93]

父メジロイーグル[編集]

メジロイーグルは種牡馬としての人気がなく、繁殖牝馬が集まらなかった。メジロパーマーが宿された1986年こそ、繁殖牝馬16頭を確保していたが、その後は、1988年に一桁台に突入し、1989年には3頭、1991年には2頭と減少[18]。1992年には遂にゼロになってしまった[19]。しかし同じ年、メジロパーマーが活躍したことにより、翌1993年には、生涯最高となる18頭の繁殖牝馬(種付け料公称50万円)が集まった[19]。少ない産駒から父が届かなかった八大競走優勝馬のメジロパーマーが出現。メジロ牧場でメジロイーグルの世話を担当していた「阪本」は、メジロパーマーが札幌記念優勝し、メジロイーグルに重賞産駒が誕生した時点で涙を流していたという[8]。父内国産馬が有馬記念を勝利したのは、1956年メイヂヒカリ、1957年ハクチカラ、1958年オンワードゼア、1959年ガーネット、1961年ホマレボシ、1962年オンスロートに続いて30年ぶり史上7頭目であった[72]

障害練習、障害転向の意図とその効果[編集]

5歳春と秋には、障害練習を行った。秋には実際に障害へ転向し、2戦に出走して勝利を挙げている。これは、大久保が「何か刺激を与えよう[6]」と考えたためであった。障害での練習にて、腰回りをはじめとする後躯の筋肉が強化され、本格化を促したという説が展開されているが、大久保は馬自身の成長であると捉えている[94]

競馬サークルにおいて、障害競走に一度出走させ、平地に再転向する行為を「障害帰り」と呼び、蔑まれる対象であった[38]。しかしその反面、「障害帰り」であることから実力を低く見られて、マークされずに逃げることに成功、大レースを逃げ切ることができた[38]。大久保は「宝塚や有馬を勝ったときには、『障害を走っていた馬が勝った』なんてずいぶん言われたが、何も障害を走らせたくて走らせたんじゃない[6]。」また「障害にいく以前は、一本調子でとにかく引っかかってばかりでした。(中略)気持ちが乗らないと成績は良くなかったんです。でも、障害を経験して緩急をつけることを覚えました。(中略)レースぶりに幅が出ました[38]。」と述懐している。「障害帰り」がGI競走を優勝するのは、史上初めてのことだった[24]

山田泰誠[編集]

山田は、6歳の天皇賞(春)でコンビを結成。2戦目で重賞2勝目、3戦目の宝塚記念でGI初勝利に導き、引退レースまで騎乗した[注釈 17]。メジロパーマーの38戦のうち、12戦の鞍上が山田である[42]。レース中に遊びながら走るメジロパーマーに対して、馬のわがままを許さない性格を持ち、支配することができるデビュー4年目の山田が主戦に抜擢された[96][注釈 18][注釈 19]

評価[編集]

フロック視[編集]

宝塚記念を勝利しても、有馬記念を勝利しその年のファン投票レースを独占したとしても「フロック」「まぐれ」「漁夫の利」であるという評価が付いて回った[74]。有馬記念勝利後に出走した阪神大賞典では、有馬記念で下したナイスネイチャエリザベス女王杯鳴尾記念を連勝していたタケノベルベットを下回る3番人気であった[73]

宝塚記念[編集]

宝塚記念の勝因は、トウカイテイオーとメジロマックイーンの不在という出走メンバーのレベルの低さもあったが、特殊な馬場状態となったことが、メジロパーマーにひときわ有利に働いたと考えられた。この年の阪神競馬場は、全面改修を半年前に終えたばかりであり、新コースのもと宝塚記念が行われるのは初めてだった。新コースは、直線コースの残り200メートル付近に坂が新設されたほか、路盤を柔らかい物に切り替え、芝は従来の野芝とともに、水を多く蓄えることができる洋芝[注釈 20]を混合させるオーバーシード方式を導入した[99]。洋芝が加わったことで、スピードで押し切ることが難しくなり、スピードだけでなく、パワーが試されるコースに生まれ変わっていた[99]。宝塚記念の前年、改修直後の1991年第1回開催(11月30日 - 12月22日)では、旧コースよりも遅い決着となり、逃げや先行が有利な状況となっていた[99]

ハロンタイム(=メジロパーマーの走破タイム)[62]
地点 0200m 0400m 0600m 0800m 1000m 1200m 1400m 1600m 1800m 2000m 2200m
通過 13.0 11.8 12.2 12.9 12.5 11.8 12.2 12.4 12.5 13.3 14.0
前半1000メートル62.4秒 後半1000メートル64.4秒

翌1992年、オーバーシードの第1回、2回開催を経た夏季の第3回だったが、春の天候不順により、夏季の主役となるはずの野芝の生育が悪かった。そのため、野芝と洋芝の連絡がうまくいかなかった[50][90]。馬場に洋芝が蔓延る中、夏に差し掛かって梅雨が到来。馬場は荒れてしまい、通常よりもパワーが試されるようになる「異常[100]」(柏木集保)な状態となった[27][101]。そのため、より遅いタイムでの決着となりやすく、より逃げ・先行が有利な状況となり、蔵内哲爾によれば「良馬場発表でも、不良馬場のような競馬[27]」が続いていた。当日の宝塚記念も良馬場だったが、後続勢は馬場に脚をとられて、追走に苦労。直線に入る頃には、既に追い込む余力はなかった[50]。大逃げしてバテたメジロパーマーの上がり4ハロンが52.2秒に対し、追ったカミノクレッセは52.3秒、メンバー中最速のミスタースペインでも52.0秒。大きく開いた差はそれほど縮まることなく、メジロパーマーの逃げ切り勝利に至った[49][50]。久保吉輝は「まるでヨーロッパの競馬を見ているようだった[50]」と述懐している。

決着タイムは、2分18秒6、上がり3ハロン39.8秒を『優駿』は「下級条件戦のような数字[50]」、梶山隆平は「全般の平凡レベルの証[102]」と評している。またレコードタイムよりも3秒遅かった[注釈 21][102]。さらに、同じく良馬場で行われ、宝塚記念の直前にメジロパーマーが逃げ切った新潟大賞典、新潟芝2200メートル2分13秒6とは5秒遅かった[100]。新潟大賞典と宝塚記念に5秒の差が生まれたこの現象に、柏木集保は「ちょっとついていけない[100]」と述べている。

有馬記念[編集]

有馬記念の勝因は、他が1番人気トウカイテイオーの動向ばかりに気を遣い、15番人気メジロパーマーを軽視したためであると考えられた。出走前には、ダイタクヘリオスとメジロパーマーが天皇賞(秋)のようにハナを争い、ハイペースを刻んで両方潰れるだろうというのが大方の見立てであった[103]。そんな中、好位差しのトウカイテイオーが1番人気、同じく好位差しのライスシャワーが2番人気、追い込みのヒシマサルが3番人気となり、ハイペースに有利な「中団から後方に待機する馬」に支持が集まった。しかし、天皇賞(秋)のような激しいハナ争いは発生せず、メジロパーマーは楽に逃げることに成功。自身に有利なスローペースを刻み、折り合いをつけて走っていた[69]

ハロンタイム(一部ダイタクヘリオス先頭)[63]
地点 0100m 0300m 0500m 0700m 900m 1100m 1300m 1500m 1700m 1900m 2100m 2300m 2500m
通過 7.0 11.5 12.3 12.6 12.8 12.8 13.0 11.4 11.1 11.7 11.9 12.4 13.0

一方後方では、トウカイテイオーがスタートで出遅れて、最後方を追走していた。ゲートでトモを滑らせて腰の筋肉を痛めていたトウカイテイオーは実力を発揮することなく、後方のまま敗退することになるが、メジロパーマーの大逃げを許したのは、他がトウカイテイオーと張り合う目的で、トウカイテイオーのマークにこだわったためであった[72]。それゆえトウカイテイオーの仕掛けを待つライスシャワーなどは、勝負所に差し掛かっても迂闊には動けなかった。そもそも追うことができないトウカイテイオー、それをマークする対抗馬たちの駆け引きで後方集団は三すくみの状態[69]。トウカイテイオーを見限り、追うべき対象をメジロパーマーに切り替えるのが遅くなってしまった。そのため、メジロパーマーに逃げ切りを許すことになったとされた[74]。前年のダイユウサクに続き、2年連続ブービー人気の勝利となり、馬番連勝3万1550円、複勝式1590円は有馬記念史上最高配当[72][104]。単勝式4940円は、ダイユウサクに次いで有馬記念史上2番目の配当であった[72]

血統表[編集]

メジロパーマー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 プリンスローズ系
[§ 2]

メジロイーグル
1975 鹿毛
父の父
メジロサンマン
1963 鹿毛
Charlottesville Prince Chevalier
Noorani
*パラディシア
Paradisea
Aureole
Chenille
父の母
*アマゾンウォリアー
Amazon Warrior
1960 鹿毛
Khaled Hyperion
Eclair
War Batsy War Relic
Betsy Ross

メジロファンタジー
1981 黒鹿毛
*ゲイメセン
Gay Mecene
1975 黒鹿毛
Vaguely Noble *ヴィエナ
Noble Lassie
Gay Missile Sir Gaylord
Missy Baba
母の母
*プリンセスリファード
Princess Lyphard
1975 鹿毛
Lyphard Northern Dancer
Goofed
*ノーラック
No Luck
Lucky Debonair
No Teasing
母系(F-No.) ノーラック系(FN:1-s) [§ 3]
5代内の近親交配 Aureole 4×5、Nearco 5×5、Hyperion 4・5(父系内) [§ 4]
出典
  1. ^ [105]
  2. ^ [106]
  3. ^ [107][105]
  4. ^ [105]


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 担当厩務員は、自衛隊出身。メジロパーマーは頻繁に筋肉痛をする体質(コズミがち)であり、普段から曳き運動が必要だった。その厩務員が速く歩きながら曳くことでメジロパーマーが鍛えられたという。
  2. ^ 固定相場制下にあったこの頃、1ドル360円に直すと、684万円に相当する。
  3. ^ 正確に言えば「前脚の膝と、球節の中間の周囲」。
  4. ^ なおメジロイーグルの「イーグル」は飛行機の名前、この年のパターンは飛行機であり、同期にはメジロファントムがいる。
  5. ^ 準オープンクラスとも呼称される。
  6. ^ メジロパーマーの収得賞金は本来であれば未勝利戦で400万円加算し、コスモス賞で610万円加算し、合計で1010万円となり、500万下には出走できないが、1989年の夏季および秋季開催限定で収得賞金400万円を超えるレースを対象に収得賞金を10万円~30万円減額して加算する措置が取られており、コスモス賞は20万円減額されて590万円での加算となったため、500万下に出走可能となった。
  7. ^ 石田敏徳によれば「11馬身」。
  8. ^ セックスアローワンス(牝馬の斤量を軽減する行為)を考慮しない場合。
  9. ^ 山田泰誠が1992年10月10日京都第8競走で落馬し、骨折したため。京都大賞典は怪我を押して騎乗していた[54]
  10. ^ 網掛け強調は、ファン投票10位以内を表す。
  11. ^ 1位:メジロマックイーン、2位:イブキマイカグラ、4位:メジロライアン、7位:レオダーバン、8位:カリブソング、10位:ダイイチルビー
  12. ^ 2位:ミホノブルボン、5位:メジロマックイーン、10位:シンコウラブリイ
  13. ^ 春の宝塚記念は、グランプリを冠していない。
  14. ^ 66票を集めたトウカイテイオーが次点。以下、ダイタクヘリオス10票、メジロマックイーン6票、ヌエボトウショウ1票、該当馬なし1票。
  15. ^ 73票を集めたトウカイテイオーが次点。以下、メジロマックイーン6票、ダイタクヘリオス2票、該当馬なし2票。
  16. ^ 157票を集めたミホノブルボンが受賞。他に、トウカイテイオーに7票。
  17. ^ 1993年有馬記念では、山田が騎乗停止中のため横山典弘が代打で騎乗した[95]
  18. ^ メジロの総帥北野ミヤは、有馬記念優勝時、山田に対し「お前はよっぽどパーマーに合うんだね[97]」と声を掛けている。
  19. ^ 杉本清は、山田は「パーマーの良き理解者」だと評している[98]
  20. ^ 野芝は、冬の寒さに耐えられず枯れてしまうが、洋芝は寒さに強く、馬場を緑に保つことができた。
  21. ^ 改修後のレコードタイムは、1992年3月22日御堂筋ステークス(1500万円以下)のマミーグレイスが記録した2分15秒4。なお、旧コースでの宝塚記念レコードは、1983年にハギノカムイオーが記録した2分12秒1である。

出典[編集]

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参考文献[編集]

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      • 笹本晃彦「【この秋を面白くする個性派たち】ふたたび秋GIのカギを握るか!? メジロパーマーと"逃げ馬"たち」
    • 1993年12月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 91】小さな大逃亡者 メジロイーグル」
    • 1994年11月号
      • 「【今月のトピックス】もう一度、あの"逃げ"が見たかった!! ——メジロパーマー引退。他の重賞ウイナーも続々と…」
    • 2000年1月号
      • 井口民樹「ハナ差の大逃走 - メジロパーマーとレガシーワールドの有馬記念(上)」
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      • 谷川善久「【重賞レース すごい逃げ切り&すごい追い込みBEST30】第7位 1992年有馬記念 メジロパーマー グランプリ史上に残る逃亡者のドラマ」
    • 2014年1月号
      • 優駿編集部「【最終決戦 歴史と記録を知ろう】グランプリの基礎&豆知識 Q&A 20」
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      • 優駿編集部「【1990年代 名馬&名ホースマンの記憶】ターフを沸かせた往年の名コンビたち」
    • 2022年1月号
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  • Gallop臨時増刊『週刊100名馬28 メジロパーマー』産業経済新聞社、2000年10月26日

外部リンク[編集]