ミールザー・アズィーズ・コーカ

ミールザー・アズィーズ・コーカ

ミールザー・アズィーズ・コーカ(Mirzā Azīz Koka, 1542年 - 1624年)は、北インドムガル帝国の政治家。ハーニ・アーザム(Khan-i-Azam)とも呼ばれる。

生涯[編集]

ミールザー・アズィーズ・コーカの建設したチャウサト・カンバー

1542年ムガル帝国の家臣アトガ・ハーンとその妻ジージー・アナガとの間に生まれた。父は皇帝フマーユーンが危地に陥った時に助けた命の恩人であり、母はその息子アクバルの乳母であった。彼はアクバルの乳兄弟であったため、乳兄弟を意味する「コーカ」の称号を得た[1]

1562年5月に父のアトガ・ハーンが殺害されたのち[1]1566年から翌年にかけてニザームッディーン・アウリヤー廟の横に父の墓廟チャウサト・カンバーを建設した。

ミールザー・アズィーズ・コーカはグジャラートマールワーベンガルの諸州の太守を歴任したばかりか、娘のハビーバ・バーヌー・ベーグムをアクバルの皇子ムラードに嫁がせた。彼らの間には2人の息子が生まれた[2]

1601年、老齢のアクバルに対して皇子サリーム(のちのジャハーンギール)が反乱を起こすと、ミールザー・アズィーズ・コーカとマーン・シングはサリームの息子フスローを推して対抗した[3]。だが、結局は宮廷での会議により、フスローではなくサリームの継承を認めた[4]

1606年、皇帝ジャハーンギールに対してフスローが反乱を起こすと、ミールザー・アズィーズ・コーカがこれに対応し、鎮圧した。

1624年、ミールザー・アズィーズ・コーカは死亡し、その遺体は父と同じチャウサト・カンバーに埋葬された[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
  2. ^ The Timurid Dynasty: Genealogy”. Royal Ark. p. 3. 2013年8月16日閲覧。
  3. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.149
  4. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.150
  5. ^ Mirza 'Aziz Kotaltash Tomb”. ArchNet Digital Library. 2012年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月15日閲覧。

参考文献[編集]

  • アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。 
  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 

関連項目[編集]