ヴィトルト・マウツジンスキ
ヴィトルト・マウツジンスキ(ポーランド語: Witold Małcużyński, 1914年8月10日 ワルシャワ近郊コジチン - 1977年7月17日 マヨルカ島パルマ)はポーランドのピアニスト。
略歴[編集]
ショパンの解釈に定評があった。日本では「ヴィトルド・マルクジンスキ(マルクジンスキー)」等のカナ表記が使われたこともある。 弟のカロル・マウツジンスキ(Karol Małcużyński (ポーランド語版), 1922年-1984年)はライターで政治家である。
5歳でピアノを始めたものの、父の勧めにより当初は法学と哲学を修習するつもりであった[1][2]。しかし、音楽への情熱を断ちがたく、ワルシャワ音楽院でフェルッチョ・ブゾーニ門下のユゼフ・トゥルチンスキに師事した。1936年には、元ポーランド共和国首相で19世紀ロマン派ピアニストの黄金時代を知るイグナツィ・パデレフスキの薫陶も受けた。1937年に開かれたショパン国際ピアノコンクールで第3位に入賞した後、パリ音楽院に留学してイシドール・フィリップやマルグリット・ロン等の教えも受けている。また、パリではフランスのピアニストであったコレット・ガヴォー(Colette Gaveau)と結婚している。
フランスが降伏するとコレット夫人とともにポルトガルに逃れ、そこで思いがけずグジェゴシュ・フィテルベルクと出逢う。フィテルベルクから南米での演奏旅行を持ちかけられて1940年10月にアルゼンチンに行き、1942年4月にはアメリカ合衆国に移った。戦後はスイスに移住してその地に暮らした。
脚注[編集]
- ^ The Witold Malcuzynski Website/biography
- ^ 吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、81ページ、ISBN 4-7872-7208-X
参考文献[編集]
- Wolny, Marcin. “Rocznica śmierci Witolda Małcużyńskiego”. Forum Polonijne 4 (2007): 38. ISSN 1234-2807.