マリーナ・オズワルド・ポーター

: Marina Oswald Porter
: Марина Освальд Портер

マリーナ・オズワルド・ポーター
ミンスクで撮影、時期不明
生誕 マリーナ・ニコラーイェフナ・プルサコワ
Marina Nikolayevna Prusakova

(1941-07-17) 1941年7月17日(82歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国アルハンゲリスク州モロトフスク(現セヴェロドヴィンスク
国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 薬剤師
配偶者
ケネス・ジェス・ポーター[注釈 1] (m. 1965)
子供 3人[1]
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マリーナ・ニコラーイェフナ・オズワルド・ポーター: Marina Nikolayevna Oswald Porter1941年7月17日[2] - )は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺犯とされる、リー・ハーヴィー・オズワルド未亡人ソビエト連邦出身でアメリカ合衆国帰化している。旧姓はプルサコワ(英: Prusakovaロシア語: Марина Николаевна Прусакова)。オズワルドがソビエト連邦へ一時亡命していた際に結婚し、彼の帰国に伴ってアメリカ合衆国へ移住した。夫が引き起こしたとされるケネディ大統領暗殺事件には関与しておらず、暗殺事件とオズワルドの死から2年後に再婚している。

幼少期[編集]

彼女は、マリーナ・ニコラーイェフナ・プルサコワとして、ソビエト連邦の北西部に位置するアルハンゲリスク州モロトフスク(現在のセヴェロドヴィンスク)で生まれた[2]。ウォーレン委員会報告書に掲載された1963年12月の聴取によると、幼いうちにモロトフスクから州都アルハンゲリスクへ移って、7歳まで祖父母と暮らし、その後ズグリツァ英語版(現モルドバ、当時はソ連)で暮らしていた実母・継父の元へ移った(夫妻の間には、マリーナの異父弟と異父妹がいた)[2]。1952年には一家でレニングラードへ移り、薬学を学んで1959年6月に薬剤師資格を取得した[2]。その後ソビエト連邦内務省の大佐だったおじのイリヤ・プルサコフ (Ilya Prusakov) を頼ってミンスクへ移っている[3]

オズワルドとの生活[編集]

彼女がリー・ハーヴィー・オズワルド(元アメリカ海兵隊員でソビエト連邦へ亡命していた)と出会ったのは、1961年3月17日に開かれたダンスの場であった[4]。出会って6週後には結婚し、翌年には長女ジューン・リー (June Lee) が生まれている。1962年6月、一家はアメリカ合衆国へと移り、テキサス州ダラスに居を構える。1963年2月のパーティで、夫妻の生活を支援していたジョージ・ド・モーレンシルトから、ロシア語の生徒となるクエーカーの女性ルース・ペイン英語版を紹介された。

マリーナが自宅前で夫リーを撮影したもの(1963年3月)。ケネディ暗殺事件後、彼の政治的背景を示す写真として大々的に用いられる

1963年1月、オズワルドは通販でスミス&ウェッソン社製の38口径回転式拳銃(リボルバー)を購入し、続く3月には、マンリッヒャー=カルカノのライフル英語版カルカノ)を購入した[5]。マリーナが後にウォーレン委員会で証言したところによると、この月遅く、夫が黒い服を着てカルカノのライフルを持ち、ザ・ミリタント英語版紙の記事(エドウィン・ウォーカー元将軍を「ファシスト」とこき下ろす内容)を片手に写る写真を撮影したのだという。これらの写真はオズワルドの「裏庭の写真」"backyard photos" として広く知られるようになるが、陰謀論者には写真がフェイクだと主張する者もいる[6]。一連の写真は後にペイン家のガレージで発見されたが、1枚だけはこれよりも前にジョージ・ド・モーレンシルトの手に渡っていた[7][8]。ド・モーレンシルトに渡された写真は、オズワルド直筆でサインが入れられ、「ファシストの狩人、ははは!!!」"Hunter of Fascists, Ha-Ha-Ha!!!" という文章を、マリーナがロシア語に翻訳したものが書き込まれた[9]

1963年4月、マリーナは娘と共にルース・ペインの家へと移る(ペインは夫のマイケル英語版と別れたばかりだった)。オズワルドはダラスで別室を賃借し、1963年の夏には一時期ニューオーリンズへと移っている。彼は10月初めにダラスへ戻り、その後ダラス近郊のオーク・クリフ英語版にある下宿の一室英語版へ引っ越した。ペインが隣人からテキサス教科書倉庫での勤め口を聞きつけ、オズワルドは1963年10月16日から、整頓業務に当たるようになる。10月20日には、オズワルド夫妻の次女となるオードリー・マリーナ・レイチェル・オズワルド (Audrey Marina Rachel Oswald) が生まれた。オズワルドは平日オーク・クリフで暮らし、週末になるとアービングにあったペインの自宅英語版にやってきては妻と過ごしていた。この生活はオズワルドがケネディ暗殺犯として逮捕されるまで続いた。

ケネディ大統領暗殺事件[編集]

彼女はメディアの報道でケネディ大統領暗殺の一報を知り、その後同じようにして夫の逮捕も知ることになる。同じ日の昼、ダラス警察英語版の刑事がペイン家を訪れ、マリーナへ夫がライフルを持っていたかどうか訊ねた。彼女は、夫がブランケットで包んでライフル英語版を保管していたはずのガレージをジェスチャーで指し示したが、ライフルは見つからなかった。マリーナはその後、ペイン家とダラス警察本部で尋問を受け、ケネディ大統領暗殺と、ダラス警察の警官J・D・ティピットの死に、夫が関与していたかどうか訊ねられた。

ケネディ大統領暗殺から2日後、ダラス警察から郡刑務所に移送予定だった夫のオズワルドが、ジャック・ルビーに射殺される。マリーナは22歳で未亡人となった。ケネディ大統領暗殺事件、引き続く夫の逮捕後、マリーナはウォーレン委員会前の証言を終えるまでアメリカ合衆国シークレットサービスの警護を受けた。彼女は委員会前に全4回の証言を行っている。マリーナの証人としての信用性については、ウォーレン委員会の最中も幾度となく疑問符が付けられたが、中でもエドウィン・ウォーカー元将軍暗殺未遂事件に関する証言[10]、そして夫がリチャード・ニクソンの暗殺を計画していたという主張[11][12]では、証言の信用性が特に議論された。将軍暗殺未遂は物的証拠によって信ぴょう性は裏付けられている。ニクソン計画は実行されなかったが、この日ニクソンはダラスに来ていないので、別のターゲットがいたのではないかと考えられている。マリーナは証言の中で、夫の有罪を確信していると述べ、1978年にアメリカ合衆国下院暗殺調査委員会英語版が開かれるまで、同様の意見を繰り返し述べていた[13]

暗殺事件後[編集]

ケネディ大統領暗殺事件後も、当初マリーナはダラスへ留まった。ウィリアム・マンチェスター英語版の『ザ・デス・オブ・プレジデント』(原題、意味は「大統領の死」、"The Death of a President")では次のように綴られている。

「マリー・ティピット[オズワルドが逃走中に射殺した警官J・D・ティピットの妻]とマリーナ・オズワルドの苦境は、アメリカの寛大さに訴えかけた。郵便配達鞄いくつもの小切手と現金が彼女たちに届けられたのである。ティピット夫人は自分自身を見事に操った。[中略]マリーナはもっと色鮮やかなキャリアを築いた。7万ドルの寄付を元に、彼女は大勢のビジネス・エージェントと契約した。夫が書いたロシア語の日記は2万ドルをもたらし、彼がマンリッヒャー=カルカノのカービン銃[ケネディ暗殺に使用と目されたオズワルドのライフル]を持った写真は5千ドルとなった。次に彼女は銃そのものを求め、オズワルドが死んだので証拠にはなり得ないのだと主張した。記念品として欲しがったデンバー油田持ちが、彼女に1万ドルの頭金——リーの元の資産からすれば49,900%の利益——を支払い、所有権を巡ってカッツェンバックを訴えた。1966年初め、連邦裁判所は訴えを棄却した。この秋遅く、司法省はC2766[ライフルのシリアル番号]を取得した。
マリーナはずっと前にお金を使い果たしてしまっていた。富と共に彼女は機動性を身に着けた。当初、彼女は報道機関に対して、自分の人生を突き動かす最も強い力は、子どもたちの父親に対する愛なのだと語っていた。彼女の望みは、ただひとつ彼の墓のそばで暮らすことだったのだ。これはすぐに変わってしまった。まず彼女はミシガン大学へ進学した。ダラスへ戻ってエアコン付きの家を買い、ニーマン・マーカスの服が入った衣装箪笥、プライベートクラブ『ミュージック・ボックス』の会員権を購入した。チェインスモーカーになり、ウォッカをストレートであおるようになった。ミュージック・ボックスでは多くのロマンスを紡いだ。そして1965年、フェイト英語版[英語の「運命」と同じスペル]というテキサスの街でジューンブライドとなった」[注釈 2]

オズワルドの死から2年後、彼女はケネス・ジェス・ポーター (Kenneth Jess Porter) と再婚し、息子を儲けている[15]。ポーターは2度の離婚歴があるドラッグレーサーで、結婚の11週後には監獄行きとなっている。彼女は夫の家庭内暴力を訴えたが、治安判事が「ふたりのよりを戻した」("reunited them") という[14]。1970年代半ば、彼女はロックウォール (テキサス州)英語版へ転居した[16]。1989年にはアメリカ合衆国の市民権を取得した[17]。ケネディ暗殺にまつわる多くのドキュメンタリーで彼女の名前に言及される。当初こそ夫の有罪を確信していたものの、マリーナは次第にケネディ暗殺に関してオズワルドは無罪だと考えるようになったという[17][18]。2013年にはオズワルドが付けていた結婚指輪をオークションへ出品し、108,000ドルで落札された[16]

ポップ・カルチャーにて[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 英: Kenneth Jess Porter
  2. ^ 原文:"The plight of Marie Tippit and Marina Oswald appealed to American generosity; mailbags of checks and cash descended upon them. Mrs. Tippit handled herself admirably. ... Marina ... led a more colorful career. With $70,000 in donations she engaged a series of business agents. Her husband's Russian diary brought $20,000 and a picture of him holding the Mannlicher-Carcano carbine $5,000. Then she went after the gun itself, arguing that since Oswald was dead it could not be held as evidence. A Denver oil man who wanted it as a souvenir sent her a $10,000 down payment – about 49,900 percent profit on Lee's original investment – and then sued [Nicholas] Katzenbach for possession. Early in 1966 a federal court threw the case out. Late that autumn the Justice Department took title to C2766 [the gun's serial number].
    Marina had spent the money long ago. With affluence she had acquired mobility. At first, she had told the press that the strongest force in her life was her love for the father of her children; she only wanted to live near his grave. This quickly changed. First she enrolled at the University of Michigan. Returning to Dallas, she bought an air-conditioned house, a wardrobe of Neiman-Marcus clothes, and membership in the Music Box, a private club. She became a chain-smoker and a drinker of straight vodka. In the Music Box she spun through a series of romances. Then, in 1965, in a Texas town called Fate, she became a June bride."[14]

出典[編集]

  1. ^ Granberry, Michael (2013年11月9日). “As paparazzi stalk her, Kennedy assassin's widow lives quiet Dallas-area life”. The Dallas Morning News. http://www.dallasnews.com/news/jfk50/reflect/20131109-assassins-widow-lives-a-quiet-life-in-the-dallas-area.ece 2015年10月26日閲覧。 
  2. ^ a b c d ウォーレン委員会 (1964年). Investigation of the Assassination of President John F. Kennedy: Hearings Before the President's Commission on the Assassination of President Kennedy. 22. U.S. Government Printing Office. p. 743. https://books.google.co.jp/books?id=Oy8hQBPop90C&pg=PA743&lpg=PA743 2020年5月6日閲覧。 
  3. ^ Mailer, Norman (2007). Oswald's Tale: An American Mystery. Random House. p. 139. ISBN 1-588-36593-X. https://books.google.co.jp/books?id=WSKKEJXZs_oC&lpg=PP1&dq=Oswald's%20Tale%3A%20An%20American%20Mystery&hl=ja&pg=PA139 2020年5月6日閲覧。 
  4. ^ Hosty, James P; Hosty, Thomas (2013). Assignment: Oswald. Skyhorse. p. 112. ISBN 1-628-72187-1 
  5. ^ “Chapter 4: The Assassin”. Report of the President's Commission on the Assassination of President John F. Kennedy. Washington, D.C.: United States Government Printing Office. (1964). pp. 118–119. https://www.archives.gov/research/jfk/warren-commission-report/chapter-4.html 
  6. ^ Groden 1995, pp. 90–95.
  7. ^ Bugliosi 2007, pp. 793–95.
  8. ^ Sabato, Larry J (2013). The Kennedy Half-Century: The Presidency, Assassination, and Lasting Legacy of John F Kennedy. US: Bloomsbury. p. 486. ISBN 1-620-40281-5 
  9. ^ Johnson McMillan, Priscilla (2013). Marina and Lee: The Tormented Love and Fatal Obsession Behind Lee Harvey Oswald's Assassination of John F Kennedy. Steerforth Press. p. 360. ISBN 1-586-42217-0 
  10. ^ Groden 1995, pp. 62–63.
  11. ^ Warren Commission Report. Barnes & Noble. (2003). pp. 187–88. ISBN 0-760-74997-3 
  12. ^ Bugliosi 2007, pp. 697–98.
  13. ^ “Marina Oswald Concedes Husband Could Be Killer”. Observer-Reporter: p. D–3. (1978年9月15日). https://news.google.com/newspapers?nid=2519&dat=19780915&id=52VfAAAAIBAJ&sjid=ll8NAAAAIBAJ&pg=1266,2119761 2014年9月25日閲覧。 
  14. ^ a b Manchester, William (1967). The Death of a President (paperback ed.). p. 635. OCLC 475124 
  15. ^ Andy Soltis (2013年11月1日). “Oswald widow snapped for 1st time in 25 years”. ニューヨーク・ポスト. 2020年5月5日閲覧。
  16. ^ a b The secret life of Lee Harvey Oswald's widow who refuses to believe he killed JFK as it's revealed assassin cared so much for president he sobbed when his premature son Patrick died”. デイリー・メール (2013年10月30日). 2020年5月5日閲覧。
  17. ^ a b Interview with Oprah Winfrey at the Wayback Machine (archive index) (Nov. 22, 1996)
  18. ^ Posner, G (2003) [1993], Case Closed, Anchor Books, p. 345 .
  19. ^ Bolam, Sarah Miles; Bolman, Thomas J (2007). The Presidents on Film: A Comprehensive Filmography of Portrayals from George Washington to George W Bush. McFarland & Co. p. 110. ISBN 0-786-42481-8 
  20. ^ Roberts, Jerry (2009). Encyclopedia of Television Film Directors. Scarecrow Press. p. 139. ISBN 0-810-86378-2 
  21. ^ Errol Morris Interviews Stephen King”. The New York Times (2011年11月10日). 2014年9月25日閲覧。
  22. ^ Blake, Meredith (2013年11月8日). “'Killing Kennedy': Michelle Trachtenberg on playing Marina Oswald”. The Los Angeles Times. 2014年9月25日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]