マット・フランコ

マット・フランコ
Matt Franco
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンタモニカ
生年月日 (1969-08-19) 1969年8月19日(54歳)
身長
体重
186 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手三塁手一塁手
プロ入り 1987年 MLBドラフト7巡目
初出場 MLB / 1995年9月6日
NPB / 2004年3月27日
最終出場 MLB / 2003年9月27日
NPB / 2006年8月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

マシュー・ニール・フランコMatthew Neil Franco, 1969年8月19日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ出身の元プロ野球選手外野手内野手)。血液型AB型。叔父は俳優のカート・ラッセル

来歴[編集]

MLB時代[編集]

1987年ドラフト7巡目でシカゴ・カブスに入団、1995年MLB初昇格。ニューヨーク・メッツに在籍した1999年監督ボビー・バレンタインの下、代打の切り札として活躍していたが、2試合だけ投手で起用されたことがある。その後、アトランタ・ブレーブス2002年)を経て、2004年千葉ロッテマリーンズに入団。

ロッテ時代[編集]

来日2年目2005年は、ヴァル・パスクチが入団し、外国人打者が4人になったことで、外国人枠の関係から開幕2軍が濃厚だったが、李承燁のオープン戦の不調や開幕後のパスクチの不調で2軍降格もあり、開幕から1軍で、さまざまな打順と守備位置をこなし、最終的に打率.300・21本塁打・78打点と前年以上の活躍を見せ、パ・リーグ外野手部門のベストナインを受賞した。ベニー・アグバヤニとともに打線の柱として、チームのリーグ優勝・日本一に貢献した。同年オフには代理人の意向で一度自由契約となったが、ロッテと再契約した。

2006年は去年と比べ不振で、終盤に登録抹消となった。不振な成績と37歳という年齢もあって、同年11月28日にヴァル・パスクチケビン・バーンと共に自由契約選手として公示され退団した。

ロッテ退団後[編集]

2011年2月5日 BS朝日のTV番組「USスタイル」において、フィットネスジムを経営しスタントウーマンでもある妻のベビン・カイエ・フランコ氏(Bevin Kaye Franco) が取り上げられ、ロサンゼルス郊外にある自宅と、幼い息子2人との生活が紹介された。

選手としての特徴・人物[編集]

  • ファンからは通称「マティー」(Matthewの短縮型)などと呼ばれていた。
  • 配球を読んで打つタイプで[1]、チャンスに強く[2]、内角に強く外角も逆らわず逆方向へ打ち返せる“日本向き”な野球ができた。守備に対しての評価は低く(千葉テレビの解説者である倉持明が中継中に思わず「へたくそですねー」とあきれるほど)、打球反応が悪く守備範囲が狭い上に球際に弱いため、指名打者としての出場も多かったが、一塁三塁・外野(左翼中堅右翼全て)の5ポジションをこなせる。来日当初は内外野全てのポジション、さらに捕手もこなせると話題になった。
  • チームメート思いで、乱闘があると味方選手を守って騒ぎを沈静化しようと率先して動いていた。2005年の交流戦で巨人清水隆行藤田宗一から本塁打を打って大声を上げてガッツポーズすると、それを藤田に対する罵声と勘違いし激怒して清水に詰め寄ったこともあった。
  • かつて千葉ロッテに所属したフリオ・フランコとは血縁関係はないが、2002年から2003年にかけてアトランタ・ブレーブスでともにプレーした。
  • 応援歌はDropkick Murphysの「For Boston」が原曲であるが、メロディの美しさとノリのよさからロッテファンはもちろん、他球団のファンにも人気があった。本人もこの応援を大変気に入っていた。ちなみにこの曲はかつてはデリック・メイの応援歌で、フランコの退団後は神戸拓光の応援歌にも使われていた。

薬物疑惑[編集]

2007年12月13日に発表されたミッチェル報告書によると、カーク・ラドムスキーは1995年にメッツのクラブハウス従業員を退職した後も、メッツの選手や関係者との交流は続けた。2000年にフランコにアナボリックステロイド(種類は言及されず)を提供したと主張している。フランコは報告書の調査スタッフによる電話を通した聴取に応じ、その中で過去に運動能力向上薬物を一度も購入していないし、使用していないと否定した。また、ラドムスキーとは今まで会ったり話したりした事も無いし、有罪答弁が報道された時に初めて彼の事を知ったと述べた[3]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1995 CHC 16 17 17 3 5 1 0 0 6 1 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .294 .294 .353 .647
1996 NYM 14 34 31 3 6 1 0 1 10 2 0 0 0 1 1 0 1 5 1 .194 .235 .323 .558
1997 112 176 163 21 45 5 0 5 65 21 1 0 0 0 13 4 0 23 4 .276 .330 .399 .728
1998 103 187 161 20 44 7 2 1 58 13 0 1 1 1 23 6 1 26 8 .273 .366 .360 .726
1999 122 161 132 18 31 5 0 4 48 21 0 0 0 1 28 3 0 21 9 .235 .366 .364 .730
2000 101 157 134 9 32 4 0 2 42 14 0 0 1 1 21 3 0 22 3 .239 .340 .313 .653
2002 ATL 81 233 205 25 65 15 4 6 106 30 1 0 0 1 27 2 0 31 5 .317 .395 .517 .912
2003 112 148 134 11 33 5 0 3 47 15 0 1 1 2 11 0 0 26 4 .246 .299 .351 .650
2004 ロッテ 130 503 439 70 122 35 2 16 209 65 1 2 1 3 58 1 2 66 11 .278 .363 .476 .839
2005 129 520 464 73 139 28 0 21 230 78 2 2 1 1 52 1 2 90 7 .300 .372 .496 .868
2006 91 298 274 33 72 8 0 7 101 20 1 1 1 1 21 1 1 49 9 .263 .316 .369 .685
MLB:8年 661 1113 977 110 261 43 6 22 382 117 2 2 3 7 124 18 2 158 34 .267 .349 .391 .740
NPB:3年 350 1321 1177 176 333 71 2 44 540 163 4 5 3 5 131 3 5 205 27 .283 .356 .459 .815

年度別守備成績[編集]

年度 一塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2004 7 36 3 0 2 1.000 71 40 94 9 9 .937 37 37 0 0 0 1.000
2005 36 197 11 1 17 .995 1 1 3 2 1 .667 89 116 3 2 1 .983
2006 26 148 18 2 6 .988 1 0 0 1 0 .000 58 73 1 2 0 .974
通算 69 381 32 3 25 .993 73 41 97 12 10 .920 184 226 4 4 1 .983

表彰[編集]

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 15 (1995年 - 2000年)
  • 4 (2002年 - 2006年)

脚注[編集]

  1. ^ 『プロ野球選手名鑑2005』ベースボール・マガジン社、2005年、287頁。ISBN 4-583-61312-1 
  2. ^ 『プロ野球カラー名鑑2006』ベースボール・マガジン社、2006年、155頁。ISBN 4-583-61368-7 
  3. ^ Mitchell Report” (PDF) (英語). Office of the Commissioner of Baseball. pp. SR165. 2013年11月29日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]