マイケル・ミルケン

マイケル・ロバート・ミルケン

マイケル・ロバート・ミルケン(Michael Robert Milken、1946年7月4日 - )は、ドレクセル・バーナム・ランバート社員。1980年代にジャンクボンドの帝王"Junk Bond King"として名を馳せた。ジャンクボンドを使ってミューチュアル・ファンドを組むというプロジェクトは、彼によって売り込まれた[1]

経歴[編集]

カリフォルニア大学バークレー校を首席で卒業した後、そのままペンシルベニア大学ウォートン・スクールMBAを取得。1969年、投資銀行ドレクセル・ファイアストーンに入社。ドレクセルはグループ・ブリュッセル・ランバートに子会社化されて、社名をドレクセル・バーナム・ランバートに改めた。

合衆国は一昨年から財政収支が赤字となり、さらに銀行引受手形市場がユーロクリアの支配するユーロダラーに奪われるようになっていた。株価操縦が行われるなどの混乱を経て、ニクソンショックオイルショック以前から慢性インフレにしてしまった。しばらくは株も債券も不況となり、投信業界はマネー・マーケット・ファンドを売って食いつないだ[注釈 1]

1980年代もインフレの根源となる事情は特に解決されていなかった。そこでビジネスチャンスが人工的に創られるようになった。

それは、最終目標を別として、さしあたりデフォルトリスクを利用することだった。レーガノミクスがインフレに追い討ちをかけて市場金利は高止まりしていた。レイノルズ(現アルコア)のような企業は、経営権を留め置くための直接金融に大変不自由していた。しかしドレクセル・バーナム・ランバートは、そうしたリスクのある社債をすすんで引受けたのである。

格付け会社の評価でリスクプレミアムがついた社債を、ハイイールド債とかジャンク債という。これをドレクセルが引受けた理由は、第一に利回りが良いからである。第二はミルケンがリスク分散する方法を考えたからだった。格付外の社債をひとつずつ売るのではなく、投信と似たパッケージにしたのである。リスク率だけでなく市場価格や利回りも勘案してポートフォリオを組んだ。これは実に合理的な方法であったが、しかし具体的な資産構成は戦前から投信業界で企業秘密だった。1980年代当時はゴールドマン・サックス債務担保証券を発行したり、キャッシュ・マネジメントを使ったMMFを担保に証券化したりする際リスクをごまかした。

フィデリティ・インベストメンツのパトリシア・オストランダーが言うように、ジャンク債の引受はドレクセルの独壇場であった。ミルケンは同僚・家族と寝ずに営業した。ジャンク債を発行する企業もドレクセルのファンドを買う投信会社も激しく入れ替わった。それをミルケンたちがほとんど一元管理した。業務をこなしながらドレクセルはジャンク債発行元の財務状況を把握するようになった。

ドレクセルはコールバーグ・クラビス・ロバーツのジャンク債も引受けた。これを発行する目的はレイノルズと異なって、レバレッジド・バイアウトをするためであった。LBOのうまみは対象企業の財務状況によるため、ドレクセルは資金と一緒に情報も提供した。分相応のM&Aにも同様の対応がなされた。財務状況に関する情報はM&Aに便乗する鞘取りにも流れた。マーティン・シーゲルとアイヴァン・ボウスキーである。ドレフュス商会のカール・アイカーンメロン財閥に近く、ドレクセルを迂回しても情報が得られる立場にあった。こうして債券市場と株式市場の垣根は崩れた。株価の激動するウォール街でミルケンが注目を浴びた。全盛期の年収は、会社からの給料・ボーナスだけで5億ドルを越えた。売上げベースではドレクセルがモルガン・スタンレーを超えた。

1988年12月、ドレクセルのRICO法違反を追及していた米司法当局が、罰金6億5千万ドルとミルケン兄弟のボーナス無支給という司法取引を提案した。ドレクセルの取締役会は取引に応じて違反摘発を免れた。1989年、ミルケンはインサイダー取引や顧客の脱税幇助など95の罪で起訴された。この年、ドレクセルは証券取引委員会の長に会長ポストをあてがって本社への追及を免れた。ジャンクボンド市場は世論から非難されるようになった。ミルケンを解雇したドレクセルは顧客を失い倒産した。

ミルケンは禁固10年の判決を受けた。刑期は司法取引で2年に縮んだ。出所後はかつての顧客を取り戻し、公然とM&Aのアドバイザーなどを務めるようになった。ミルケンは第1回イグノーベル賞を受賞した。リンダ・ゴスデン・ロビンソンによる広報活動が再起に貢献した。癌に病んだミルケンに代わり、ドレクセルとフィデリティがビッグディールを取り仕切った。

2007年時点でミルケンの資産は21億ドルとされ、フォーブスの億万長者ランキングで458位となった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この逆境は英国病にも影響した。

出典[編集]

  1. ^ James B. Stewart, Den of Thieves, Simon & Schuster, 1991, p.48.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]