ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域

世界遺産 ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域
イタリア
ポンペイの考古遺跡とヴェスヴィオ山
ポンペイの考古遺跡とヴェスヴィオ山
英名 Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata
仏名 Zones archéologiques de Pompéi, Herculanum et Torre Annunziata
面積 98 ha (緩衝地域 24 ha)
登録区分 文化遺産
登録基準 (3), (4), (5)
登録年 1997年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
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ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域(ポンペイ、ヘルクラネウムおよびトッレ・アンヌンツィアータのいせきちいき)は、西暦79年ヴェスヴィオ山の噴火によって埋もれてしまったポンペイヘルクラネウム(現・エルコラーノ)の都市遺跡およびトッレ・アンヌンツィアータヴィラの遺跡を対象とするUNESCO世界遺産リスト登録物件である。1997年世界遺産委員会ではイタリアの世界遺産が10件登録されたが、これはそのうちの1件である。

歴史[編集]

紀元前6世紀に建設されたとされるポンペイ[1][注釈 1]紀元前80年以降ローマの傘下に入った[2]。当時のポンペイは海に面した港町で、ローマの文化が多く流入する中で発展していた。港は地中海貿易の拠点として栄え、長らく噴火のなかったヴェスヴィオ山の斜面ではブドウなどの栽培が営まれていた[3]。ポンペイでは羊毛加工と並び、ワインの醸造が主要な経済活動のひとつとなっていたのである[4]

西暦79年の噴火の被災地域

しかし、1世紀には地震が頻発するようになり、西暦62年2月に、その中でも特に規模の大きい地震が一帯を襲い、ポンペイのみならず、近隣の高級保養地ヘルクラネウムなどにも大きな被害をもたらした[5]。現代では、これらの地震はヴェスヴィオ山の活動と関連があったと見なされているが、当時の人々は62年の大地震によって災害のピークは過ぎたと誤認していたという[5]。そして震災からの復興の途上にあった西暦79年8月24日にヴェスヴィオ山は大噴火した。この噴火は13時頃に始まり、水蒸気爆発のあと、大量の軽石が噴出し、周囲に堆積していった[5]。軽石の堆積は1時間当たりにおよそ15cmのペースであったとされ、同じ日の18時には屋根に堆積した軽石によって潰される家屋が出はじめたという[5]。この間、断続的に火砕流が起きたと考えられているが、その最大規模のものは翌朝7時に発生し、周辺の町を住民もろとも飲み込んだ[5]大プリニウスも近隣の町スタビアエ英語版でその火砕流に遭遇し、命を落とした[5]。噴火はその火砕流の少し後、8時頃まで実に約19時間持続していたという[5]

イシス神殿の発掘作業(18世紀)

ポンペイも周辺の遺跡も埋もれたままになっていたが、16世紀には建築家ドメニコ・フォンターナが水路建設の途中で建物の一部を発見した。しかし、このときはまだ遺跡の全体像は認識されていなかった[6]。転機となったのは18世紀にヘルクラネウムの遺跡が発見されたことである。これを契機に1748年からブルボン家のカルロが主導する形でポンペイの発掘調査も始められた[6]1760年に建築家のフランチェスコ・ラ・ヴェーガが発掘作業の指揮を執るようになると、より体系的な発掘調査が行われるようになり、町の南部で大小の劇場だけでなく、エジプトの神イシスを祀る神殿も発見された[6]

復元された犠牲者

19世紀に入ると、まず1812年から13年の調査でフォルムなどが発見され、1830年には「アレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦い」をはじめとするモザイクで飾られた「ファウノの家」などが出土した[6]。そして、1863年に考古学者ジュゼッペ・フィオレッリが、火山灰土中の空洞に石膏を流し込むという手法で、火砕流に巻き込まれた後、遺体が分解した人々の最期の姿を復元する手法を導入した[6]。1875年まで指揮を執ったフィオレッリは、発掘手法の進歩にも貢献し、彼が退いた後も、次々に重要な建造物は発見された[6]。すでに全体の8割が発掘されているといわれるが、残りの2割の発掘はあまりなされていない。これは新しい発掘よりも、既存の出土品・遺跡を後の時代へと伝えていくことの方が重視されるようになっているためである[7]

登録経緯[編集]

ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域の位置(イタリア内)
ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域
ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域

世界遺産センターへの推薦書の提出は1996年7月19日のことだった。世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は現地調査も踏まえて、世界遺産としての「顕著な普遍的価値」を認めたが、ポンペイ、ヘルクラネウムのいずれも、推薦された範囲よりも登録範囲を拡大すべきと勧告した。そして、当初推薦されていなかったトッレ・アンヌンツィアータヴィラの遺跡も含めるべきことも勧告したのである[8]。その年の第21回世界遺産委員会では、勧告を踏まえる形での登録が認められた。

登録名[編集]

世界遺産としての正式登録名は、Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata (英語)、Zones archéologiques de Pompéi, Herculanum et Torre Annunziata (フランス語)である。その日本語訳は資料によって以下のような若干の違いがある。

構成資産[編集]

この世界遺産はカンパーニア州ナポリ県に残るポンペイの都市遺跡および関連するヴィラヘルクラネウムの都市遺跡および関連するヴィラと劇場、さらにトッレ・アンヌンツィアータヴィラなどによって構成されている。

ポンペイ[編集]

ポンペイの街路図。2番の黄緑の道がアボンダンツァ通り、3番の薄桃の道がノチェーラ通り、4番の青い道がノーラ通り、5番の赤い道がスタビア通り、6番の水色の道がメルクリオ通り、番号のない黒い道がフォルトゥナ通り[16]

ポンペイ (Pompeii, ID829-001) は、世界遺産登録面積98haのうちの84.59haを占める都市遺跡である[17]

ポンペイ南部にスタビア門があり、そこからスタビア通りが伸びている。スタビア門から見て通りの右側(北東側)が第I地区とされており、反時計回りに第IX地区までに分けられている[18]。第I地区では1927年から1932年にかけて「メナンドロスの家」が発見された[6]。この家からは多数の金属細工が発見されているほか[19]、残されていた絵画やモザイクの素晴らしさが評価されている[20]。また、ポンペイの主要産業のひとつであった繊維産業に関わる「ステファヌスの縮絨(しゅくじゅう)工房」も第I地区にあり、毛織物を浸すための水槽、脱水用の圧縮機などが使われていたようである[21][22]。こうした毛織物の加工や洗濯を行う工房は他の地区にもあったが、分水場と配管の都合で、スタビア通りの近辺に多く存在していた[23]。ほかに、「クリプトポルティコの家」と呼ばれる、その名の通りクリプトポルティコ(強い日差しや雨を避けて歩ける地下列柱廊)が残る家や[22]ペガサスベレロポン、牡牛に乗ったエウロパなど神話を題材に採った装飾画が残るテルモポリオ(居酒屋)[24]なども第I地区にある。

第I地区とノチェーラ通りをはさんで北東に位置するのが第II地区で、ポンペイ遺跡の東端にあたる[25]。ここには紀元前80年に建てられたアンフィテアトルムや、トレーニング用の大運動場が残されている[26]。大運動場(大パラエストラ)は1935年から1936年の調査で発見されたものだが、そこからは噴火の犠牲者も多く発見されている[6]。この地区には、18世紀半ばの発掘の段階で見つかっていた「ユリア・フェリクスの家」が残る[6]。この家は、住居部分、一般公開部分(浴室)、賃貸部分(店舗など)の3つの要素で構成されており、柱廊に囲まれた庭園なども残っている[26]

第II地区とアボンダンツァ通りをはさんで北東にあるのが第III地区、そこからさらにノーラ通りをはさんだ北西が第IV地区で、これがポンペイ遺跡の北端だが、それらの地域からは特筆される建物は出土していない[18][27]。第IV地区の西に隣接する第V地区では、1891年から1893年の調査で「銀婚式の家」が出土した[6]

スタビア通りをはさんで第V地区の西に位置するのが第VI地区で、市壁に囲まれた区域の中では西端に当たる[18]。市壁には付随していたメルクリオの塔が残されており、塔の上からポンペイ遺跡を一望できる[26]。この地区では、残されたフレスコ画や彫刻が最高傑作の部類に入ると評価されている富裕商人の邸宅「ヴェッティの家」、演劇に関心を持っていたらしいネロ帝と同時代人の邸宅「アモリーニ・ドラーティ(金のキューピッド)の家」、だまし絵を含む絵画が評価されている「アラ・マッシマの家」、テセウスミノタウロス迷宮(ラビュリントス)を題材に採ったモザイク画が残る「ラビュリントスの家」、前述のアレクサンドロス大王のモザイク画が発見された「ファウノの家」、エジプト風の装飾を施した噴水が特徴的な「大噴水の家」、番犬への注意を促すモザイク画が残る「悲劇詩人の家」など、様々な邸宅が発見されている[28]

第VI地区とフォルトゥナ通りを隔てて南側にあるのが第VII地区で、ユピテル神殿、アポロ神殿、ウェスパシアヌス神殿などの神殿群や、フォルム、市場、フォルム浴場、スタビア浴場などの公共施設群が多く残る[18]。スタビア浴場には男湯、女湯とも更衣室、微温浴室、温浴室(男湯は冷浴室も)が残り、運動競技場やプールもそなえていた[29]。奔放な装飾の娼館が残っているのもこの地区であり[26]、ほかにはポンペイで最も有名な肖像画ともいわれる[30]「パン屋の夫婦」が発見された「テレンティウス・ネオの家」も、第VII地区にある。

第VII地区とアボンダンツァ通りをはさんだ南側が第VIII地区で[18]、1760年からのラ・ヴェーガの調査で発見されたイシス神殿、大劇場、小劇場などが残る[6]。5,000人ほどを収容できた現在残る大劇場は1世紀に改築されたものだが、最初のものは紀元前5世紀に建てられていた[20]。それに対し、800人収容の隣接する小劇場(オデオン)はそこまで古くはなく、ローマ人に支配され始めた頃に建てられた[20]。この地区にはほかにウェヌス神殿やバシリカ、選挙の投票所などが残っている[18]。第VIII地区の北側、第I地区の北西に位置するのが第IX地区で、選挙ポスターとして機能した碑文が正面に残る「トレビウス・ウァレンスの家」や、酒や料理を売る店があった[22]

秘儀荘(ポンペイ)[編集]

秘儀荘の壁画

ポンペイの秘儀荘 (Villa dei Misteri (Pompei), ID829-002) は、ポンペイ市壁外に残っていた館で[31]、世界遺産登録面積は0.95haである[17]。1910年に発見され、1929年から1930年の再調査で全貌が明らかになった別邸で[6]、内部に「ディオニュソス秘儀」の壁画が描かれていることから、そのように呼ばれる[31]。ディオニュソス秘教は、当時の南イタリアで流行していた官能性を備えた信仰で、秘儀荘の女主人[32]ないし主人の妻[33]は、その巫女[33]ないし祭司のような存在であったと考えられている[32]。秘儀荘の壁画は儀礼書の朗読、供犠、鞭打ちなど様々な場面が描かれているが、これはディオニュソス秘教の入信儀式に関する秘儀を描いたものと考えられている[33][32]

部屋を飾る壁画は鮮やかな赤地に描かれており、その赤のことが「ポンペイの赤」と呼ばれている[32]ポンペイの絵画は4つの様式に分類されているが、ポンペイの赤を使った壁画は、その中でも最も美しい様式に属し、色彩には硫化水銀が使用されている[34]

ヘルクラネウム[編集]

ヘルクラネウム (Herculaneum, ID829-003) は、現在のエルコラーノで18世紀に発見された都市遺跡で、ポンペイの本格的発掘の呼び水にもなった[6]。人口5,000人ほどだったとされる高級保養地で[35]、世界遺産登録面積は9.42haである[17]

建築物の遺跡としては、アウグスティヌス帝時代に建設された共同浴場、貸家にしようと改装していた途中で被災した貴族の館「宿屋の家」、海神とその妻を描いたモザイク画が残る「ネプトゥヌスアンフィトリテの家」、ヘルクラネウムで最も独創的と評される「美しい中庭の家」、発掘開始200周年に当たる1938年に出土した「200年記念の家」、彫刻やフレスコ画で美しく飾られた「鹿の家」などが残る[36]

ポンペイとの違いは、冷えて固まった土石流の厚い層と地下水による湿度との作用で、木や紙で燃えたり腐ったりせずに残ったものが出土していることである[37]。建築物でも、壁の骨組みとしての木材が残る「木の格子組の家」のほか、「炭化した仕切りのある家」「炭化した家具のある家」などが残る[38]

パピリの館(ヘルクラネウム)[編集]

ヘルクラネウムの「パピリの館」は市壁の外にある壮大なヴィラで、世界遺産推薦の時点でも発掘作業が継続していた[39]。世界遺産登録面積は1.22ha[17]

ヘルクラネウムの劇場[編集]

ヘルクラネウムの劇場 (Theatre of Herculaneum, ID829-005) は、都市遺跡の中心部から外れた場所に建っており、2000人収容可能な劇場であった[40]。世界遺産登録面積は0.17haである[17]

トッレ・アヌンツィアータのヴィラ[編集]

オプロンティスのヴィラ

トッレ・アンヌンツィアータはポンペイとは約2.5 km 離れている[35]。その郊外の遺跡は1964年から発掘が行われ[35]、出土した「オプロンティスのヴィラ」は2つの区画が世界遺産に登録されている。西側の区画がヴィラA (Torre Annunziata: Villa A, ID829-006)、東側の区画がヴィラB (Torre Annunziata: Villa B, ID829-007) で[41]、世界遺産登録面積は前者が1.15ha、後者が0.55haである[17]

オプロンティスのヴィラは皇帝ネロの妻ポッパエアが所有していたと考えられ[35][42]、西側の区画がその皇帝の部屋、東側の区画が奴隷たちの区域となっていたらしい[42]。籠と果物を組み合わせた静物画やクジャクを描いたものなど、美しいフレスコ画が多く残されている[42]

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

世界遺産委員会は個別の登録基準の適用理由を示していなかったが、包括的な適用理由として「西暦79年のヴェスヴィオ山の噴火で埋もれたポンペイとヘルクラネウムの都市群および関連するヴィラ群の印象的な遺跡は、過去の特定の時点における社会と日常生活とを完璧に活写した全体像を提示しており、世界でほかに例がないものである」[43]と説明していた。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 建設年は青柳 (2001) p.44や ICOMOS (1997) p.49 に依拠した。『ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版』(ブリタニカ・ジャパン、2011年)でも紀元前6世紀頃となっているが、『コンサイス外国地名事典』第3版(三省堂)では紀元前8世紀までには建設されていたとされ、『ミシュラン・グリーンガイド イタリア』では紀元前8世紀、『ビジュアルワイド世界遺産』では紀元前7世紀とされている。
  2. ^ 日本ユネスコ協会連盟の訳は、「ポンペイ、エルコラーノおよびトッレ・アヌンツィアータの遺跡」(『世界遺産年報1999』p.19)、「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域群」(『世界遺産年報2004』p.67)と、細かな変化をしてきた。

出典[編集]

  1. ^ 青柳正規「都市と住宅」(青柳 (2001) p.44)
  2. ^ フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.226
  3. ^ 水村 (2004) pp.150-151
  4. ^ アンナマリア・チャラッロ、エルネスト・デ・カロリス「ポンペイの日常生活」野中夏実訳(青柳 (2001) p.88)
  5. ^ a b c d e f g ジュゼッペ・ルオンゴ、アンナマリア・ペッロッタ、クラウディオ・スカルパティ「79年の噴火」藤沢(今井)桜子抄訳(青柳 (2001) pp.18-19)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m エルネスト・デ・カロリス「ポンペイ発掘史」(青柳 (2001) pp.20-21)
  7. ^ 青柳 (2001) p.24
  8. ^ ICOMOS (1997) p.52
  9. ^ 日本ユネスコ協会連盟監修 (2013) 『世界遺産年報2013』朝日新聞出版、p.42
  10. ^ 世界遺産アカデミー監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・下』マイナビ、p.27
  11. ^ ユネスコ世界遺産センター監修 (1998) 『ユネスコ世界遺産13 新指定』講談社、付録p.14
  12. ^ 水村光男監修 (2004) 『ヨーロッパの世界遺産 (1) イタリア・ギリシア』講談社講談社+α文庫〉、p.146
  13. ^ 青柳正規監修 (2003) 『ビジュアルワイド世界遺産』小学館、p.231
  14. ^ 谷治正孝監修 (2013) 『なるほど知図帳・世界2013』昭文社、p.151
  15. ^ 古田陽久 古田真美 監修 (2011) 『世界遺産事典 - 2012改訂版』シンクタンクせとうち総合研究機構、p.81
  16. ^ 街路名は青柳 (2001) pp.14-15による。
  17. ^ a b c d e f Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata : Multiple Locations(2013年10月30日閲覧)
  18. ^ a b c d e f 青柳 (2001) pp.14-15
  19. ^ 青柳 (2001) p.57
  20. ^ a b c フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.228
  21. ^ 青柳 (2001) p.46
  22. ^ a b c フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.229
  23. ^ 青柳 (2001) p.88
  24. ^ 青柳 (2001) p.110
  25. ^ 青柳 (2001) pp.14-15
  26. ^ a b c d フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.230
  27. ^ フランス ミシュランタイヤ社 (1998) pp.228-229
  28. ^ 各邸宅の説明はすべてフランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.230 による。
  29. ^ フランス ミシュランタイヤ社 (1998) pp.229-230
  30. ^ 青柳 (2001) p.89
  31. ^ a b 青柳 (2001) p.197
  32. ^ a b c d 水村 (2004) p.154
  33. ^ a b c フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.231
  34. ^ フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.227
  35. ^ a b c d 水村 (2004) p.156
  36. ^ フランス ミシュランタイヤ社 (1998) pp.117-119
  37. ^ 水村 (2004) pp.156-157
  38. ^ フランス ミシュランタイヤ社 (2001) p.118
  39. ^ ICOMOS (1997) p.50
  40. ^ フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.119
  41. ^ Map : Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata with their buffer zone
  42. ^ a b c フランス ミシュランタイヤ社 (1998) p.200
  43. ^ Committee Decisions 21COM VIII.C Inscription: The Archaeological Areas of Pompei, Herculanum and Torre Annunziata (Italy)世界遺産センター、2013年10月30日閲覧)より翻訳の上で引用。

参考文献[編集]

関連項目[編集]