ポンダー

ポンダー
欧字表記 Ponder
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1946年
死没 1958年
Pensive
Miss Rushin
母の父 Blenheim II
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生産者 Calumet Farm
馬主 Calumet Farm
調教師 Ben A. Jones
競走成績
生涯成績 41戦14勝
獲得賞金 542,275ドル
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ポンダーPonder1946年 - 1958年)は、アメリカ合衆国サラブレッド競走馬、および種牡馬追い込み馬ながらも1949年ケンタッキーダービーを制し、古馬時代にはサイテーショントゥーリーといった強豪馬を破る活躍をした。種牡馬としても同じくダービー馬のニードルズを出している。馬名は英語で「考える」という意味を持つ。

経歴[編集]

出生から3歳前半[編集]

1946年にカルメットファームで産まれたサラブレッドの牡馬で、カルメットファームと関係の深かったベン・ジョーンズ調教師に預けられて競走馬となった。

ポンダーは道中は最後方につけながら、最終コーナーで先頭までまくりあげる追い込み脚質の馬で、それゆえに追い込み遅れて勝ちを逃したと見られる競走も少なくなかった[r 1]。デビューは1948年の2歳時からであったが、同年は4戦するも勝ち上がれず、2着に1回入ったのが最高であった。

初勝利を挙げたのは3歳になった翌年1949年の1月3日で、トロピカルパーク競馬場の未勝利戦にてようやく勝ち上がると、フロリダ開催においてさらに2勝を挙げた。それなりの成績を挙げるようになったポンダーであったが、多数の競走馬を抱えるカルメットファームの陣営からはそれほど期待されておらず、ケンタッキーダービーへの出走候補としても陣営期待のデラックス[1]に次ぐ2番手扱いであった[r 2]

しかしキーンランド競馬場で行われたグレンビューパースという6.5ハロン(約1307メートル)の一般戦において、この2頭の優先順位は突如入れ替わった。ポンダーが4着に入った一方で、デラックスはポンダーから13馬身半も遅れた最下位の6着に敗れていたのである。両者を調教していたジョーンズはこの結果が信じられず、「(デラックスが)ポンダーに12馬身も付けられて負けるなんて信じられない。普段はポンダーが12馬身離されていたのに。」とコメントしている[r 3]。ポンダーとデラックスは続くダービートライアルにも出走し、ポンダーは8ポンドのトップハンデを背負うオリンピア[2]に3/4馬身差まで迫る2着に喰い込んだ一方、デラックスは再び最下位に沈む結果に終わり、どちらがケンタッキーダービーに出るべきかを決定的にした。しかしジョーンズおよびカルメットファームの陣営は、それでもなおポンダーをデラックス以上のものと評価できず、ダービーの3週間前にはジョーンズが「ダービーに出すのは、ちょっとでも賞金にありつければと思ってのこと。競走中に何があっても、オリンピアの尻もなめられないよ。」とコメントしていたほどである[r 4]

カポットとの対決[編集]

同年5月7日のケンタッキーダービーは、オリンピアが単勝1.8倍という圧倒的な1番人気に推されており、その一方でポンダーは単勝17倍の7番人気に留まっていた[r 5]。スタートからオリンピアが先頭に立ち、それにカポットが2番手に続く流れのなか、ポンダーは14頭中の最後尾につけてレースを進めた。3/4マイル(約1207メートル)を過ぎたあたりで、オリンピアとカポットに付いていけなくなった先行集団が下がっていく一方で、ポンダーは最後尾から徐々に順位を上げ始めていった。そして第3コーナーに差し掛かるあたりで6番手に付けると、最後の直線手前で外を回るロスによって疲れ果てたオリンピア[3]を抜いて3番手に立ち、直線において先頭のカポットとパレスティニアン[4]の2頭を抜き去って、カポットに3馬身差をつけての優勝を果たした[r 5]。この競走の走破時計は2分04秒20と平凡なスローペースの記録であったが、ポンダーが最後の2ハロン(約402メートル)で見せた23秒80の上がり時計[r 6]での追い上げは、周囲のポンダーに対する評価を完全に一転させた。

5月14日、ポンダーはピムリコ競馬場で開催されたアメリカクラシック三冠第2戦のプリークネスステークスにも出走し、当日は単勝3.2倍の1番人気に推された[r 7]。しかし当時のピムリコ競馬場[5]は最後の直線の距離が950フィート(約289.56メートル)と短く、後ろから行く馬にとって不利なコースであった。また三冠競走中では最も短い9.5ハロン(約1911メートル)の競走であるため、しばしばマイル以下の路線で活躍する馬が台頭する競走でもあり、これらの条件はポンダーにとって不利に働いた。レースはカポットが前半1マイルを1分36秒60のハイペースで軽快に飛ばし、そのまま先頭でゴールした一方、ポンダーはそれから3馬身以上遅れた5着に敗れた[r 8]

三冠最終戦のベルモントステークスの1週間前に、陣営はポンダーを本番と同じベルモントパーク競馬場で行われるピーターパンハンデキャップに出走させたが、ここでもポンダーはカポットと鉢合わせした。1番人気のカポットがトップハンデ128ポンド(約58.1キログラム)を背負って7着に敗れるなか、それよりも5ポンド(約2.3キログラム)軽い斤量のポンダーは得意の追い込みで優勝を果たした。このときのポンダーとカポットの着差はおよそ10馬身差であった。

6月11日、本番のベルモントステークスは8頭立てで行われ、ポンダーは単勝1.8倍の圧倒的な1番人気に据えられた[r 9]。レースが始まるとカポットが先頭を切り、ポンダーが最後尾につけるいつも通りの展開が1マイルの標識まで続き、そしてそこからポンダーは徐々に順位を上げ、最後の直線に向いたところで先頭のカポットまで2番手のパレスティニアンを挟んで10馬身というところまで追いついた。ポンダーはそこから猛然と追い込み、パレスティニアンを抜いて先頭に迫ったが、ゴールまで半馬身差届かずに優勝を逃した[r 9]

クラシック路線以後[編集]

ベルモントステークスの後、ポンダーとカポットはそれぞれ別の競走路線に向かった。ポンダーはまず6ハロン(約1207メートル)戦の古馬混合戦マートルウッドハンデキャップ、次いで1マイルの3歳限定ナイター競走へ出走したが、いずれも追い込みが不発に終わり4着・3着と敗れている[r 10]

7月30日のアーリントンクラシックステークスは、ポンダーとカポットの最後の対戦となった。この競走ではカポットが勝ち馬から14馬身半離されたブービー5着に終わった一方で、ポンダーは2着馬アドミラルリーに3馬身差をつけて優勝している[r 11]

翌戦のアメリカンダービーではレースレコードとなる2分00秒20[r 12]の記録で優勝した。その次走ナラガンセットスペシャルでは古馬2頭にアタマ差・クビ差届かず3着に敗れたが、再び3歳戦に戻ってローレンスリアライゼーションステークスに勝利している。同年10月、ポンダーは当時2ハロン(約3219メートル)の長距離競走として行われていたジョッキークラブゴールドカップに出走して優勝、古馬混合戦で初めて勝利を挙げた[r 13]

年末の12月26日、ポンダーは6ハロンの一般戦でオリンピアを相手に着外に敗れて、同年のシーズンを終えた。この年獲得した賞金は321,825ドル[r 5]で、これは同年の古馬中距離路線で大活躍したカルメットファームの先輩コールタウンの276,125ドル[r 14]、二冠馬カポットの238,335ドル[r 14]を大きく凌ぐものであり、またカポット相手には6度の対戦[6]で4度先着しているなど、同年の年度代表馬候補として有力な位置にあった。しかし一方のカポットがコールタウンをマッチレースで破るなどの目覚ましい戦果を挙げたため、年度代表馬の座はおろか最優秀3歳牡馬の称号も奪われてしまった[r 15]

古馬時代[編集]

ポンダーは翌年以降も競走を続け、1950年の4歳時には年初よりサンタアニタマーチュリティで前年最優秀古牝馬のトゥーリーを破り、さらにサンアントニオハンデキャップでは一昨年の三冠馬サイテーションイギリスからの移籍馬ヌーアを破る活躍を見せた。以後もそれらに含めてユアホストヒルプリンスらの強豪に混じって活躍を続け、同年ステークス競走5勝を挙げた[r 16]

その翌年の5歳シーズンが最後のシーズンで、この年1戦して着外になったのを最後に引退している。

引退後[編集]

競走生活引退後はカルメットファームに戻り、1952年より種牡馬として繋養された。そして1956年に産まれた初年度産駒の中から、ケンタッキーダービーに勝ったアメリカ殿堂馬のニードルズNeedles 1953年、牡馬)を出している。ポンダーの父ペンシヴもケンタッキーダービー馬であり、これはアメリカ史上2例目の3代制覇記録となった[7]

そのほかの代表的な産駒として、繁殖牝馬として成功したプラムケーキ(Plum Cake 1958年生、牝馬)などを出している。しかし種牡馬入りからわずか6年後の1958年に急死してしまい、それ以外には目立った産駒を残すことはできなかった。ポンダーの遺骸はカルメットファーム内の墓地に埋葬され、現在もその区画は残されている[r 17]

主な勝鞍[編集]

※当時はグレード制未導入

1948年(2歳) 4戦0勝
1949年(3歳) 21戦9勝
ケンタッキーダービー、パンアメリカンハンデキャップ、アーリントンクラシックステークスアメリカンダービーローレンスリアライゼーションステークスジョッキークラブゴールドカップ
2着 - ダービートライアル、ベルモントステークス、ワーラウェイステークス
3着 - ナラガンセットスペシャル
1950年(4歳) 14戦5勝
サンタアニタメーチュリティ、サンアントニオハンデキャップ、マーチバンクハンデキャップ、タンフォランハンデキャップ、アーリントンハンデキャップ
2着 - サンクスギビングハンデキャップ
3着 - サンパスカルハンデキャップ、マンハッタンハンデキャップ
1951年(5歳) 1戦0勝

血統表[編集]

ポンダー血統ハイペリオン系 / White Eagle 母内4x5=9.38%、 Canterbury Pilgrim 5x5=6.25%) (血統表の出典)

Pensive
1941 栗毛 アメリカ
父の父
Hyperion
1930 栗毛 イギリス
Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Selene Chaucer
Serenissima
父の母
Penicuik
1934 栗毛 イギリス
Buchan Sunstar
Hamoaze
Pennycomequick Hurry On
Plymstock

Miss Rushin
1942 鹿毛 アメリカ
Blenheim
1927 青鹿毛 イギリス
Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles Omalley
Wild Arum
母の母
Lady Erne
1934 鹿毛 アメリカ
Sir Gallahad Teddy
Plucky Liege
Erne White Eagle
Orris F-No.23


父ペンシヴは1944年のアメリカ二冠馬、母ミスラッシンは未出走馬である。両親ともに繁殖成績は今一つで、ポンダー以外に特筆するような産駒を出していない。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ デラックスDe Luxe 1946年生、牡馬)は、ポンダーと同じくカルメットファーム生産・所有であった競走馬。父は牧場の主力種牡馬ブルリー、母ネリーエルはケンタッキーオークス勝ち馬と、ポンダーよりも遥かに血統が良い馬であった。
  2. ^ オリンピアOlympia 1946年生、牡馬)はアメリカ合衆国生産の競走馬。フレッド・フーパー所有。2歳時にはブリーダーズフューチュリティ、3歳前半にはアメリカの東西でサンフェリペステークスフラミンゴステークスなどに勝って、ケンタッキーダービーの最有力候補に挙げられていた。ダービー以後はウィザーズステークスなどに勝ち、4歳時は短距離路線でポーモノクハンデキャップやキャムデンハンデキャップなどに勝って活躍した。また1949年にはクォーターホースチャンピオンのステラムーアという馬と2ハロン(約402メートル)の競走で対戦し、これを破る快挙を記録している。
  3. ^ 最終的に6着でゴールした。
  4. ^ パレスティニアンPalestinian 1946年生、牡馬)は、アメリカ合衆国生産の競走馬。2歳時にエンデュランスハンデキャップなどに勝っており、ケンタッキーダービーではポンダーやカポットより上位人気であった。プリークネスステークスで2着に入ったほか、古馬になってからはブルックリンハンデキャップなどに勝っている。
  5. ^ 後の1959年に改修している。
  6. ^ ダービートライアルでも対戦している(カポットは3着)。
  7. ^ 1例目はリーカウント(1928年)・カウントフリート(1943年)・カウントターフ(1951年)の3代。

出典[編集]

  1. ^ Robertson - p.419
  2. ^ Robertson - p.419
  3. ^ ボウラス - p.158
  4. ^ ボウラス - p.159
  5. ^ a b c 1949 Kentucky Derby - brisnet.com(英語・pdf)
  6. ^ Robertson - p.420
  7. ^ Robertson - p.420
  8. ^ Robertson - p.421
  9. ^ a b 1949 Belmont Stakes - belmontstakes.com(英語・pdf)
  10. ^ Robertson - p.421
  11. ^ Robertson - p.422
  12. ^ Robertson - p.422
  13. ^ Robertson - p.422
  14. ^ a b Robertson - p.417
  15. ^ Robertson - p.422
  16. ^ Robertson - p.423
  17. ^ Ponder - Find A Grave (英語)

参考文献[編集]

  • The History of Thoroughbred Racing in America (1964 著者: William H. P. Robertson 出版: Bonanza Books ASIN B000B8NBV6)
  • ケンタッキー・ダービー・ストーリーズ(1996 原著: ジム・ボウラス 翻訳: 桧山三郎 出版: 荒地出版社 ISBN 4-7521-0098-3

外部リンク[編集]