ボズ・バレル

ボズ・バレル
Boz Burrell
1976年。バッド・カンパニーのステージにて。
基本情報
出生名 Raymond Burrell
別名 ボズ
生誕 1946年8月1日
出身地 イングランドの旗 リンカンシャー
死没 (2006-09-21) 2006年9月21日(60歳没)
ジャンル ロックプログレッシブ・ロックハードロックブルースロック
職業 歌手ベーシスト
担当楽器 ボーカルベース
活動期間 1963年 - 2006年
共同作業者 キング・クリムゾン
アレクシス・コーナー
バッド・カンパニー

ボズ・バレルBoz Burrell1946年8月1日 - 2006年9月21日)は、イングランド出身のロックミュージシャン。ボーカリスト、ベーシスト。キング・クリムゾンバッド・カンパニーの元メンバーとして知られる。バッド・カンパニー結成以前はボズBoz) の名前で活動した。

来歴[編集]

生い立ちと初期の活動[編集]

1946年イングランドリンカンシャー、ホルビーチにて生まれる。本名は Raymond Burrell。

1963年にローカル・バンドのロンバード・アンド・ティー・タイム・フォー(Lombard And Tea Time Four)にアコースティック・ギター担当で参加し、ジャズブルースソウルなど黒人音楽をプレイしていた[1]。1965年春、仲間4人でロンドンに移り、ボズ・ピープル(Boz People)というバンド名でマーキー・クラブや各地の米軍基地等を拠点に活動するようになる。ボズ・ピープルは6月にはイアン・マクレガンを迎えて[1]5人編成となったが、10月に楽器を盗まれて解散した。同年11月にはメロディー・メーカー誌に、シングル「マイ・ジェネレーション」がヒットしていたザ・フーロジャー・ダルトリーに代わるボーカリストとして加入する、という虚偽の記事を書かれた[2]

60年代後半には多くのローカル・バンドを渡り歩き、ボズBoz)の名義で数作のシングルを発表した[3]ボブ・ディランの曲をカバーしたシングル "I Shall Be Released/Down In The Flood"(1968年)は、1967年に急逝したジョー・ミークの配下だったデレク・ローレンスが制作を担当し、ローレンスが当時プロデュースしていた第1期のディープ・パープルのメンバーが演奏した[4]

キング・クリムゾン[編集]

1970年10月、当時在籍していたミラーズというバンドがロンドン・マーキー・クラブでのギグを最後に解散した後、ロバート・フリップに紹介されて、プログレッシブ・ロック・バンドキング・クリムゾンのボーカリストのオーディションを受けて合格した[5]。メンバーの一人で木管楽器奏者のメル・コリンズは「ボズは60年代にボズ・ピープルやザ・サイドワインダーズ(The Sidewinders)でミュージシャン仲間によく知られていた。オーディションに来た時点で群を抜いていたので即座に決まりだと思った」と述べている[6]

この時キング・クリムゾンは新しいベーシストも探していたが、適任者がなかなか見つからず、ようやく見つけたスティーライ・スパンのリック・ケンプからもリハーサルの直前に加入を断られてしまった[7]。バレルがスタジオで元トリニティのデイヴ・アンブローズが残していったベース・ギターで遊んでいると、それを見たフリップがギターを弾ける彼にベーシストを兼任させることを思いついた。彼はフリップにベース・ギターの演奏を伝授されて、1971年4月からフリップ、コリンズ、自分と同時期に加入したドラマーのイアン・ウォーレスと共に、ボーカリスト兼ベーシストとしてキング・クリムゾンのステージに立った。

フリップはその後もベーシストを探し続けてジョン・ウェットン[注釈 1]にも加入を持ちかけたが、「フリップがバンドで孤立している為に加入させられるなら、今は加入する時期ではない」と断られている[8]。一方、コリンズとウォーレスはバレルの技術が向上している事を理由にこのままの編成で行くようにフリップに要望した[6][9]。彼は1971年12月に発表されたスタジオ・アルバム『アイランズ』でもベーシストを兼任した。

アイランズ』発表直後、フリップと同じくオリジナル・メンバーだった作詞家のピート・シンフィールドがフリップと対立して解雇された。さらに1972年の年明けのリハーサルでフリップとバレルら3人の間に対立が起こって、キング・クリムゾンは解散することになった。彼等は契約履行の為にアメリカ・ツアーを2月から開始し、それが終了した4月に解散した[10]

アレクシス・コーナー・アンド・スネイプ[編集]

キング・クリムゾンでベース・ギターを学んだバレルは、以後、ベーシストとしての活動に比重を移していった。彼はキング・クリムゾンがアメリカ・ツアーの終了と同時に解散すると、コリンズ、ウォーレスと共にアメリカに残ってアレクシス・コーナー[注釈 2]のバンドであるスネイプ[11]に参加して、スタジオ・アルバムと二枚組ライブ・アルバム、そしてアレクシス・コーナー名義のアルバムの制作に携わった。その後、セッション・ミュージシャンとして様々なセッションに参加した[注釈 3]

バッド・カンパニー[編集]

1973年に元フリーポール・ロジャースサイモン・カーク、元モット・ザ・フープルミック・ラルフスが結成したバッド・カンパニーのベーシストのオーディションに合格[注釈 4]。翌1974年に発表されたデビュー・アルバム『バッド・カンパニー』から1982年の解散前に発表された『ラフ・ダイアモンド』まで、6作のアルバムの制作に参加。在籍中は徐々に曲作りも行なっていった。

その後[編集]

解散後の音楽活動はスタジオ経営のかたわらローカル・バンドでプレイする程度であった。1986年には、ボーカリストにブライアン・ハウを迎えた新しいバッド・カンパニーに参加するが、アルバム1作の制作に携わっただけで脱退。目立った音楽活動からは一線を引いた。

1998年のオリジナル・メンバーによるバッド・カンパニー再結成に参加。1999年には新曲4曲を含んだベスト・アルバムバッド・カンパニー・アンソロジー』発表に伴うツアーで、久々に表舞台に姿を現した。しかし2002年のツアーには、本格的にジャズに没頭したいという理由で、大規模なツアーに消極的なラルフスと同様に参加しなかった。

2000年代に、1960年代からの旧友であるボーカリストのタム・ホワイトの Celtic Groove Connection で活動[12]。エジンバラ大学でのコンサートの映像が残っている。

死去[編集]

2006年9月21日スペインの自宅にて心臓発作で死去した[13]。60歳没。

ディスコグラフィ[編集]

ソロ(シングル)

  • "Isn't That So / You're Just The Kind Of Girl I Want" (1966年2月11日)
  • "Meeting Time / No (Ah) Body Knows Blues" (1966年4月7日)
  • "Pinocchio / Stay As You Are" (1966年6月10日)
  • "The Baby Song / Carry On Screaming" (1966年7月29日)
  • "I Shall Be Released / Down in the Flood" (1968年5月3日)
  • "Light my Fire / Back Against The Wall" (1968年8月16日)

センティピード

  • 『セプトーバー・エナジー』 - Septober Energy (1971年)

キング・クリムゾン

ピート・シンフィールド

  • 『スティル』 - Still (1973年)

アレクシス・コーナー&スネイプ

  • 『アクシデンタリー・ボーン・イン・ニューオーリンズ』 - Accidentally Born in New Orleans (1973年)
  • 『ライヴ・オン・ツアー・イン・ジャーマニー』 - Live On Tour In Germany (1973年)

バッド・カンパニー

ロジャー・チャップマン&ザ・ショートリスト

タム・ホワイト

  • Tam White & The Band Keep it under your hat (1991年)
  • Tam White/Boz Burrell The Celtic Groove Connection (1999年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1973年に、ベーシスト兼リード・ボーカリストとしてキング・クリムゾンのメンバーとなった。
  2. ^ キング・クリムゾンと同じツアーに参加していた。
  3. ^ シンフィールドが1973年に発表したアルバム『スティル』の制作に、ベーシストとしてコリンズ、ウォーレスと共にゲスト参加した。
  4. ^ バッド・カンパニーに参加してからは、コーラス以外歌わなくなった。

出典[編集]

  1. ^ a b Smith (2019), pp. 111–112.
  2. ^ Neill, Andy; Kent, Matt (2007). Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978. Virgin Books. p. 98. ISBN 978-0-7535-1217-3 
  3. ^ Discogs”. 2023年9月30日閲覧。
  4. ^ Discogs”. 2023年9月30日閲覧。
  5. ^ Smith (2019), p. 112.
  6. ^ a b Marquee別冊『キング・クリムゾン』メル・コリンズ インタビュー
  7. ^ Smith (2019), pp. 110–111.
  8. ^ 『UKプログレッシヴ・ロックの70年代』ジョン・ウェットンインタビュー(マーキー・インコーポレイティド、1996年6月)
  9. ^ Smith (2019), p. 113.
  10. ^ Smith (2019), pp. 122–125.
  11. ^ Discogs”. 2023年9月30日閲覧。
  12. ^ Smith (2019), p. 370.
  13. ^ Smith (2019), pp. 370–371.

引用文献[編集]

  • Smith, Sid (2019). In the Court of King Crimson: An Observation over Fifty Years. Panegyric. ISBN 978-1916153004 

参考文献[編集]

  • 『キング・クリムゾン―至高の音宇宙を求めて』(新興楽譜出版社、1981年6月)
  • 『クリムゾン・キングの宮殿 風に語りて』シド・スミス著(ストレンジ・デイズ、2007年7月)

外部リンク[編集]