ヘンリー・キャヴェンディッシュ (第2代ニューカッスル公)

第2代ニューカッスル=アポン=タイン公ヘンリー・キャヴェンディッシュ

第2代ニューカッスル=アポン=タイン公爵ヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish, 2nd Duke of Newcastle-upon-Tyne, KG, PC, 1630年6月24日 - 1691年7月26日)は、イングランドの貴族。初代ニューカッスル公ウィリアム・キャヴェンディッシュとエリザベス・バセットの息子。作家のジェーン・キャヴェンディッシュ英語版エリザベス・エジャートンは姉。

父と共に王政復古ステュアート朝に忠誠を誓い、宮廷で顕職を与えられた[1]1660年から1662年まで王室衣装係英語版を、1662年から1668年まで寝室侍従英語版を務めた。

また庶民院議員にも選出され、1660年仮議会ではダービーシャー選挙区から、翌1661年騎士議会英語版ではノーサンバーランド選挙区から選出された[2]

3人の兄弟が早世したため1676年の父の死後爵位を継承した。同時に貴族院へ移り、ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の王位排除法案に反対、1677年にガーター勲章を授与された。しかし名誉革命後は政治に関わらず、年9000ポンドに上ると言われた所領からの収入で余生を送り、1691年に61歳で亡くなった[1]

息子に先立たれたためキャヴェンディッシュ家は断絶、遺言で全所領は妻フランシスに、死後は第4代クレア伯爵ジョン・ホリスに嫁いでいた四女マーガレット英語版に継承されることになった。遺言で指名されなかった五女キャサリンと夫の第6代サネット伯爵トマス・タフトン英語版は異議を唱えたが、遺言通りに所領はフランシスからマーガレット夫妻に受け継がれ、クレア伯も1694年に新設の形でニューカッスル公を叙爵された[1]

子女[編集]

1652年ウィリアム・ピエールポント英語版の娘フランシスと結婚、6人の子を儲けた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 水谷、P214。
  2. ^ CAVENDISH, Henry, Visct. Mansfield (1630-91), of Bolsover, Derbys. and Welbeck Abbey, Notts.”. History of Parliament Trust. 2019年5月23日閲覧。

参考文献[編集]

名誉職
先代
ノーサンバランド伯
ノーサンバーランド統監
共同:ニューカッスル=アポン=タイン公(1670年 - 1676年)

1670年 - 1689年
次代
スカーバラ伯
先代
ウィドリングトン男爵
ノーサンバーランド主席治安判事
1675年 - 1688年
先代
ニューカッスル=アポン=タイン公
ダービーシャー主席治安判事
1677年 - 1689年
次代
デヴォンシャー伯
ノッティンガムシャー統監/主席治安判事
1677年 - 1689年
次代
キングストン=アポン=ハル伯英語版
先代
マルグレイヴ伯
イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監
1688年 - 1689年
先代
フェアファクス子爵
ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー統監
1688年 - 1689年
次代
フォーコンバーグ伯英語版
先代
トマス・ハワード卿
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監
1688年 - 1689年
次代
カーマーゼン侯
司法職
先代
ニューカッスル=アポン=タイン公
巡回裁判官
北トレント

1677年 - 1689年
次代
キングストン=アポン=ハル伯
イングランドの爵位
先代
ウィリアム・キャヴェンディッシュ
ニューカッスル=アポン=タイン公爵
1676年 - 1691年
次代
消滅