ブロディ

ブロディウクライナ語Броди ブロードィポーランド語:Brody ブロードィロシア語Броды ブロードィ)は、ウクライナリヴィウ州の市であり、ブロディ地区の地区中央である。ハルィチナーヴォルィーニの中間に位置する。有名なユダヤ人都市(シュテットル)の1つ。2004年の人口は、2万3239人。

歴史[編集]

キエフ大公国時代の1084年に建設された。その後、大公国は内部抗争で崩壊し、ブロディも侵略したモンゴル帝国バトゥによって1241年に破壊されたと伝えられる。1441年からポーランド王国貴族に支配されるようになった。そのため西欧の文化的政治的影響を強く受けるようになり、1584年にはマクデブルク法が施行され、都市となった。

1648年にはボフダン・フメリニツキーによりウクライナ領に復帰されたが、その後の講和条約によりポーランドへ返還された。ポーランド分割により、1772年にはハプスブルク君主国領となった。

1804年にはオーストリア帝国領となり、19世紀にはユダヤ人シュテットルとして貿易等で栄え、Broder singer が有名だった。しかし、1881年に始まったポグロムによってロシアからのユダヤ人難民がオーストリア領のブロディの町に毎日数千人規模で殺到し、町は混乱状態に陥った。1882年にはMay Lawsが発布され、ユダヤ人への締め付けが酷くなった。

第一次世界大戦中の1915年からは、一時ロシア帝国の軍隊に占拠された。1918年までオーストリア・ハンガリー帝国領となっていた。その後、ポーランド・ウクライナ戦争ポーランド・ソビエト戦争を経て、1920年までロシア共和国赤軍により占領された。リガ条約によりポーランドの領有が認められた。

第二次世界大戦以前は、住民のほとんどがユダヤ人であった。

1941年6月に戦車戦で有名なブロディの戦い英語版7月1日ナチス・ドイツ軍が町を占領。8月にはウクライナ人住民によるユダヤ人へのポグロムが開始された。1944年7月14日ブロディ包囲戦第14SS武装擲弾兵師団「ハルィチナー」により占拠された。ナチス・ドイツに破壊された結果、現在シナゴーグは廃墟のままになっている。

戦後、西ウクライナはウクライナ・ソビエト社会主義共和国に編入され、ブロディもウクライナの都市となる。1991年にはウクライナがソ連から独立し、ブロディは独立ウクライナの都市となる。ソ連時代に建設された「友好」石油パイプラインが通じており、鉄道ターミナルの分岐点がある。ウクライナ独立後の2001年、オデッサとの間でオデッサ・ブロディ原油パイプラインが開通した。

建物など[編集]

  • 石造シナゴーグ
    • [1](戦前の写真)
    • [2](ドイツ語、廃墟の写真)
  • ヨーゼフ・ロート・ギムナジウム

歴史[編集]

(ポーランド語ウクライナ語の読める方、歴史を解説したページなど発見した方、どうぞ翻訳・加筆してください。)

関連人物[編集]

出身者、居住者

その他JewishEncyclopediaより;

関連項目[編集]

  • 『イスラエル×ウクライナ紀行 東欧ユダヤ人の跡をたずねて』(佐藤康彦 著、彩流社、ISBN 4-88202-431-4、1997年2月)- ブロディが登場する。

外部リンク[編集]