ブライアン・フェリー

ブライアン・フェリー
Bryan Ferry
ブライアン・フェリー (2012年)
基本情報
生誕 (1945-09-26) 1945年9月26日(78歳)
出身地 イングランドの旗 ダラム・ワシントン
ジャンル グラム・ロックアート・ロックR&BソウルフォークロックポップスAOR
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル、キーボード、ハーモニカ、ギター
活動期間 1967年 -
レーベル アトランティック・レコード
共同作業者 ロキシー・ミュージック
公式サイト bryanferry.com

ブライアン・フェリーBryan FerryCBE1945年9月26日 - )は、イングランドロックミュージシャンシンガー、作曲家。ロキシー・ミュージックやソロ活動で有名である。

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第60位[1]

来歴[編集]

生い立ち[編集]

イングランドダラム州ワシントンで、父は農業労働者という労働者階級の家庭で生まれた。5歳の時にピアノ演奏を習い始めた[注釈 1][2]。伯母もしくは叔母が好んでかけていたナット・キング・コールビリー・エクスタインインク・スポッツなどの78回転のレコードを聴いて、1950年代のポピュラー音楽に親しんだ[2]

1963年にアマチュア・ソウル・バンドのバンシーズでシンガーとして活動。苦学しつつニューカッスル大学に入り、ポップアートの先駆的存在とされるリチャード・ハミルトンのもとで美術を学んだ[3]

在学中にザ・ガス・ボード(The Gas Board)という8人編成のバンドに加入。ヴォーカルを担当して、ライヴ活動を行なった[4][注釈 2]。メンバーには、後にロキシー・ミュージックを一緒に結成したベーシストのグラハム・シンプソン、ロキシー・ミュージックのセカンド・アルバム『フォー・ユア・プレジャー』でシンプソンに代わってベースを担当したジョン・ポーター[注釈 3]、映画監督になったマイク・フィギスがいた。

黎明期[編集]

1968年に大学を去って[5]ロンドンに移り、女子校の美術講師をしながら陶芸の創作活動をした[6]。同じくロンドンに移ったシンプソンからピアノを借りて、練習しながら曲を書いた。

1970年、キング・クリムゾンのヴォーカリストのオーディションを受けた。結果は不合格だったが、ロバート・フリップE. G. レコードのデヴィッド・エントホーヴェン(David Enthoven)の電話番号を手渡され、彼に連絡するように勧められた[7]

同年冬、バンドの結成を目論んでメロディー・メーカー誌にキーボーディストの募集の広告を出し、応募してきた木管楽器奏者のアンディ・マッケイを迎え、シンプソン(ベース)と3人で演奏したり曲を書いたりするようになった[8]。まもなくマッケイの友人だったブライアン・イーノが合流してテープとVCS3シンセサイザー[注釈 4]の操作を担当するようになり[9]、バンドとしての体裁が徐々に整っていった。

ロキシー・ミュージック[編集]

1971年、ギタリストとドラマーを迎えたバンドはロキシー・ミュージックと名乗った。フェリーは、アントニー・プライス[10](ファッション・デザイナー)、ニコラス・デ・ヴィル[11][12][注釈 5]視覚芸術家)、エリック・ボーマン[13](写真家)、サイモン・パックスレイ[14](広報)など、将来長きに渡って共に活動していくことになる面々の知遇を得て、デビューの構想を練っていた。

ロキシー・ミュージックは幾つかのメンバー交代劇を経て[注釈 6]、1972年2月14日にE. G. レコードを運営するE. G. マネージメントと契約した[15]。同年、アルバム『ロキシー・ミュージック』でデビュー。グラム・ロックの全盛期にあって、彼等は特異な音楽スタイルと奇抜なファッションで瞬く間に成功を収めた。フェリーは全曲をほぼ一人で手がけ[注釈 7]、時には強権を発動して[注釈 8]グループを牽引した。

1973年、ポーターをプロデュ―サーに迎えたソロ・デビュー作『愚かなり、わが恋』を発表[16]。自作で埋め尽くされたロキシー・ミュージックのアルバムとは対照的に、ボブ・ディランの反戦歌「はげしい雨が降る[17][注釈 9]ビーチ・ボーイズも取り上げた「ドント・ウォリー・ベイビー」、ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」、ビートルズの「ユー・ウォント・シー・ミー」などのカヴァー曲集だった。

1974年、アルバム『アナザー・タイム・アナザー・プレイス (いつかどこかで)』を発表。「ユー・アー・マイ・サンシャイン」、プラターズの「煙が目にしみる」、「ジ・イン・クラウド」、「ワンダフル・ワールド」、ディランの「悲しきベイブ」などを取り上げ、自作はタイトル曲だけだった。12月17日にニューカッスル・アポン・タイン、18日にバーミンガム、19日にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでソロ・コンサートを開いた[注釈 10][18][19]

1976年春、ロキシー・ミュージックのアルバム『サイレン』(1975年)の収録曲「恋はドラッグ」がアメリカでのシングル・チャートで30位を記録[20]。彼等はアメリカ市場を開拓する機会をようやくつかんだ。しかしフェリーは同年6月に解散を宣言し[20]、R&B歌手のウィルバート・ハリスンの「レッツ・スティック・トゥゲザー」のカヴァー・シングル[21]と、エヴァリー・ブラザースの「ザ・プライス・オブ・ラヴ」やビートルズの「イッツ・オンリー・ラヴ」を取り上げた4曲入りEP[22]を発表した[23]。そして同年9月には、これらに収録された楽曲とロキシー・ミュージックの初期の数曲の再録音版を編集して、3作目のソロ・アルバム『レッツ・スティック・トゥゲザー』を発表した[24]。また映画『映画と実録でつづる第二次世界大戦』に「シーズ・リーヴィング・ホーム」を提供した。引き続いて自作だけを収録したアルバム『イン・ユア・マインド (あなたの心に)』を制作[25]し、同アルバムが発表された翌1977年2月にワールド・ツアーを開始[注釈 11]。6月初旬には初来日公演を行なった[注釈 12][26][27]

1975年から1977年にはキャリアのピークを迎える[独自研究?]。「レッツ・スティック・トゥゲザー」(1976年)や「Tokyo Joe(トーキョー・ジョー)」(1977年[28]は彼の代表作に含まれることが多い。

翌1978年に発表された『ベールをぬいだ花嫁[29][注釈 13]は「時の証明[注釈 14]、「キャント・レット・ゴー」[注釈 15]などの自作と、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「ホワット・ゴーズ・オン[注釈 16]J・J・ケイルの「セイム・オールド・ブルース」などのカヴァーから構成された。

1979年、ロキシー・ミュージックを再結成してアルバムを3作発表。『アヴァロン』(1982年)を発表してワールド・ツアーを行なった[30]後、1983年に解散した[31]

ソロ[編集]

1985年デヴィッド・ギルモアマーク・ノップラーナイル・ロジャーズトニー・レヴィンディヴィッド・サンボーンら総勢30人ものミュージシャンを迎えて2年の歳月をかけて制作したアルバム『ボーイズ・アンド・ガールズ』を発表[32]。全曲が自作で、「スレイヴ・トゥ―・ラヴ」「ドント・ストップ・ザ・ダンス」「ウインドスウェプト」がシングル・カットされ、「ドント・ストップ・ザ・ダンス」はアメリカでもヒットした。同年、ギルモアとライヴ・エイドに出演。

1986年、映画『レジェンド/光と闇の伝説』のアメリカ公開版の主題歌「イズ・ユア・ラヴ・ストロング・イナフ?[注釈 17]がヒットした[33]

1987年、E. G. レコードを離れて新しいマネージメントの下で『ベイト・ノワール』を発表。マドンナの作品で知られるパトリック・レナードチェスター・カーメンと共同でプロデュースを担当した。前作に引き続いて全曲が自作で、ジョニー・マーが共作して制作に参加した「ザ・ライト・スタッフ」がシングル・カットされた[34]。1988年には、ロキシー・ミュージックの最後のツアー以来になる約5年ぶりのツアーを行ない[35]、ソロとしては2度目の日本公演も果たした。

1992年に新作『ホロスコープ』を発表する予定だったが制作が行き詰まったので、1993年に代替作としてカヴァー曲集『タクシー』を発表。ロビン・トロワーを共同プロデュ―サーに迎えて制作され、スクリーミン・ジェイ・ホーキンズの「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」、シュレルズの「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」などのブラック・ミュージックヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「オール・トゥモロウズ・パーティーズ」、エルヴィス・プレスリーが1960年に取り上げた「ザ・ガール・オブ・マイ・ベスト・フレンド」などが収録された[36]

1994年、トロワーのプロデュ―スによって、『ホロスコープ』がアルバム『マムーナ』として完成。ブライアン・イーノが様々な音響処理[注釈 18]で全面参加し、「ワイルドキャット・デイズ」で初めてフェリーとの共作者に記載された[37]。発表後、6年ぶりのツアーを行ない、ソロ3度目の日本公演を果たした。

1996年公開の映画『フェノミナン』の挿入歌'Dance with Life (The Brilliant Light)'[注釈 19]を歌った。同曲は同年発表されて大ヒットしたオリジナル・サウンドトラック・アルバムに収録された。

1997年、「Tokyo Joe」が、フジテレビの水曜劇場『ギフト』で使用されて大ヒットし、オリコン洋楽シングルチャートで1位を記録した[38]。同ドラマにカメオ出演[38]

1998年、"Alphaville"と題した新作アルバムの制作が『ホロスコープ』のように[注釈 20][39]行き詰まりを見せ始めたので一旦中止して、新たなカヴァー集の制作を決意した[40]。1999年、1930年代と40年代のスタンダード・ナンバーを取り上げたアルバム『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を発表し[41]、ピアニスト、ハーピスト、ヴァイオリニスト、金管楽器奏者などを含んだ10人余りの編成でツアーを行なった[42]

ソロ活動とロキシー・ミュージックの再々結成ツアー[編集]

2001年、ロキシー・ミュージックを再々結成して大々的なツアーを行なった[43]クリス・スペディング(ギター)、コリン・グッド[44][45](キーボード)、ルーシー・ウィルキンス[44](VCS3 シンセサイザー、ヴァイオリン)、ジュリア・ソーントン[44][46](パーカッション)など、彼の様々なソロ活動を支えたミュージシャンが招聘された。

2002年、デイヴ・スチュワートの協力の下に、"Alphaville"がアルバム『フランティック』として発表された。イーノとの共作「アイ・ソート」では彼がギター、キーボード、コーラスを担当した。ディランの「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」と「くよくよするなよ」、ドン・ニックスの「ゴーイング・ダウン」なども収録された。発表後のツアーで、ソロ4度目の日本公演を果たした。

2007年、全収録曲がディランの楽曲である『ディラネスク』発表。

2010年、『オリンピア』 発表。ジャケットにモデルのケイト・モスを起用。ティム・バックリィの「警告の歌」(Song to the Siren)を取り上げた。

2012年、1920年代のジャズを踏襲したザ・ブライアン・フェリー・オーケストラを結成してアルバム『ザ・ジャズ・エイジ』 発表。ロキシー・ミュージックとソロの楽曲を取り上げた。

2014年、『アヴォンモア』発表。1987年の「ザ・ライト・スタッフ」に続くジョニー・マーとの共作「ソルジャー・オブ・フォーチュン」を収録。

2018年、『ザ・ジャズ・エイジ』の続編『ビター・スウィート』発表。

2019年、ツアーでソロ5度目の日本公演を果たした。ロキシー・ミュージックがロックの殿堂入りし、フェリーは8人の受賞者[注釈 21]の一人として授賞式に出席した。

2023年、3枚組CD『マムーナ/ホロスコープ』発表[47]

音楽性など[編集]

フェリーは、R&Bソウル・ミュージックといったブラック・ミュージックから大きな影響を受けた。一方、ロキシー・ミュージックは、ヨーロッパ的ダンディズムを感じさせるサウンドを基本にして、グラム・ロック全盛期にふさわしい奇抜なファッションによる話題性を提供した。グラム・ロックの路線を変更した後もダンディズムは継承され、今日に至る彼のソロ活動に脈打っている。彼の音楽性の大きな特徴の一つとして、ブラック・ミュージックとヨーロッパ的ダンディズムが共存していることが挙げられよう。

優れたソングライターであり、ロキシー・ミュージックの曲作りの中心を担ってほぼ全曲を手掛けたが、ソロ活動では前述のように他人の曲も多く取り上げた。

ヴォーカリストとして認識されているが、ロキシー・ミュージックではキーボーディストを兼任した。イーノ在籍時に発表された2作のアルバムではシンセサイザーを除く[注釈 22]キーボードの演奏を一手に引き受け、ステージでも基本的には演奏しながら歌っていた[注釈 23][注釈 24]。その後も[48][注釈 25]、ロキシー・ミュージックのアルバムとソロ・アルバムの両方で他のメンバーやゲストと演奏を分担し[注釈 26]、ステージでも頻度は減少したものの数曲では以前のように演奏しながら歌った。多くのアルバムとライブにて披露されているキーボードは、「ぶっきらぼう」な印象を受ける個性的な演奏で、豊かなセンスと限られた演奏技術とが生み出すヘタウマの典型である[独自研究?]

時にハーモニカとギター[注釈 27]も演奏する。彼のハーモニカ演奏はロキシー・ミュージックの「グレイ・ラグーン」[注釈 28]、「エンド・オブ・ザ・ライン」[注釈 29]、ソロの「レッツ・スティック・トゥゲザー」、「シェイム・シェイム・シェイム」[注釈 30]、「アイ・ソート」と「ゴッデス・オブ・ラヴ」[注釈 31]、2000年代半ば以後のコンサートでの「ボス・エンズ・バーニング」[注釈 32]などで聴ける。ハーモニカは本来ブルースの楽器であるが、フェリーの演奏にはソウルフルな味わいがあり[独自研究?]、彼のルーツを知る手掛かりとして興味深い[注釈 33]

エピソード[編集]

ディスコグラフィ[編集]

ロキシー・ミュージック[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

  • 『愚かなり、わが恋』 - These Foolish Things (1973年)
  • 『アナザー・タイム・アナザー・プレイス (いつかどこかで)』 - Another Time, Another Place (1974年)
  • 『レッツ・スティック・トゥゲザー』 - Let's Stick Together (1976年)
  • 『イン・ユア・マインド (あなたの心に)』 - In Your Mind (1977年)
  • 『ベールをぬいだ花嫁』 - The Bride Stripped Bare (1978年)
  • 『ボーイズ・アンド・ガールズ』 - Boys And Girls (1985年)
  • 『ベイト・ノワール』 - Bête Noire (1987年)
  • 『タクシー』 - Taxi (1993年)
  • 『マムーナ』 - Mamouna (1994年)
  • 『アズ・タイム・ゴーズ・バイ - 時の過ぎゆくままに』 - As Time Goes By (1999年)
  • 『フランティック』 - Frantic (2002年)
  • 『ディラネスク』 - Dylanesque (2007年)
  • 『オリンピア』 - Olympia (2010年)
  • 『ザ・ジャズ・エイジ』 - The Jazz Age (2012年)
  • 『アヴォンモア』 - Avonmore (2014年)

コンピレーション・アルバム[編集]

  • 『ストリート・ライフ (20グレート・ヒッツ)』 - Street Life: 20 Great Hits (1986年)
  • 『アルティメイト・コレクション』 - The Ultimate Collection (1988年)
  • 『ザ・ベスト・オブ・ブライアン・フェリー・アンド・ロキシー・ミュージック』 - More Than This: The Best Of Bryan Ferry + Roxy Music (1995年)
  • 『Tokyo Joe - ザ・ベスト・オブ・ブライアン・フェリー&ロキシー・ミュージック』 - Tokyo Joe: The Best Of Bryan Ferry + Roxy Music (1997年) ※日本独自リリース
  • 『ベスト・オブ・LOVE(ブライアン・フェリー バラッド・コレクション)』 - Slave To Love: Best Of The Ballads (2000年)
  • The Platinum Collection: The Best of Bryan Ferry + Roxy Music (2004年)
  • 『ザ・ベスト・オブ・ブライアン・フェリー』 - The Best of Bryan Ferry (2009年)

ビデオグラフィ[編集]

※以下、一部は参考文献より引用[50]

  • New Town(1990年)
  • Live In Paris At The Grand Rex(2001年)

日本公演[編集]

1977年[編集]

※IN YOUR MIND TOUR

  • 6月5日 中野サンプラザ
  • 6月6日 大阪厚生年金会館
  • 6月9日 中野サンプラザ

1988年[編集]

※BETE NOIRE TOUR

  • 10月11日 日本武道館
  • 10月12日 NHKホール
  • 10月13日 名古屋市民会館
  • 10月15日 静岡市民文化会館
  • 10月17日 日本武道館
  • 10月18日 大阪厚生年金会館
  • 10月20日 大阪厚生年金会館
  • 10月21日 川崎市産業文化会館

1995年[編集]

※MAMOUNA TOUR

  • 3月12日 NHKホール
  • 3月14日 福岡サンパレス
  • 3月16日 大阪厚生年金会館
  • 3月17日 東京厚生年金会館
  • 3月18日 東京厚生年金会館
  • 3月20日 仙台イズミティ21
  • 3月21日 中野サンプラザ
  • 3月22日 神奈川県民ホール

2002年[編集]

※FRANTIC TOUR

  • 11月30日 東京国際フォーラム
  • 12月2日 大阪厚生年金会館

2019年[編集]

  • 3月11日 なんばHATCH
  • 3月13日 Bunkamuraオーチャードホール

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一歳上の姉アンは、彼よりも遥かに上手だった。ある日、彼が家で練習していると、帰宅した彼女が部屋に入って来て彼の演奏にけちをつけたあげく、ベートーヴェンの『月光』を弾き始めたので、彼は憤慨してピアノを習うのを止めてしまったという。
  2. ^ R&Bソウル・ミュージックといったブラック・ミュージックの影響を強く受けて、ボビー・ブランドフレディ・キングの楽曲を演奏した。ウィルバート・ハリスンの「レッツ・スティック・トゥゲザー」もレパートリーの一つだった。
  3. ^ ザ・スミスデビュー・アルバムのプロデューサーとして知られる。
  4. ^ マッケイの所持品だったが、イーノが譲り受けた。
  5. ^ 大学時代に知り合った。
  6. ^ オリジナル・メンバーは、フェリー以外は中流階級の出身である。
  7. ^ デビュー・アルバムとセカンド・アルバムの全収録曲、デビュー・シングル曲「ヴァージニア・プレイン」とセカンド・シングル曲「パジャマラマ」は彼の単独作だった。グラム・ロック路線を変更したサード・アルバム『ストランデッド』(1973年)から、数曲をアンディ・マッケイ(オーボエ、サクソフォーン)やフィル・マンザネラ(ギター)など他のメンバーと共作した。
  8. ^ メンバーで一番の人気者になったブライアン・イーノ(テープ、シンセサイザー)が自分の存在を脅かしていると感じて、もうイーノとは仕事をしないとマネージメントに宣言。マネージメントはやむを得ず1973年6月21日、イーノに契約解除を通知した。
  9. ^ 本アルバムで発表された後、1976年までのロキシー・ミュージックのコンサートでも演奏された。
  10. ^ ロンドン公演には55人のミュージシャンが参加した。2020年、ライヴCD"Live At The Royal Albert Hall 1974"が発表された。
  11. ^ 2月初旬から同年7月末まで行なわれた。
  12. ^ 1977年6月5日と9日中野サンプラザ、6月6日大阪厚生年金会館。メンバーはフェリー(Vo, Key, Harmonica)、ウェットン(B, Vo)、クリス・スペディング(G)、フィル・マンザネラ(G)、アン・オデール(Key, Vo)、ポール・トンプソン(Dr)、メル・コリンズ(Sax)、マーチン・ドローヴァー(Trumpet)、クリス・マーサー(Sax)。6月9日には中野サンプラザ公演に加えて、渋谷のNHK放送センターの101スタジオで総合テレビジョンの『ヤング・ミュージック・ショー』の公開録画を行なった。放送日は同年9月10日。
  13. ^ ガールフレンドのジェリー・ホールが1977年の末にミック・ジャガーの下に去ったので、傷心の状態で寒さが厳しいスイスのモンタレーのスタジオに籠って制作した。
  14. ^ 歌詞にアルバム・タイトルが登場する。
  15. ^ ロキシー・ミュージックの1982年から1983年にかけてのツアーで取り上げられた。4曲入りEPザ・ハイ・ロード』(1983年)とアルバム『ハート・スティル・ビーティング』(1990年)に収録。
  16. ^ 「時の証明」と共に、フェリーの髭面が印象的なミュージック・ビデオが制作された。
  17. ^ 後にハウ・トゥ・デストロイ・エンジェルスによって『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)の主題歌として取り上げられた。
  18. ^ "sonic awareness"、"sonic ambience"、"sonic emphasis"、"swoop treatment"、"sonic distress"、"sonic"などと記載された。
  19. ^ バーニー・ト―ピンマーティン・ペイジの共作曲。
  20. ^ 未完成に終わった『ホロスコープ』のレコーディングには、6年の歳月が費やされ112人ものミュージシャンが参加した。
  21. ^ フェリーの他、ブライアン・イーノフィル・マンザネラアンディ・マッケイグラハム・シンプソンポール・トンプソン、エディ・ジョブソン、ジョン・ガスタフソン
  22. ^ イーノはテープの操作とシンセサイザーの演奏を担当した。
  23. ^ 「イン・エヴリー・ドリーム・ホーム・ア・ハートエイク」の前半部では、マッケイがオルガンを弾き、フェリーはマイク・スタンドの前に立って歌った。
  24. ^ 2001年に久々に行なわれたロキシー・ミュージックのコンサートの幕を自分のキーボード演奏で始まる「リ・メイク/リ・モデル」(デビュー・アルバム収録)で開けたのは、まさにデビュー当時の再現を意図した演出であろう。
  25. ^ イーノに代わってエディ・ジョブソン(キーボード、ヴァイオリン)が加入すると、コンサートではジョブソンにキーボード演奏を任せて、メンバーが一曲目の演奏が始めた後におもむろに登場すようになった。ステージできらびやかな衣装を着てテープやシンセサイザーを操作するイーノに人気を奪われてしまった苦い経験からか、ステージ中央のマイク・スタンドの前に仁王立ちになって、あたかもバック・バンドを率いているかのような印象を与えるようになった。
  26. ^ ロキシー・ミュージックのアルバム『フレッシュ・アンド・ブラッド』(1980年)と『アヴァロン』(1982年)の収録曲毎のクレジットによると、彼は殆んど全ての曲のキーボードを演奏した。
  27. ^ ロキシー・ミュージックのアルバム『フレッシュ・アンド・ブラッド』(1980年)のタイトル曲でギターを単独で担当し、『アヴァロン』(1982年)の「インディア」ではギター・シンセサイザーを演奏した。イーノ在籍時のロキシー・ミュージックのステージ映像で、「イン・エヴリー・ドリーム・ホーム・ア・ハートエイク」の後半部分でリズム・ギターを弾く場面が存在する。
  28. ^ セカンド・アルバム『フォー・ユア・プレジャー』(1973年)収録。
  29. ^ 『サイレン』(1975年)収録。
  30. ^ ジミー・リード作。アルバム『レッツ・スティック・トゥゲザー』(1975年)収録。
  31. ^ 『フランティック』(2002年)収録。
  32. ^ ロキシー・ミュージックのアルバム『サイレン』(1975年)に収録された原曲には、ハーモニカ演奏はない。
  33. ^ 『レッツ・スティック・トゥゲザー』ではメル・コリンズのサックスと聴き比べることもできる。
  34. ^ 当時の妻ルーシーと、息子のアイザック、タラ、メルリン。新年の休暇をザンジバルで過ごす為にナイロビの空港に向かっていた。

出典[編集]

  1. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
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  5. ^ Buckley (2004), p. 31.
  6. ^ Buckley (2004), pp. 32–33.
  7. ^ Smith (2019), p. 110.
  8. ^ Smith (2019), pp. 34–37.
  9. ^ Smith (2019), p. 37.
  10. ^ Buckley (2004), pp. 50–52.
  11. ^ Discogs”. 2024年2月23日閲覧。
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引用文献[編集]

  • Buckley, David (2004). The Thrill of It All: The Story of Bryan Ferry & Roxy Music. London: Andre Deutsch. ISBN 0-233-05113-9 
  • Smith, Sid (2019). In the Court of King Crimson: An Observation over Fifty Years. Panegyric. ISBN 978-1916153004 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]